『3・11』を忘れないで!

押羽たまこ

01|東京の片隅で経験した『3・11』


2011年の3月11日(東日本大震災の日)


その日―――私は、朝から体がだるくて、その日の仕事(ホテルのメイド)を休んで、ベッドの中でうたた寝をしていました。


午後2時半をすぎた頃…とつぜん、地面から突き上げるような振動があり「お?地震だな?」と思って、まず《絵》を押さえました。


その《絵》はベッドの横にかかってる大きめの額にはいった天野善孝あまのよしたかさんのリトグラフで――それは震度3ぐらいでも揺れるので、とりあえず《地震がきたら絵を押さえる》というのは一連の流れなのです。


いつもなら「ああ、またゆれてる、ゆれてる…」と思いつつも「起き上がるまでもないか…」と、そのまま、また寝てしまうんですが、そのときの振動は、どん!どん!と、本当に地の底から巨人が拳をつきあげているかのような、いままでに経験したこともない揺れだったので、いっしゅんで目が覚め、絵を押さえ、しかし、それでもなお揺れはおさまらず、しまいにはグラグラと激しく揺れ動いたので、「これはただの地震じゃないッ!?」と気づきました。


気づいたはいいけれど、グラグラゆれてる部屋のすみで絵を押さえる以外、なにもできません。


そのうち、本やCDやDVDがつまっている棚から、それらが泥のようにだらだら~っと崩れ、クローゼットのまえに置いてある姿見すがたみがバッターンと倒れてきました。


ようやく揺れがおさまり、床に散乱した本やCDやDVDを拾い、棚におさめ、姿見を起こし、ベッドに入ろうとしたとき…また、地面からつきあげるような揺れが――――!


それは、《揺り返し》でした。


そして、それは、再現フイルムのように、また棚から本やCDやDVDが泥のようにだらだら~っと崩れ、姿見がバッターンと倒れ、私は必死に《絵》を押さえるという…


不謹慎かもしれないけれど、そのとき、私は笑いが込み上げてきてしまって、ひとりで笑っていたことを思い出します。


「な、なにこれッ!?志村けんのコントみた~い!」


そのときの私は、まだ、東日本の現状を知りませんでした。


それから、ようやく、揺れがおさまり「まず、ニュースだ!ニュースを見なきゃ!」と思い、すぐにテレビをつけました。

そして、そこではじめて、震源地が東北であることや、そうとう大規模な地震だったことを知るのです。


どのチャンネルをまわしても、そのニュースしか流れていないという現状に、まず驚き、つぎつぎと入ってくる《ありえない》情報に耳を疑いました。


「え?津波…???」


「え?行方不明者…1万人…以上???」


まるで、CGを駆使したハリウッド映画を観ているかのようなありえない光景。


地震後も、どんどん加速して広がる被害。


私は、ただただ、あっけにとられながら、テレビ画面を見つめることしかできませんでした。


私の実家はとなり町だし、親戚も東京と栃木で、東北に知り合いはいなかったので、安否を確認しなければいけない人もなく、他人事といえば、他人事…。


けれど、なんだろう…この心をワシ掴みにされたような、なにかしなければいけないような《使命感》というか…そわそわと落ち着かない気持ち。

それは、自分の中にある《不安》や《絶望》を払拭したいと願う、逃げ道のような気もするし…とにかく、なんだかよくわからない《動揺》が私の中にありました。


けれど、すぐにでもボランティアとして東北にいくという勇気も、行動力も、資金もなく、それどころか、じつは、自分の明日の生活にも影響がおよんでいようとは…そのときの私は、まったく想像すらしていませんでした。


そう。震源地が東北だとわかって、どこかで《他人事》のように思っていた私ですが、東京も震度6だったんですよね。《関東大震災》と同じ数値です。


大正時代とは違い、大火事も暴動もなかったですが…大都市東京に大ダメージ、大混乱をあたえたのは確かです。


その夜にはちまた帰宅困難者きたくこんなんしゃがあふれ、『東京も電気の供給制限をする』と政府が宣言し、次の日、スーパーに行って驚いたのは、トイレットペーパーと、水と、お米と、パンが姿を消していたことでした。


「うそでしょ!?オイルショックの時代じゃないんだから、トイレットペーパーがないってどーゆーことッ!?」


それは、『《買占め》が始まるまえに先に買占めとけ!』という集団心理がそうさせたのです。おそるべし集団心理!!!です。


じつは、そのとき、私の家には、トイレットペーパーが3ロールしかなくて、「そろそろ買わなくちゃなぁ…」と思っていたときだったので、相当あせりましたし、じつは、今でもトラウマになっていて、トイレットペーパーは棚にいつもぎっしり積んでないと安心できないという…そういう体質になってしまいました。


たかがトイレットペーパーでトラウマになるぐらいです。


被災者の人のダメージがどれほどのものか…それは、本当に想像を超える不安、絶望、痛み、悲しみだっただろうと、いまでも思うのです。


水も、お米も、パンも、缶詰も、なぜか煎餅せんべいも(!?)スーパーから姿を消し、どうやってやり過ごしていたのか…そのへんは、あまり記憶にありません。


ひとつ覚えているのは、100円ショップに行ったとき、ちょうど《パン》が入荷したところで、店員さんが、それを台に並べはじめたところ、いっせいに「われ先に!」と人が群がって、ブランド品のバーゲンセールのように殺到したところをたりにしたときは「戦後の闇市か!」と、心の中でツッコミを入れました。


