第五話 運命の選択


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 九月十七日。


 神社に行った日から五日経っても、夢に身代わり石が出てくることはなかった。毎朝、落胆していたのは、巫女さんの話を疑いつつも期待していたからだろう。


 この日も学校帰りに千秋の病室に寄ろうと、通学鞄を持って教室を出ようとした。


 しかし、後ろから肩を掴まれ、反射的に振り返る。


 後ろに立っていたのは、クラスメイトの葛本大地だった。


 大地とは小学校からの腐れ縁で、同じサッカー部の部員でもある。小学校からずっとスポーツ刈りで、こんがりと日に焼けた肌からは夏休み中もサッカーをやっていたことが窺える。


「なぁ、和樹。部活に戻ってこいよ」


 痺れを切らした言い方だった。


 それも無理はない。夏休みが明けてから放課後も休日も病室に毎日通い続ける日々。朝練が禁止されていることもあって、部活には一度も参加していなかった。サッカー部の主力であり、副部長でもある僕が休み続けていては支障が出るだろう。


 そんなことは僕自身が一番分かっていたし、そろそろ何か言われるだろうと覚悟もしていた。


 だが、返事を待つ大地の表情はぶすっとしていて、他にも言いたいことが山ほどありそうな顔でもあった。大地が何を言いたいのか、おおよその見当はついている。


 僕と大地の関係は友達や部活仲間といった括りには当てはまらない。好敵手やライバルといった言葉が相応しいだろう。僕がサッカーを始めるきっかけになった小学校での一戦。千秋が見守る中、一人だけずば抜けて上手かったのが大地だった。


 僕は大地より上手くなる為に猛練習し、サッカーにのめり込んだ。その結果、大地より上手くなり、中学では部長の座を勝ち取り、現在は副部長を任せられている。


 とは言っても、実力差が大きく開いているわけではない。むしろ、小学校の頃からいつ抜かされてもおかしくない状況が続いている。僕は大地に負けないように努力し、大地は僕を抜かそうと努力する。僕達は漫画で言えば、宿命のライバルのような関係であった。


 部活を休むようになってから憂わしげに思うことは沢山ある。このまま休み続ければ間違いなく、大地との力関係は逆転するだろう。そのことを考えると、激しい焦燥感に苛まれる。


 大地も負けず嫌いでプライドが高い。ライバルが部活を休んで衰退していく様を黙って見ていられるはずがなく、こうして僕に戻ってくるよう言ってきた。


 僕だって本音を言ってしまえば、今すぐにでも部活に戻りたかった。ひたすらボールを追いかけて現実から目を背けたかったし、試合にも出たかった。


 しかし、それでも僕は首を横に振らなければいけない。


「悪い。今日も行けそうにない」


 千秋が一人で戦い続けているというのに、自分だけサッカーに逃げ込むわけにはいかない。今は一秒でも長く傍にいてやりたい。


「また片岡の見舞いか?」


 僕が無言で頷くと、大地は不服そうに睨みつけてきた。


「いくら彼氏だからって毎日行く必要はないだろ」


「恋人が昏睡状態の時にサッカーやっても足を引っ張るだけだよ」


「なんだよ、それ。心配しているのは片岡だけか? 俺達のことも少しは考えろよ」


 乱暴な言い方をする大地に周りの視線が集まる。教室内が険悪なムードに包まれ、同じクラスの部員も近くに集まってくる。


 もちろん皆には悪いと思っている。


 でも、僕にとって最優先するべきは千秋だ。


「悪いけど、千秋といる時間を優先したい」


 僕がそう返すと、大地はより険しい顔になった。


「まあまあ。サボっているわけじゃないんだし、そんな怒らなくても」


 周りにいた仲の良い部員がこれ以上はまずいと察したのか、僕達の間に入り、大地を宥める。


「和樹もたまには顔出してくれよ。毎日じゃなくてもいいからさ」


 険悪なムードを和ませようとする彼に「ごめん」と謝って、僕は教室を出た。


 僕が教室を出るまで大地はずっと睨み続けていた。普段の大地ならあんなことは決して言わない。大地は昔からサッカーのことしか考えていない奴だったから、ずっと競い合ってきた僕がサッカーではなく、恋人を選んだことを許せなかったのだろう。



