お話はおしまい 

 腕。


 腕が。

 生えていた。

 しずりの小さな肩から、巨木が生いるように、一本の腕が伸びている。


 それは、灰褐色の肌をしていた。

 鉄骨を捩ったように骨ばった形。

 所々に、縮れた毛が生えている。

 根元はしずりの太腿程だが、伸びるに連れて、胴よりも太くなっていく。

 優に二メートルはあろうかという巨大な腕。

 その腕が、四体の紙人形を握り潰し、壁に叩きつけている。


「くっ」

 杏子が咄嗟に腕を振ると、異形の腕の中で、紙人形が解けた。

 空中に飛散した紙の群れは再び寄り集まって、今度はその数を倍に、体積を半分にしてしずりを取り囲むように舞い降りる。

「本体を狙え!」

 杏子が短く叫ぶ。


 ざわざわと蠢く木偶人形。

 周囲八方を囲まれ、 

 それでも、しずりの顔は凪いでいた。


「ごめんね。お願い、『サー・デューク』」


 困ったような声で、ぽつりとそれだけ漏らす。

 暴風が起こった。

 二体の紙人形が、灰褐色の奔流に呑み込まれ、消えた。

 それは、しずりの背後、即ち、かずいの目前に降り立った二体だった。

 その巨体に似合わぬ速度で振るわれた怪腕は、次に、更に二体の紙人形を掴み上げると、空中へと放り投げる。

 その先にいた、今正に躍りかかろうとしていた別の紙人形をまとめて弾き飛ばすと、返す刀で目前にいた紙人形を、まるで虫でも潰すように床へと叩きつけた。


 一瞬で六体の人形を撃破された杏子は、自身を守るように、残り二体の下僕を体の前に配した。

 それを嘲笑うかのように再び一撃で二体を薙ぎ払った巨腕は、杏子の体を鷲掴みにすると、教室の壁に叩きつけた。


「うくっ」

 杏子の肺から、空気が絞り出された。

 教室の端々へと飛散した紙片は一瞬浮き上がったものの、直ぐ様ぱらぱらと、力を失ったように床に落ちる。

 杏子の顔が、苦しげに歪められる。

 身動きが取れない。


 腕の動きを、杏子は全く目で追えなかった。

 赤縁の眼鏡の奥、しずりの瞳は、いつの間にか山吹色の光を湛えていた。

 瞳孔が縦に引き伸ばされ、針のように尖る。

 キャッツ・アイ。

 杏子は理解した。


(この子は、やばい、、、


 今この腕にちょっとでも力が入れば、自分の体はたやすく握り潰されるだろう。

 レモンでも絞るように、肉も骨も内蔵も、まとめて皮膚から弾け飛ぶ。

 それを、この子は平然とやってのけるだろう。

 生暖かい腕から伝わってくるのは、決して激しない、滴るように静かな殺意だった。

 自分がまだ生きていることが信じられなかった。


(この力、『問題児』なんてレベルじゃないわ。それこそ、全中連の幹部連中……)

 杏子の背筋を冷たい感触が下る。


「日野くんに、感謝してください」

 しずりが、あくまで杏子に目線を合わせずに、ぽつりと呟いた。

「私ホントは、あなたの妹さんのところに行って、説得するつもりだったんです。おかしなことはしないでね、って。でも、日野くんが荒事にはしたくないって言うから、黙ってたんですよ」

 そう言って、しずりは、杏子を手放した。

 巨大な怪腕が、主人の前に控える忠犬のように、しずりの体の後ろに折り畳まれる。


 しばらくは咽せこんでいた杏子だったが、やがて呼吸を整えると、苦しげに言葉を搾り出した。

「それは、よかったわ。あの子、怖がりだから。でも、私は見逃してくれなかったのね」

 不遜なセリフはかろうじて崩れなかったが、その笑みは恐怖に引きつっていた。


「あなたも、です。日野くん、多分今日、書道部が休みだって知ってたはずなんですよ? この教室にあなたが一人で居ることも。こんな回りくどいことしなくても、最初から私一人で行って、説得おはなししてもよかったんです」


 その言葉を聞き、杏子は己の迂闊さを呪った。

 先ほど、何度となく見たかずいの行動の意味。

 杏子としずりの間に立ち、会話に割り込み、彼女を庇うようにその背に隠していた、その行動。


(……逆だった)


