第2話 憂鬱な日常

 朝、いつもの時間に目を覚ました。

 

 僕は毛布の中から出ると、憂鬱な顔で学校の制服に着替えた。学校の制服は、所謂ブレザーだ。上着は、藍よりも濃い緑色。ズボンは、黒と茶色のチェック柄になっている。ベルトは、安価で丈夫な人工樹皮だ。ワイシャツの色は白だが、ネクタイは淡いオレンジ色に染まっている。

 

 僕は学校の制服に着替えると、家の洗面所に向かった。洗面所の前では、父さんが顔を洗っていた。僕は(不機嫌を隠して)、父さんに挨拶した。


「お、おはよう」


 父さんはタオルで、自分の顔を拭いた。


「ああ。おはよう」


 父さんは、僕の隣を通った。


「待たせて悪かったな」


「う、うん」


 僕は、自分の顔を洗った。水道の蛇口を捻って、それから顔の汚れを落とすように。僕の家で使っている洗顔料は、母さんがスーパーの安売りで買ってきた特売品だった(息子のファッションには、五月蠅いくせに)。

 

 僕はタオルで顔を拭くと、暗い気持ちで家のダイニングに向かった。ダイニングの中は、静かだった。テレビの音は聞こえてくるけれど……それ以外の音は、母さんが父さんの湯飲みにお茶を注ぐ音は聞こえるが、ほとんど聞こえてこなかった。

 

 僕は、自分の席に座った。


「おはよう」


 母さんは、テーブルの上に僕の朝食を運んだ。


「おはよう、進」


 僕は、今日の朝食に目をやった。そして、「いただきます」

 嫌な気持ちで、今日の朝食を食べはじめた。今日の朝食は、不味かった。味の方は、いつもとぜんぜん変わらないのに。それを口に入れた瞬間、何だろう? 

 とても嫌な味がした。現実の中にある……そう、「理不尽」や「偏見」を一気に混ぜ込んだような味。普通の中学生では、とても味わえるモノではなかった。

 

 僕は、その味に思わず吐きそうになった。


「う、ぐっ」


 母さんは、僕の反応に驚いた。その正面に座っていた父さんも。二人は不安な目で、僕の反応を見つめた。

 

 父さんは、僕の背中を摩った。


「具合が悪いなら休め」


 僕は、父さんの言葉を無視した。「ごちそうさま!」と。そして、「弁当は、要らない」と。僕は母さんの「ちょ、ちょっと! 進」を無視して、自分の歯を磨き、学校の鞄を背負って、家の玄関に向かった。玄関の前では、母さんが僕の事を待っていた。


「進」


「なに?」


「昨日の事、やっぱりまだ怒っているの?」


 僕は母さんの質問を無視して、いつものタウンシューズを履いた。


「行って来ます」


 僕は、玄関の外に出た。有りっ丈の力を込めて、その扉を乱暴に閉めるように。僕は暗い顔で、いつもの道を歩きはじめた。いつもの道は、人の姿で溢れていた。今の時間を何度も確かめるサラリーマンや、二列になりながら自転車を走らせる高校生。高校生の後ろには、僕と同じ制服の中学生もいた。

 彼らは、周りの友達と仲良く話していた。時折「うそ?」と驚いたり、あるいは「マジで?」と笑ったりして。彼らは僕の存在に気づかず(僕も彼らの事を知らなかったが)、楽しげな顔で僕の事を追い越して行った。

 

 僕は、その光景に苛立った。彼らの事が羨ましかったからではなく、単純に「彼らが女子だから」と言う理由で。

 

 僕は、右手の拳を握った。そうでもしなければ、今の怒りを抑えられなかったから。僕は待ち合わせの場所に着くと、周りの友達に「ごめん。ちょっとコンビニに寄っても良い?」と言って、近くのコンビニに向かった。

 

 友達は、僕の態度に首を傾げた。


「珍しいな。お前が弁当を持ってこないなんて」


「母ちゃんとケンカでもしたのかよ?」


 彼らは、僕の無言に驚いた。


「進?」


「本当に『何か』あったのか?」


 彼らは、互いの顔を見合った。たぶん、僕の事を心配して。あるいは、単に好奇心を刺激されただけなのか。彼らは僕の前を歩くと、楽しげな顔で僕の方を振りかえった。


「まあ、何があったのかは、知らないけどさ」


「そう落ち込むなって」


「ガムの一個くらいは、奢ってやるからさ」


 僕は、彼らの厚意に微笑んだ。


「ありがとう」


「いや」


 僕達は、コンビニの中に入った。コンビニの中は、混んでいた。おにぎりコーナーの棚から鮭おにぎりを取るサラリーマンはもちろん、低カロリーのラベルが付いた商品に手を伸ばすOLもみんな、揃って買い物カゴの中に商品を入れている。