しかし、そういう自分もちゃっかりメロンパンをゲットして、その喜びを友人にメールしてたりするので…ほんと、人間の欲って見境がないなと、思ったり、思わなかったり…。です。


そのあとは、安否確認(?)のメールのやりとりを数人の知り合いとしてました。


メロンパンGETを報告した友人はじめ、そのころマガジンで漫画家デビューしたての通称『のむにぃ』からメールがきて、


『ねーさん、大変!東京に雨が降ったら、ぜったい傘をささなきゃダメだよ!原発の影響で酸性の雨がふるらしいよ!』


「ええ!?それは大変!!!」


私はさっそく兄に知らせました。すると、数分後にまた『のむにぃ』からメールがあり、


『ゴメン!ただのデマだった…』


「なんだよ!デマかよーー…」


そして兄に「デマだって」とメールすると「そうだと思ってた」と返信が…。


そんな世話しないやりとりをしてる間も、テレビでは目を覆うような画面が、なんどもなんどもくりかえしうつし出されます。


どのテレビ局も、同じ映像、同じ《公共広告機構こうきょうこうこくきこう》のCMばかり。


…かといって、テレビを消しても、暗澹あんたんたる気持ちになるばかりだし、気分転換にどこかへでかける気力もない。

仕事は一週間の休みをもらったので、働きに行くこともできない。

行ったとしても、ホテルの稼動はガタ落ちで、仕事なんてありませんでした。


通常なら、一週間も休みがあれば、本も読めるし、映画も観れるし、当時はまだ漫画を描いていたので、その作業を進めることもできました。


けれど―――なにをやっても、津波の映像が頭から離れず、そのことしか考えられず、かといって地震を題材に物語をつくるには、まだ、あまりにも生々しすぎてそれもできず…ひとり、部屋の中で、精神的にどんどん追い込まれていきました。


「せめて『笑っていいとも!』だけでも始まってくれないかなぁ…」


そう思いました。


私は、とにかく、笑いたかったんですよね…。


しかし、世の中は自粛ムード一色で、東北が悲惨な目に合ってるのに《笑う》なんて不謹慎なことを、《しばり》の多いテレビ局がするはずありません。


私は、とうとう笑わなくなりました。


いま思えば、それは《笑いたかった》というより、《いつもの日常を取りもどしたかった》ということだったのかな?と、思っています。


明日も、あさっても、ずっとずっと続くと思っていた未来が、とつぜんバッサリと、乱暴に切り離されてしまったことに対する、恐怖、不安、とまどい、絶望…そんな思いから、一秒でも早く解放されたかった。


それは、東京で暮らしてる人たちも、東北で暮らしてる人たちも、この地震で日常を壊されてしまった人たちが抱えている《恐怖》だったような気がします。


『一秒でも早く、日常をとりもどしたい!』


だから、私は、いつも見ていたお昼の番組『笑っていいとも!』が見たくてたまらなかったんです。それを見て、日常を感じたかったんです。


そして―――私が笑わなくなってから4~5日目でしょうか?


忘れもしない…トイレに入って、便座にぼーっと座っているときのことでした。


『〇〇ちゃん!ダメだってばぁーー!きゃっきゃっきゃ…』


そんな声が、トイレの換気口から聞こえたんです。

換気口は外につながってるので、外で話してる声が丸聞こえなんですね。


それは子供たちが、ふざけて騒ぎまわっている声でした。


『なんだよぉぉー!!きゃっきゃっきゃ…』


『いやぁぁーー!きゃっきゃっきゃ…』


(笑ってる…)


(子供って…なんて無邪気に笑うんだろう!)


知らず知らず、涙がつーっと頬をつたって、心がすーっと軽くなっていくのがわかりました。


大人は、自粛だのなんだのと、ふざけたり笑ったりすることを自ら禁じて、心を縛りつけているというのに…子供はなにも考えずに、自由に笑っている!子供たちの中では、すでに、地震は過去の出来事ということなのか、とにかく、普通に笑って、はしゃいで、遊んでいる声でした。


なんて、すごい精神力なんだろう!と、思いました。


そう思って、あらためてテレビをつけると、被災地でリンゴを両手で包むようにもっている女の子が映っていました。

アナウンサーが「どうですか?おいしいですか?」ときくと、女の子は、


「おいしい…」


そう言って、満面の笑みを浮かべたんです。

その横には、母親とおぼしき女性もいましたが、彼女は笑っていませんでした。

そんな余裕は、まだまだないんでしょうね。


大人は、みんな、呆然実質の状態です。


でも、被災してからたった4~5日で、子供は笑えるんですよね。


もちろん深層心理では、大きなダメージを受けていることでしょう。

でも、とりあえず、笑えるんです。


すごいことだなぁ…と、思いました。


同時に、子供は未来への《希望》だなぁと、思いました。


東京の片隅で―――トイレで、子供の笑い声をきいただけで、そう感じたわけですから、じっさい被災地で夢も希望も失った大人たちには、子供たちの笑い声が、どれほど救いになったことでしょう。


それから、まもなくして、まず最初に始まったお笑い番組が『踊る!さんま御殿』でした。(※さんまさん、ステキです!)


わたしも、それで、ようやく笑顔をとりもどしたというわけです。


とりあえず、これが―――私が『3・11』を経験したすべてです。

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