 庇われていたのは、杏子の方だったのだ。

 彼は先ほどから、ただひたすらに抑え込もうとしていた。

 この、規格外の怪物を。


 ごくりと、酸っぱい唾を飲み込んだ。


「あら、それなら私も、もっと楽だったのだけど。どうしてそうしてくれなかったの?」

「あの、もういいですか? 私、あなたとお喋りするの、苦手なんですけど」

「非道いわね。さっきのこと、気にしてるの? 大丈夫よ、あなた可愛いわ。彼もその内振り向いてくれるわよ。その腕がなければだけど」

「……日野くんとは、そういうのじゃありません」


 そっけないしずりの答えに、杏子は毒の言葉で以てその隙を伺う。

 しずりの目の山吹色の光が俄かに輝きを増し、杏子がもう一度、紙の束に力を通した時だった。


「みやま……もういい」

 蚊の鳴くような声が、割って入った。

 かずいが机に手をつきながら、精一杯顔を上げて、杏子を見上げている。

 どうやら喋れる程度には回復したらしいが、その顔は青白く、軽い貧血を起こしていることが窺えた。

「日野くん」

 あっけなく眼の光を収めたしずりが、そこに駆け寄る。

「……悪かったよ。見栄を張った。ごめん。それから、ありがとう。助かった。でも、もう大丈夫だ」

 息も切れ切れにそれだけ言い切ると、しずりの反応を待った。

「そう?」

 その口元が、柔らかく綻ぶ。


「じゃあ、もうお仕舞いだね。藍ちゃんとは?」

「もう切れてる」

「そう。じゃあ、電話しとくね」

 そう言って、しずりはあっさりと、教室から出ていった。

 程なく廊下から、誰かと喋るしずりの声が聞こえてきた。

 その間、残された二人は、しずりが出ていった扉から、目線を外さなかった。


「ねえ、かずいくん」

 おもむろに、杏子が口を開いた。

「何ですか」

「私、死ぬかと思ったわ」

「……だったら、余計な挑発しないでください」

「ちょっと漏れちゃったかも」

「聞きたくないです」


 溜め息を一つ吐いて、杏子は床に座り込んだ。スカートの裾ごと、内腿を抱く体育座り。

 かずいも手近な椅子に腰を下ろす。重い疲労と深い安堵が、二人を立たせて置かなかったようだった。

「さっきも言いましたけど、俺達に、先輩のことを追求する気はないんです。柏木優香をこれ以上どうこうするつもりがないなら、俺達はもう手を引きます。一応巽に報告だけはさせてもらいますけど」

 それを聞いた杏子は、もう一つ溜め息を吐いて、頷いた。

「そうね、仕方ないわ。私、負けちゃったものね。でも、かずいくん。これは本当、君のことを心配して聞くんだけど」

 そう言って、廊下の方を見やる。


「あの子、大丈夫?」

 何が、とは言わず、それだけを問うた。

 かずいは、特に気にした様子もなく答える。

「大丈夫ですよ。俺は一年の頃からの付き合いですけど、あいつが能力を使うのは、多分今日で三回目です」

 その答えに、杏子は天井を仰いだ。


「とんだラッキー・デイだわ。今週の『森』は何位だったかしら。一応聞くけど、あれ、『肉』よね? それも、身体変化じゃないわ」

「ええ。召喚能力ですよ。『肉』属性の召喚能力は、『星』並みにレアだそうです」

「あの子は、なんであんな能力を?」

「以前話してくれました。『ベッドに寝っ転がりながら本棚の本を取ろうとしたら、手からもう一本腕が生えた』、と」

「それ、信じたの?」

「はい。友達ですから」

 杏子の目が細められる。


「そう、ならいいわ。もう行ったら? また怒られるわよ」

「先輩は?」

「散らかしちゃったから、片付けないと」

「すみません」

 その時、廊下から、かずいを呼ばう声が聞こえた。


 杏子が力なく微笑む。

「気にしないで」

「はい。では、失礼します」

 そう言って立ち上がると、かずいはまだふらふらとした足取りで、出口へと歩いていった。

 その背中に、声がかかる。

「そうだ、かずいくん、頑張ったご褒美に、いいこと教えてあげる」

「?」

 振り向いたかずいは、精一杯艶然とした微笑みを作り、こちらを見上げる上級生の顔を見た。


「あのね――」


 ……。

 …………。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る