 

 僕は、店のパンコーナーに向かった。朝食の「ご飯」を思い出すのが嫌で。そこの中からメロンパンを選んだのも、単純に「甘い物が食べたい」と言う理由からだった。僕は右手にメロンパンを持つと、正面の客を避けて、それから店のレジに並んだ。レジの店員は、若い男性だった。

 

 僕は彼に代金を払って、友達が待つ店の外に出た。


「待たせてごめん」


「いや」


 友達の一人が、僕にガムを渡した。


「バレないように食えよ?」


「うん、ありがとう」


 僕は、鞄の中にガムを仕舞った。


 学校に着いたのは、七時五十分頃だった。僕達は昇降口の中に入ると、それぞれに靴を履き替えて、二年四組の教室に向かった。教室の中には、九割近くの生徒達がいた。彼らは僕達に気づくと(特に男子達は)、快い声で「おはよう」と挨拶した。僕達も、彼らに「おはよう」と返した。

 

 僕達は、それぞれの席に向かった。僕の席は、窓際に一番後ろにある。僕は机の上に鞄を置くと、無表情でその中から勉強道具を取りだした。一時間目から六時間目までの教科書と、その授業に使う大学ノート(B罫線)を六冊ずつ。それから去年の春に買った、プラスティック製の筆箱も忘れずに。

 

 僕は机の中にそれらを仕舞うと、机の上に頬杖を突いて、窓の外を静かに眺めはじめた。


「今日が早く終わらないかな?」


 僕は、天の神様に祈った。だが神様は、それほど親切ではない。「極悪非道」とまでは行かなくても、僕の願いを聞き入れるほどに寛容でもなかった。


 神様は、僕の願いを無視した。一時間目の授業が終わった後はもちろん、その休み時間が始まった時も。神様は黙って、僕の苛立ちを眺めつづけた。

 

 僕は、その無慈悲さを悲しんだ。周りの声に苛立つように。

 僕の周りでは、女子達が(今日も)「キャーキャー」と騒いでいる。まるで「騒がない方がおかしい」と言わんばかりに、教室の雰囲気をすっかり形作っていた。

 

 僕は、その雰囲気に溜め息をついた。


「はぁ」


 女子達は、その溜め息に気づかなかった。


「うそ! マジで告白されたの? アイツに?」


「うん、昨日の放課後に呼び出されてさ。『話したい事がある』って。あたし、『冗談だ』って言ったんだけど」


「本気にしちゃったんだ」


「そう。だから、ガツンと言っていったんだよね。『アンタなんか眼中にない』って。そしたらアイツ、泣き出しちゃってさ。超ドン引きだったよ。男の癖に『ワー、ワー』喚いて。あたし、思わず笑っちゃった」


 女子の間で笑いが起った。


「確かに! それは、ウケるわ!」


「あたしだったら、爆笑するね!」


「ほんと、キモイ奴とか死ねば良いのに」


「だよね? キモイ癖にコクるとか。マジ、あり得ねぇーつうの」


「自分の顔、鏡で見た事ないのかな?」


「告白されるなら、イケメンの方が良いよね?」


「つーか、イケメン以外にあり得ないでしょう? 男はみんな、顔なんだから」


「それ以外に価値無いし。不細工と付き合っている女は、どうせ金目当てでしょう?」


 僕は、女子の顔に打ち震えた。


 うるさい。


 僕は、自分の席から立ち上がろうとした。アイツらの会話があまりに不快すぎて。だが、「くっ」

 

 僕は、自分の席に座り直した。悲しみが込み上げる。僕は、根性無しだった。

 心の中では「馬鹿」だの「死ね」だの言っている癖に、同級生の前(特に女子の前)では「それ」を「うっ」と飲みこんでしまう。振り上げかけた拳を下ろす事もできない。正真正銘の「ヘタレ」だった。

 

 僕は悔しげな顔で、女子達の会話から視線を逸らした。

 

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