 九月十九日。


 神社に行ってから一週間が経ったその日、夢を見た。


 鳥居が並んでいる参道に一人で突っ立っていた。真夜中で辺りは暗く、すぐに夢の中だと気づいた。


 夢だと自覚しながら見る夢を明晰夢と呼ぶらしい。今までに何度か経験があったから名前は知っていた。大半の夢はおかしなことが起きても不思議に思わないが、明晰夢を見るときは現実離れした光景に疑問を抱き、夢を見ているんだと気がつく。基本的には気づいてから数秒で目を覚ますのだが、あくまで僕が見る明晰夢の話で他の人はどうなのか知らない。


 ただ、今見ている夢が、これまで見てきた明晰夢とはどこか違う気がした。


 夢の中にしては意識がハッキリしているし、頬をつねれば普通に痛い。無数の鳥居が並んでいる参道は、この間行った神社に似ているようで少し違う。身代わり石を探しても見つからないし、鳥居が並んでいるだけの真っ直ぐな参道。前を見ても後ろを振り返っても真っ暗で先が見えない。


 不気味ではあるが、布団に潜って寝たことは憶えている。夢の中なのだから何が起きようと恐れることはない。たじろぎしつつも、目が覚めるまで参道を歩いていくことにした。


 風はなく、空を見上げても月どころか雲すら見当たらない。真っ暗なのに参道だけは見失わず、どこかに誘導されているように思えた。


 しばらく歩いていると、鳥居の並んだ参道から砂利道になり、目の前に大きな丸い石が見えてきた。その石には「厄」と赤く書かれていて、大きさも形も身代わり石とそっくりだった。


 これが巫女さんの言っていた夢に違いないと思った瞬間、右手に重みを感じた。


 右手には白い玉が握られていて、異様な寒気がした。神社で投げた玉とは重みが全然違う。ただ重たいだけじゃなく、これが割れたらとてつもなく不吉なことが起こると確信するほどの何かが伝わってくる。


 手に握っている玉をジッと見つめていると、徐々に赤い文字が浮かび上がってくる。


『夢』


 浮かび上がった文字は「夢」だった。


 巫女さんから聞いた話が本当なら玉に書かれているものを失えば、願いは叶う。もし夢を見たら、玉になんて書いてあろうが、すぐに投げるつもりでいた。


 しかし、夢という文字を見た僕は投げずに考え込んだ。


 夢を失う?


 それが具体的に何をどう失うことになるのか分からなかった。


 今後二度と眠っている間に夢を見なくなる……なんてことではないだろう。きっと「将来の夢」といった意味での夢が正しい。


 問題はこれと言って将来の夢と呼べるものがないことだ。


 すぐに思い浮かべたのはプロサッカー選手だったが、将来の夢と呼ぶより願望に近かった。小学校時代からサッカーは上手かったが、あくまで周りより上手かっただけで、僕より上手い奴なんて世の中には沢山いる。プロになれるのはその中のほんの一握りで、そんな逸材は高校在学中にスカウトされるだろう。なれたらいいな程度に思ったことは何度もあるが、本気でプロを目指していたわけではない。これを実現可能な夢だとは思えなかった。


 将来なんて「無難な会社に入って千秋と結婚して家庭を築く」なんてあやふやなことしか考えたことがなかった。でもサラリーマンが将来の夢とは思わないし、小さい頃に七夕の短冊に書いた「ヒーローになりたい」も絶対違う。


 その後も消去法で考えてみたが、残るのはプロサッカー選手だけ。


 可能性がゼロとは言い切れないし、願望だろうと夢なことには変わらない。けれど、本当にこれが代償として釣り合うのだろうか。そもそもこれだけ考えて他に思い浮かばないのだから、どんな夢を失ったところで大した変化は起きないのかもしれない。「目」や「足」が書かれていた他の人と比べれば代価が安すぎるし、何か見落としていないかと不安に駆られる。


 思案に暮れる脳を落ち着かせる為に目を閉じて、大きく深呼吸をする。


 今更、迷ってどうする。千秋が助かるのなら、どんな犠牲を払おうと構わないと思っていたんだ。代価がなんであろうと投げることに変わりない。何も変化がないのなら、それでいいじゃないか。


 白い玉を構えて――狙いを定めた。


「これを投げれば千秋が目を覚ます」


 そう口にしていて自分でも驚いた。半信半疑だった巫女さんの話をすっかり信じ込んでいる。


 いや、信じたとかそういう次元ではない。これを割って千秋が目覚めないビジョンが考えられない。この夢を疑うのが不思議に感じるほどの自信が腹の底から湧いてくる。


 その一方で、この玉を割ったら取り返しのつかない何かが起きることも確信していた。


 腹を決めたはずなのに、投げるのを躊躇してしまう。似たような躊躇いを小学生の頃に経験したことがある。大きな木に登って、下りられなくなった時だ。ちゃんと着地すれば怪我することはない高さだったけど、真下を見て尻込みしてしまった。さっさと飛び降りれば楽になるのに、なかなか飛び降りられなかったあの時と今の心境は似ている。


