2023年 ——震災から12年――

震災から12年が経って。


 これまでの章を以前読んでくださった方々には、お久しぶりです。初めて読んだという方々には、はじめまして。未翔完みしょうかんと申します。

 このエッセイは本来3月11日に投稿すべきものだったのですが、別のエッセイを書いていたもので投稿が遅れました。そもそも去年の分を書いていないじゃないか、という話ですが。僕は現在18歳で、お陰様で先日高校を卒業いたしました。去年の3月は大学受験の勉強で執筆をストップしていた時期で、その為に投稿できなかったという背景があります。ご容赦ください。現在は進学先の大学が決まり、時間に余裕がありますのでエッセイを書いていきたいと思います。これからはなるべく毎年、3.11に関するエッセイを投稿していきたいと考えていますので宜しくお願いします。

 

 それでは本題へ。

 あの東日本大震災から12年が経ちました。月日は移ろうもので、僕は受験関連のことで脳内が占拠されており、今年の2・3月になっても3.11のことが頭の片隅に追いやられていました。しかし自分が4年前に残したエッセイを一度読んでみれば、あの時に自分が何を感じて何を考えていたのかが沸々と鮮明に蘇ってきます。

 ただ、自分のように被災者とも言えないレベルの東日本大震災経験者ならばともかく、実際に家族・友人・知人や住居などを震災で失って心の傷を負った人々に対していつまでも〈3.11を忘れない〉等と当時の津波の映像などのメディアを用いて訴えかけるのは果たして正しいことと言えるのか、自分の中で葛藤があります。これは単にマスメディア批判で言っているのではなく、自分が残すエッセイやその他の人々が記したものにも敷衍ふえんして言えることです。というのは先程述べましたように、僕自身が自分の残したエッセイを読み返すことで当時の自分の感想・思考を呼び戻す、より端的に言うならば読み取ることができました。これは他人が読んでも同じことです。僕が他人の書いたエッセイを読んでも同じことが言えます。映像や文章に限らずあらゆるメディアには超時間性がありますから、プロバイダが消失しない限りはそのメディアで表現された内容はいつ見ても変わることはありません。しかし読み取った内容は同じでも人によって感じ方は異なり、3.11を例に取れば被災者の方々がそのようなメディアに触れた時に受けるショックというものは、そうでない人々に比べて格段に大きいものです。いわばトラウマとでも呼ぶべきものです。勿論、次なる大地震に備え、それに伴う二次・三次災害を防ぐ為の教訓は後世に伝えていかなければならないものですが、毎年3月11日になる度に〈大地震は恐ろしい〉と殊更に強調し、震災当時の津波によって家屋が流される映像を流したり、とびっきりの修辞法を生かして必要以上に仰々しく地震や津波の脅威を描写したりすることが、果たして残された人々の為になることなのでしょうか。そしてそんなエッセイを自分が書いてはいないだろうか、というのが僕の最大の懸案です。過去の自分のエッセイを見直してみて修正できるところは修正したいですし、今後も気を付けたいです。テレビの報道番組ならともかく、個人がカクヨムで各々上げているエッセイにまでそこまで目くじらを立てる必要は無いのではないか、という疑問は尤もです。しかしメディアの規模や性質の違いに関わらず、人々に大震災の記憶を必要以上にフラッシュバックさせる演出や描写などは避けることをメディア制作・創作者は心構えとして持っておくべきなのではないかと僕は考えます。ただ、こういうことを主張する場合は必ず〈嫌なら見なければ良い〉という意見が多く出るのは宿痾しゅくあであります。重ねて言いますが、テレビなど日常的に触れざるを得ないメディアとカクヨムのエッセイといった限られた人が読むメディアとの規模や性質の違いに関わらず、メディアの制作・創作者は被災者の方々に配慮した活動を行うべきであり、そのような倫理観を保持すると共に発信者としての責任を自任する必要があります。

 