 早く投げろ、と念じても体が動かない。投げられずにいるうちに、不安が再び押し寄せてくる。


 仮にプロサッカー選手になる夢を失うとして、どういう形で失うのだろうか。プロになる機会を失うとか、自然とサッカーをやりたくなくなる程度にしか考えていなかったが、物理的にサッカーをやれなくなる可能性もあるんじゃないか。


 例えば、事故に遭って足を切断することになるとか。玉に「足」と書かれていた人もいたぐらいだ。千秋の身代わりになる代価としてはあり得る。


 石から視線を逸らし、自分の足へ向ける。


 足を失うかもしれない。


 歩けなくなるかもしれない。


 途端にさっきまでの勢いが消えていく。投げるという選択肢そのものが頭の中から消えてなくなっていた。


 千秋と書かれた石を直視できず、構えていた右手を力なく下ろした。


 ――そこで夢が終わった。


 気づいた時には全身汗だくで、ベッドの上から天井を見ていた。


 午前五時前。とても長い夢だったのに内容を一から十まで全て憶えていた。右手には玉を握っていた感触が残っていて、それが気のせいだと思いたくても思えなかった。



 九月三十日。


 あれ以降、身代わり石の夢を見ることはなかった。


 厳密に言えば、身代わり石が出てくる夢は何度か見た。しかし、どれも普通の夢で明晰夢ですらなかった。身代わり石が何度も夢に出てきたのは、あの明晰夢の中で感じた恐怖心や玉を投げれなかった後悔を引きずっているのが原因だろう。


 一週間以上経っても「夢」と書かれた玉を握っていた感触が右手に残っていた。そして、何より我が身可愛さから逃げ出した自分が情けない。


 足を失うかもしれないと想像した時、自分の足と千秋を天秤にかけた。足を失ってまで助ける価値が、千秋にあるのか考えてしまったのだ。


 姉の言葉が蘇る。


『私からすれば、見返りを求めるアンタの方が不純に見えるね』


 身代わり石が出てきた夢の中で、僕は見返りを求めてしまった。


 愛さえあればなんだってできると思っていた。千秋と歩いている時にナイフを持った男が襲ってきたら身を挺して守るだろう。もし千秋が臓器移植しなければ助からない状況になったら迷わず自分の臓器を提供するだろう。いついかなる時でも僕は千秋を優先する。


 僕達の恋は特別で、恋人を置いて逃げ出すような見せかけだけの恋とは違う。どこかで聞いた『学生時代の恋愛なんてガキの遊び』なんて子供を馬鹿にする発言を真っ向から否定するような恋。どんな苦難でも二人で乗り越えられると信じていた。


 それなのに――玉を投げれなかった。


 最初から覚悟が足りていなかった。漫画やアニメみたいに都合よく目覚めるのを期待していたのも事実。楽観的な希望を抱いて、現実を直視していなかった。


 千秋に拘る必要があるのか。目を覚ますまで待ち続けるなんて本当にできるのか。恋に酔っているだけなのではないか。目を覚ますことなく、一生を終えても後悔しないのだろうか。


 考えれば考えるほど、不安で押し潰されそうになる。


 逃げ出したい。


 夏休み前の、あの平穏な日々に戻りたい。


 でも、僕は千秋を見捨てられない。


 まるで呪いのようだ。


 数日後、顧問に退部届を渡して、サッカー部を後にした。


 これ以上迷惑をかけるわけにはいかなかったし、自分の覚悟を引き締め直す為でもある。もし、また罵られたら、理解してもらえるまで謝るつもりでいた。


 廊下で大地と鉢合わせになった時、僕は身構えた。


 でも大地は「この間は悪かった」と一言だけ謝り、横を通り過ぎていった。


 それは予想していたどの言葉よりも、胸に突き刺さる一言であった。

 


 十月十二日。


 千秋が目覚めないまま九月が過ぎ去り、外は少しずつ肌寒くなってきた。


 身代わり石の夢もあれから見ることなく、学校が終わったら見舞いに行く日々。クラスメイトに千秋の容態を訊かれる回数も減っていたのもあって、彼女のいない教室に違和感を感じなくなっていた。千秋がいない点を除けば、事故が起こる前となんら変わらない。気を緩めたら、千秋がクラスの一員だったことに違和感を抱いてしまいそうになる。


 そんな変わり映えのない日々に衝撃が走ったのは、この日だった。


 朝のホームルームで担任の口から、クラスメイトの訃報を知らされた。教室内の反応は、衝撃が走ったというより電気が流れたが正しいかもしれない。


 クラスメイトの幸野綾香が亡くなった。


 そのことを担任の口から告げられた時、一瞬ざわついた。でも、それだけだった。幸野は不登校で、一年の夏休み前からほとんど出席していない。噂によれば持病でずっと入院していたらしく、亡くなったのも持病が関係していた。


 本人と会話したこともなければ、友達との話題に出てきたこともほとんどない。顔と名前しか知らない不登校のクラスメイトなんて正直に言えば、見ず知らずの他人に等しい。クラスの皆も驚きはしていたが、悲しんでいる様子は見受けられなかった。


 だから、担任に「同じ時間を共にした幸野さんに黙祷を捧げましょう」と促されても「本気で黙祷を捧げる奴なんていない」と思いながら目を瞑るだけ。


 幸野の話題は電気が流れたように一瞬で、その日限りのものだった。ホームルームが終わった途端、いつも通りの学校生活が始まり、いつも通りに終わる。休み時間に聞こえた「朝はビックリしたね」という会話を最後に、幸野綾香はクラスから完全に消えてしまった。


 僕の中で衝撃が走ったのは、クラスメイトが一人減ったのを実感した時だった。


 放課後になって、幸野が死んだことにショックを受けている自分がいた。担任から訃報を知らされた時は周りと大差なかったはず。しかし、幸野の存在がクラスから消えた瞬間、心にぽっかり穴があくような喪失感を覚えた。


 幸野の死をクラスの中で一番悲しんでいたのは、僕だったのかもしれない。


 確証はないし、自分でもよく分からない。だけど、大半のクラスメイトよりは幸野と接点があったとも言える。


 幸野を知ったのは去年の十二月。学校帰りに千秋と二人で地元を流れる大きな川へ寄り道した時だ。特に目的はなく、川沿いを歩くだけの下校デート。風は冷たかったけれど、夕陽を反射する川面はなかなか絵になっていて綺麗だった。


 千秋と雑談しながら川沿いを歩いていると、川原に人影が見えて凝視した。


 女の子が一人、川原に立っていた。風でふわりと舞い上がった長い黒髪が後ろにゆらゆらと揺れ、川を眺めている横顔が見えた。


 光り輝く川面を背景にしても引けを取らない綺麗な女の子だった。


 遠目で横顔しか見えなかったが、それでも整った顔立ちをしているのはハッキリ分かったし、服装から同年代であることも識別できた。


 ほんの数秒間、その女の子に見惚れていた。


 僕の視線を追った千秋に「何見ているの?」と訊かれ、ハッと意識を戻した。


「いや、あそこにいる子、どこかで見た気がするなって」


 当然、「あそこにいる女の子に見惚れていた」なんて言えるはずがなく、慌てて誤魔化そうとした。どこかで見かけた気がしたのは本当だが、どこだったかは憶えていない。


 千秋は目を細めて女の子を見た後、首を傾げた。


「あれ、幸野さんじゃない?」


「幸野さん?」


「隣のクラスの」


 思い返してみれば、学校で見かけたことがあった。気付けなかったのは、制服姿しか見たことがなかったからだろう。入学式で初めて彼女を見かけた時に目を奪われたのは憶えている。


 当時は千秋と正式に付き合い始めたばかりだったし、やましい気持ちなんて一切なかったけど、つい無意識に視線を向けてしまった。それは街中で美人カップルがいたら目で追ってしまうのと同じようなもので、不可抗力だと言い訳したい。


 その後も何度か学校で見かけたが、しばらくしてから見かけなくなり、すっかり記憶から抜け落ちていた。


「あー思い出した。でも最近見かけなくない?」


「病気であまり学校に来れないらしいよ」


 この時に千秋から教えてもらった情報しか幸野のことを知らない。


 二年生に上がり、幸野と同じクラスになったが、あれから一度も見ないまま彼女は死んだ。病弱の女の子、知っているのはそれだけ。何故、あんな所に一人でいたのかすら分からないまま。