 このような話をするのは、3月の上旬にとあるアニメ映画を見たことを契機としています。恐らく殆どの人は知っていると思いますが、新海誠監督の〈すずめの戸締まり〉という映画です。ネタバレになるかもしれませんが、この映画は東日本大震災を経験した少女を主人公とする物語です。一人のアニメオタクとして、創作者として見た時、この映画は非常に素晴らしい作品でした。新海誠作品ならではの美麗な作画に、それを更に引き立てる劇伴の数々。そして序盤から急展開の連続で目が離せない

展開。次第に明らかになる様々な謎や伏線。一人の被災者である少女が物語を通じて、辛い過去を乗り越えて未来へと進んでいく。震災から12年になる今年になって、新海誠監督の3.11に対しての想いが伝わる力作だったと思います。

 ただ一つ言及したいのは、この映画に対する批判として多い部分でもある〈リアル過ぎる東日本大震災の描写〉についてです。緊急地震速報が流れる描写や地響き・津波の描写など。美麗であるが故に忠実すぎる作画とそれを更に引き立てしまう程に見事な音響。僕が映画を実際に見た際はかなりドキリとさせられました。僕でさえそうなのですから、被災者の方がこれを見た時には僕が推し量ることもできない程の想いが募るのだろうなと考えると、手放しで『素晴らしい演出だ』と評論家然として称賛することはできません。本作ホームページ上に注意書きがあるのでこの作品の落ち度ではない、嫌ならば見なければ良いと言ってしまえばそれまでです。誰しも表現の自由がありますから、このような部分も〈すずめの戸締まり〉という作品を構成する不可欠要素であるとして擁護することもできます。しかしそれは、僕が一人の創作者であるという視点に立った時のものです。自分の作品の一部分が、何か特定の人々に対して配慮を欠いていたからといって批判される。ただ一部分だけを見て批判され、自分の作品を否定される。そんなことには耐えられない。表現の自由を行使して、何としてでも自分の作品の存立を保障しようとするでしょう。だから、他の作品に対しても同じことはしない。他の作品の、今回で言えば〈すずめの戸締まり〉という作品の存在を否定することはしません。作品の存在を否定するということはつまり、その作品をそのままの状態で世に出したり、衆目に晒すことすら認めないということです。それは一人の創作者として許せることではありません。ところが、自分がただの創作者ではなく、3.11に関するエッセイを投稿するメディア制作者であるという視点に立ってみると、立場は逆転します。被災者に対して無配慮だという理由で僕の3.11に関するエッセイを修正または削除すべきだという批判があるのなら、僕は指摘された部分をすぐにでも修正するでしょうし、場合によっては削除するでしょう。何故なら、このエッセイは単に自分の経験談や感じたことを書き表して投稿しているのではなく、なるべく被災者の方々に寄り添おうと思いながら書いたものだからです。勿論、完全に被災者の方々の気持ちを推し量ることなど不可能です。このエッセイが批判される謂れがあるとするならば、それに起因する無配慮からでしょう。月並な表現ですが、その批判を僕は真摯に受け止めたいと考えていますし、より多くの人々に自分の想いが伝わるようなエッセイになってくれと切に願います。故に、僕はこのエッセイを書く者として〈すずめの戸締まり〉を批判します。既に全国上映されて多くの観客を動員している本作ではありますが、より地震描写などに対する注意書きを徹底し、できるなら当該シーンでの音響などを極力抑えるべきです。ブルーレイ版や地上波放送の際は、その部分を中心に修正を加えるべきだと考えます。この批判が制作陣に伝わる伝わらないに関わらず、この場で自分の意見を表明することにします。


 さて。自分がこのエッセイにどれだけ思い入れがあったのか、過去の文章を見返す度に思い返すことができました。そして自分のエッセイが、被災者の方々のトラウマを抉るような内容になってはいないかと自省する契機となりました。

 僕は来年の3月にも、3.11に関するエッセイを投稿します。それ以外にも特筆すべきことがあればエッセイとして投稿することにします。どうか読んでくださると幸いです。そして願わくば、東日本大震災から得られた教訓が後世に正しく伝わり、今を生きる私達や後世の人々が教訓を生かし、より多くの命が救われんことを。


                  西暦2023年3月25日0時14分 みしょうかん

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