 唯一、幸野綾香と接点があったとすれば、その時に目が合ったことだった。


 目が合ったというより単に僕達に気づいてこちらを向いただけなのだが、確かに幸野の視線は僕達を捉えていた。数秒間、ジッとこちらを見ていた幸野の顔は微笑んでいるようにも見えて、その顔が今でも印象強く残っている。


 これを接点と呼ぶのはどうかと思うけど、幸野の存在自体忘れていたクラスメイトよりは接点があったと言えるんじゃないだろうか。


 ……無理あるか。


 幸い僕は家族や友達といった身近な人間の死を受け止めた経験がない。だからこそ、友達でもなんでもないクラスメイトの死にショックを受けたのだろう。ニュースで報じられる顔も知らない他人の死や一度も会ったことがなかった遠い親戚の死に比べれば、目線を交わしたクラスメイトの方が身近に感じる。


 幸野の死を身近に感じたのは僕だけだったのかもしれない。クラスの皆が悲しむこともなく、幸野の死をあっさり受け入れているように見えて、それが妙に恐ろしく思えた。


 千秋が死んでも、僕が死んでも、幸野みたいにすんなり受け入れられてしまうのだろうか。友達が多い分、幸野と全く同じになるとは思えない。けれど、一ヵ月も経てば彼女みたいにクラスから完全に消えてしまう気がする。


 現に千秋がいない教室に馴染み始めている。そう考えると、なんだか千秋の死が現実的に起こり得る身近なものに感じてしまう。「今まで身近な人間が死んだことはないのだから大丈夫」なんて超理屈も幸野の死によって覆されてしまった。


 千秋だって昏睡状態で持ちこたえているが、いつ容態が悪化してもおかしくない。


 幸野の死はより現実的に死を考えるきっかけになり、病室へ通う足取りを重くさせた。



 十月十六日。


 日が沈むのが早くなり、学校から病室に辿り着く頃には空が真っ暗になっている。


 最近は食欲が落ちて、寝つきも悪い。鏡に映る自分が老けて見える。目の下に隈ができて、人相も別人のようだった。心に巣くう不安はいつまで続くのだろうか。一生待ち続けると覚悟を決めても、不安は積もるばかりである。


 今日も千秋の手を握りながら語り聞かせているうちに時間が過ぎ去り、病室に千秋のお母さんが入ってきた。僕は握っていた手を慌てて離す。いつも仕事帰りに病室へ立ち寄る千秋のお母さんと入れ替わりで、僕は帰っている。


「今日も来てくれてありがとう」


 優しく微笑む千秋のお母さんだが、疲れが顔に出ていて不安を感じさせる笑みだった。


「いえ。それじゃ、僕はそろそろ帰ります」


 通学鞄を持って、病室のドアに手をかけた。


「和樹くん」


 呼び止めるように発せられた千秋のお母さんの声は、少しだけ裏返っていた。振り返ると目が合い、千秋のお母さんは言いづらそうに視線を落として口を開く。


「無理して毎日来なくても大丈夫だからね」


 発せられた言葉の意図を読み解くのに一瞬手間取り、数秒固まった。読み解いてすぐに「無理なんてしてないですよ」と返そうとしたが、間に合わなかった。


「部活を辞めたって聞いてね。その……迷惑かけていないかなって」


 気が動揺した。いらない心配をかけたくなくて、千秋の家族には退部したことを内緒にしていた。なのに何故知られているのか。家族には話さないように口止めしている。クラスメイトの誰かが話したのか。


「いえ、来年は受験生ですし、万全な状態で備えておきたかっただけですよ」


 咄嗟についた嘘。遠回しに「千秋の為だけじゃないですよ。だから気を遣わないでください」と伝えたかったのだが、小さい頃から僕のことを知っている千秋のお母さんには通用しなかった。


「和樹くんは若いんだし、これからも色んな選択ができると思うの。大学に行けば新しい出会いもあるだろうし、楽しいことだって見つかるかもしれない。和樹くんには和樹くんの人生があるんだから、もっと自分の時間を大切にしてほしいの」


 千秋のお母さんは瞳に涙を滲みさせながら、そう言った。


 将来を案じて掛けてくれたその優しい言葉を、僕はどう受け止めればいいのか悩んだ。


 昏睡状態の娘を置いて別の人生を歩んでほしい。それは千秋がもう二度と目を覚まさない、と言っているようなものだ。千秋のお母さんはどれほど辛い気持ちで、僕に今の言葉を掛けてくれたのか。想像するだけで胸が張り裂けそうになる。


 これで病室に通うのをやめて、他の女子と付き合い始めても恨まれることはなくなった。事故が起きた直後でも千秋のお母さんは恨みなんかしなかっただろうけど。


 僕は想像する。いつ悪い知らせが入ってくるかもしれずにビクビクしながら過ごす毎日。学校帰りに病院に通い続ける日々。それらから解放されて新しい彼女を作り、どこかへデートしに行く。今ならまだサッカー部に戻れるかもしれない。それで大地とまた競い合うのもいい。


 千秋を諦めることで、不安な日々から楽しかった日常に戻ることができる。


 魅力的な想像はどんどん膨らみ、次に覚悟を決めた自分への言い訳が思い浮かんでくる。


 仕方がないじゃないか。心身ともに疲れていて、千秋のお母さんだってああ言っているんだ。僕は充分頑張ったよ。これ以上やれることなんてないし、良い機会じゃないか。僕の覚悟なんて火事場の馬鹿力みたいなもんだったんだよ。千秋のお母さんの言葉で、本当の気持ちと向き合い、それでもう限界だって気付いた。


 なのに――どうして僕は千秋を見捨てることができなかったのだろうか。


「明日も来ますよ。僕は千秋の彼氏ですから」


 そう言い残して、僕は逃げるように病室から立ち去った。


 何故、あんなことを言ったのかと尋ねられたら、「強がっていただけ」としか言いようがない。


 よく分からない感情が押し寄せてきて、涙がポロポロと落ちてくる。普段は通らない人気の少ない道を歩きながら、家に帰った。


 家に帰ると、姉がソファの上で横になりながらポテトチップスを片手にテレビを見ていた。呑気な姉が羨ましく思えた。小さい頃は千秋を入れて三人でよく遊んでいたというのに、姉は一回しか見舞いに行っていない。


 ――僕の知っている限りでは。


「部活を辞めたこと、千秋のお母さんに話したの姉貴?」


 確証があったわけではない。クラスメイトには口止めを頼んでいなかったから、見舞いに来た千秋の友達が話した可能性の方が高い。でも、こういう時に限って約束を破るのが姉である。


「そうだけど」


 姉は気にも留めず、テレビを見たまま答えた。


「千秋の両親には話さないって約束したのになんで話したんだよ」


「なんか言われたの?」


 悪びれる様子もなく、せんべいを貪る姉。


「……無理して毎日来なくていいって」


「ふーん。で、なんて答えたの?」


「明日も来ますって答えた」


「は? 馬鹿じゃないの?」


 こちらを向いた姉の顔は、理解不能と言いたげだった。


「せっかく見舞いに行かなくてもいい口実を作れたのに何やってんの?」


「……まさかその為に部活辞めたことを話したわけ?」


「当たり前でしょ。アンタがいつまでも通い続けているから助けてやったのに」


 大きなため息をつく姉に「余計なことしなくていい」と怒った。


「アンタさ、あんだけ馬鹿みたいにサッカーやっていたのに、見舞いに行く為に辞めるってどうかしているよ」


「恋人の見舞いを優先させるのは普通だろ。姉貴が薄情なんだよ」


「あたしだって千秋ちゃんには良くなってほしいよ? だけど、目覚めるか分からない恋人の為に自分の人生を犠牲にするのは理解できないね」


 姉の言っていることは薄情だけど、間違っているとも思えなかった。けれど、僕はどうしても認めたくなくて八つ当たりするかのように言ってしまう。


「恋人のいない姉貴には理解できないよ」


 棘のある言い方に、姉は顔をしかめてぶっきらぼうに言う。


「理解できるわけないでしょ! アンタが見舞いに行ったって目が覚めるわけじゃないのに」


 姉の言う通りである。僕が見舞いに行ったところで千秋が良くなるわけじゃない。だったら、サッカーを続けていた方が良かったのかもしれない。でも、だからって今まで通い続けてきたことを否定されるのは、やはり悔しい。


 奥歯を噛みしめながら姉を睨みつけて、リビングを出た。


 自室のベッドの上に寝っ転がり、天井を見ながら自問自答する。


 僕がおかしいのだろうか。恋人を見捨てる方が正しいのだろうか。正しい選択をしているはずなのに、どうしてこんなにも心が苦しくて、迷って、責められなければいけないのだろう。


 僕は本当にこのままでいいのか。


 分からない。


 何が正しくて、何が間違いなのか、もう僕には分からない。



 十月十七日。


 この日、訪れたのは身代わり石が置いてあるあの神社だった。相変わらず、他の参拝客は見当たらない。以前と違うのは落ち葉の量くらいであった。


「お、君が来たということはひょっとして」


 授与所で巫女さんと目が合い、期待の眼差しを向けてくる。


「夢を見ました」と期待に応えると、巫女さんは「ということは投げたの!?」と飛びつくように訊いてきた。


 僕が無言で首を横に振り、熱が冷めたように巫女さんのテンションが下がった。


「あー……投げなかったのね……」


 沈黙が流れて気まずくなりかけたところで、巫女さんが口を開く。


「それで玉にはなんて書いてあったの?」


「赤い字で、夢と書かれていました」


「夢? 夢ってどういうこと?」


 首を傾げる巫女さんに「分かりません」と答える。


「でも、取り返しのつかない何かが起こる気がしました。投げようとしたら言いようのない不安に襲われて、夢から目覚めた後もしばらく残っていました」


「君でも無理だったかー……。やっぱり簡単に投げれるものじゃないんだね」


 慰めるように「わざわざ報告ありがとね」と礼を言う巫女さん。


 だから三百円渡した時は驚かれた。


「この三百円はなに?」


「もう一度、あの夢を見たいんです。だから、玉を投げさせてください」


 この状況を一刻も打開するにはオカルトだろうと、なんだろうと縋りつくしかなかった。投げたところで、また夢を見れるかは分からない。でも、これしか可能性がないのだから、やる以外に選択肢はない。


「本気で言っているの?」


「本気です。次は逃げません」


 巫女さんは僕の目を見て、子供に言い聞かせるように話す。


「私もね、夢の中で割ったらどうなるのか気になっているから、投げてほしいってのが本音なんだけどさ。それでもオススメはしないし、やめておいた方がいいよ?」


 何か理由があるような口ぶりに、僕は率直に「どうしてですか?」と訊いた。


 数秒、黙り込んだ巫女さんは「実はね」と話し出す。


「この間は夢の中で投げた人はいないって言ったけど、本当は二人いたかもしれないんだ」


 それを聞いて、今度は僕が飛びつくように訊く。


「その二人はどうなったんですか?」


「本当かどうかは怪しいんだけどさ。一人はお婆さんで、お孫さんの身代わりになったんだって。聞いたこともない難しい名前の病気だったけど、その病気が治ったって凄く喜んでいた」


 その話に希望を抱いた僕は「じゃあ、願いが叶うのは本当なんですね」と食らいつく。


 しかし、巫女さんは表情を曇らせる。


「問題はお婆さんと一緒に来ていた娘さんの話でね。お孫さんは生まれてから重い病気に罹ったことがない元気な子で、お婆さんの言う病気には罹ったことないって言うわけ」


「最初から病気じゃなかった?」


「そう。お婆さんは玉も投げれそうなぐらい元気で、まだボケてしまうような年齢には見えなかったけど、娘さんは『ボケちゃったのかしら』って苦笑いしていたよ」


「ここからが本題なんだけどね」と人差し指を立てる巫女さん。


「一年くらい経った後に娘さんがお守りを買いに一人で来てね。『お婆さんとお子さんはお元気ですか?』ってなんとなく訊いてみたら、お婆さんが亡くなったって言うからビックリしたよ。なかなか起きてこないから様子を見に行ったら、既に息を引き取っていたみたい」


「……そのお婆さんが割った玉には何が書いてあったのか、訊きましたか?」


 巫女さんは首を横に振り、「残念ながら訊かなかったんだよね」と小さく笑う。


「当時は夢を見たって人はいても玉を割った人はいなかったから、お婆さんの話も信じていなかったし、ボケてしまったお婆さんが偶然死んだものだと思っていたんだけれど、夢の中で玉を割ったって言う二人目が来てさ。それから何かあるんじゃないかって疑うようになったの」


 僕の顔を品定めするように見る巫女さんに「君、高校生?」と訊かれ、肯く。


「二人目は君と同じくらいの女の子で綺麗な子だったよ。去年の十二月頃だったかな。二の舞にならないように今回は玉になんて書いてあったのか訊いてみたら、その子は『自分の名前が書いてありました』って答えてさ。私が言葉に詰まっていたら、笑ってこう言ったんだよ」


『私、好きな人の代わりに死ぬんですよ』


 目を瞑り、その時のことを思い浮かべている様子で巫女さんは話す。


「死ぬんですよって口にした人間とは思えないほど眩しい笑顔でね。自分の命を差し出してでも好きな人を助けたかったみたい」


「好きな人を助けたかった……」


「うん。本当に彼女が死ぬのかは知らないけど、『後悔してないの?』って訊いたら『絶対に後悔しませんよ』なんて清々しく言うんだもの。きっと大切な人だったんだろうね」


 それを聞いた僕は、熱に浮かされるような高揚感が湧いてきた。


「でもさ、彼女を見たのはその時が初めてなんだよね。お婆さんは感謝を言いに来た感じだったけど、彼女は私に報告しに来ていた。あんな若い子だったら忘れるはずないんだけど、私を揶揄っている様子でもなかったし、今でも不思議に思っているんだよね」


「……他の人にも夢を見たら報告するように言っているんですね」


 巫女さんは悪戯がバレた子供のように舌を出して笑う。


「まぁとにかく、夢の中で玉を割った人にはシャレにならないことが起きるかもって話さ。どう? 考え直す気にはなった?」


 僕は微笑みながら「逆ですよ」と答える。


「……なんで?」


 巫女さんは訳が分からないって顔をしていたけど、僕は今の話で決心が固まった。


 二人目の彼女は好きな人の為に命を差し出した。自分以外にもそういう人間がいるんだと励まされた気分だった。


 そうだ、恋人を助けたい気持ちが間違っているはずがない。


「本当に何か起きても私は知らないからね?」


 巫女さんは何度も繰り返して止めてきたが、最終的に肩をすくめて玉を渡してきた。今になって止めるのは多分、僕が投げることを期待しつつも後ろめたい気持ちがあったのだろう。


 一ヵ月前と同じように千秋と書いて、身代わり石の前に立ち、僕の手から玉が放たれる。


 投げた玉は身代わり石に当たり、綺麗に割れた。


 今度、夢に身代わり石が出てきた時、僕はもう逃げない。



 十月二十四日。

 神社に行ってから一週間後。前に明晰夢を見たのは玉を投げてからちょうど一週間後だった。もし、また夢を見るのなら今日だろう、と予想していたし、どこか自信もあった。


 千秋と二人っきりの病室で、僕は眠り続ける彼女に約束をする。


「今度は絶対に逃げないよ。もしかしたら足を失うことになるかもしれないけれど、千秋が目覚めるのなら悔いはない」


 彼女の頭を撫でながら続ける。


「きっと良くなるはずだから。目を覚ましたら、またどこか遊びに行こう。欲しい物だって貯金が尽きるまで買ってやる。だから、あと少しだけ頑張ってほしい。僕も頑張るから」


 決意表明みたいなものであった。もう二度と彼女を裏切るようなことはしない。不思議と力が湧いてくるように感じる。これならいけると確信するほどに。


「必ず千秋を助けるから」


 僕はそう言い残して、病室を後にした。



 その日の夜――夢を見た。


 前見た時と同じ場所だ。赤い鳥居が無数に並んだ真っ直ぐの参道。真っ暗な夜で、辺りは薄暗い。意識もしっかりしていて、雰囲気までも一緒である。


 覚悟は出来ている。


 やることも決まっている。


 僕は地面を思いっきり蹴り、全速力で参道を走った。いくつもの鳥居をくぐり抜けて、身代わり石が目の前に現れるまで走り続ける。


『俺達のことも少しは考えろよ!』


 大地の声が蘇る。


 もうサッカーは出来ないかもしれないけど、それでも僕は千秋を助けたい。


『目覚めるか分からない恋人の為に自分の人生を犠牲にするなんて理解できないね』


 姉の声が蘇る。


 理解できなくて結構だ。千秋の為なら何を失っても構わない。


 走り続けている内に、参道が砂利道へ変わる。


 目の前に薄っすらと身代わり石が見えてくる。


 手には玉が握られていて、赤い字で『夢』と書かれているのを確認する。


 身代わり石に近づくほど、恐怖心が襲ってくる。


 震えて止まってしまいそうな足を無理やり動かし続ける。


 次第に強くなっていく恐怖心。


 それでも歯を食いしばりながら、玉を構える。


 千秋と交わした会話が蘇る。


『どんなことがあったって千秋を裏切るようなことはしない』


『うん。約束だよ』


 止まらない恐怖心に向かって「上等だ!」と言い放つ。


「僕達をッ! 舐めるなッ!」


 力いっぱい投げた玉が、身代わり石へ向かって勢いよく飛んでいく。


 パキッ!


 大きな音と共に玉は割れて、中から黒い煙が溢れ出てきた。一瞬で僕の体は黒い煙に包まれ、目の前が真っ暗になる。



 そこで――意識が途切れた。

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