第20話 未来への逃避
――月明かりのない夜。ヴィレム・クラーセンの屋敷にて。
豪奢な調度品が並ぶ居間に怒声が響く。
「くそが――っ!!!」
ヴィレムはソファを蹴り上げる。
「なぜだ!!! どうして、こうなった――!? くそ、くそ、くそ―――っ!!!」
怒りの溢れるままにガラスの机を叩き割り、腰のレイピアで金刺繍のカーテンを引き裂いて投げ捨てる。
たった数日で状況が一変してしまった。
帝都の貴族からひっきりなしにきていたクィユ族の奴隷の注文がなくなった。そして、購入者の中には返品と返金を求める声も届き始めている。
原因は、冒険者ギルドの流した噂のせいだ。
冒険者共がクィユ族を庇護する【神獣の子供】の話を、護衛する貴族や旅をする商人たちに広めたおかげでクィユ族の奴隷を持つことが神獣の怒りを買うのではないか、と警戒されてしまっていた。
また、帝都で店を構えた時の主力商品に考えていた、クィユ族の精霊使いの奴隷に作らせていた絹も売り上げが急激に落ち込んでいる。【神獣の子供】の連れている女がベイロン商会に色鮮やかなクィユ族の絹を卸したせいだ。
ベイロン商会の当主シャルリーヌ・ベイロンは、城塞都市アズナヴール、海都シクスー、山都スーラ、で色鮮やかなクィユ族の絹を販売し、その人気は止まるところを知らない。
凶悪犯の冒険者を使ってベイロン商会の前当主と奥方は始末したまでは良かったが、まさか前当主の娘がこれほどのやり手であるとは思わなかった。ほんの少しの憐れみを感じて手を出さずにいたが、それが自らの首を絞めることになるとは……。
「ぁぁぁぁ――!!!」
力任せに振り回した愛用のレイピアが大理石の彫刻にぶつかり嫌な音を立てる。苛立ちのままに大理石の彫刻をめった突きにする。一瞬にして彫刻は砕け散って白い破片が床に散らばった。
悪いことはさらに重なっていた。
ベイロン商会に色鮮やかなクィユ族の絹を持ち込んだ【神獣の子供】とその仲間を辺境伯軍に捕らえさせるはずが、辺境伯が偽物であることがバレてしまうという大失態を起こしてしまった。
辺境伯は行方不明と言った扱いになり、近いうちに帝都から代行領主がやってくると聞いている。ヴィレムの子飼いの官僚も好き勝手出来なくなるだろう。ヴィレムを優遇する政策はとれなくなってしまう。下手をすればこれまでの不正を代行領主に問い詰められる危険すらある。
それと辺境伯に扮していた女盗賊レギナは失踪。おそらく、失態を咎められることを恐れて逃亡したものと思われた。
厄介なことに【神獣の子供】とその仲間を始末するために送り込んだ【クィユ族の狂戦士】も行方不明。【神獣の子供】とその仲間たちもどこかに姿を隠してしまった。
「【神獣の子供】――!!! あいつさえいなければ、なんで……くそっ!!! あと一歩、あと一歩だと言うのに――」
とどまらぬ怒りに荒れ狂っても事態はよくならない。よくならないとわかっているのに、あまりの悔しさに湧き上がってくる激情に暴れまわるしかできなかった。部屋のありとあらゆるものを破壊しつくして、ぜぃぜぃと荒い息を吐きながら、ヴィレムはようやく冷静さを取り戻せた。
じっくりと考えて、ようやく認めることができた結論を飲み下す。
「はぁ……はぁ……、ふぅ…………」
詰みだ。
このままアズナヴールの街に留まって再起を図るのは危険すぎた。この街の商人たち、冒険者ギルド、辺境伯軍、ありとあらゆる者たちがヴィレムに牙をむくだろう。
ヴィレムは荒々しく息を吐きながら部屋を後にした。薄暗い廊下をカツカツと歩く音だけが聞こえる。
「逃げるしかない……金は、ある。金があれば……別の大陸でだってやりなおせる! シクスーだ、船を押さえて……そこから別の大陸へ……!」
だが、その前に片付けておかなければいけない取引があった。
ヴィレムはとある客室の前で足を止める。
ハンカチで冷や汗を拭い、手鏡で容姿を整える。商売人は顔色ひとつで物が売れなくなる。人一倍身だしなみに気を遣うヴィレムは第一印象の大切さを重んじていた。
準備を整えたところでヴィレムは扉をノックする。すると、取次役の侯爵の護衛が顔をのぞかせた。
「ベンロド侯爵はおりますか? 商売の件で話があると伝えていただきたい」
侯爵の護衛は「しばし待たれよ」、と告げて奥に引っ込んだ。しばらくして中に呼ばれたので入室する。
「夜分遅くに失礼いたします。例の奴隷が仕立て上がりました」
「やっとか。待ちくたびれたぞ」
ベンロド侯爵は半裸姿で酒を飲んでいた。ベッドには数人の高級娼婦が眠っており、いつの間に連れ込んだのかメイドまでもが部屋の隅でうずくまっていた。相変わらず手癖の悪い侯爵だ。
金蔓はどんなに悪人であってもお客様である。ヴィレムは内面の感情をきれいに隠しながら応対する。
「お待たせして申し訳ございません。もうすぐこの屋敷に到着しますので、商品の出来栄えをご確認いただきたく――。それと、性急で申し訳ないのですが代金の支払いもお願いいたします」
「……ふん。商品を渡してもいないのに金とは、卑しい奴隷商人だな。よかろう、約束の金だ」
ベンロド侯爵が護衛の兵士に目配せする。すると、護衛の兵士は部屋の金庫から大きな貨幣袋を取り出した。そして、ヴィレムの足元に乱暴に放り投げる。
じゃりんと重い金属のこすれあう音が鳴る。本当はこの場で金を数えておきたいところだが、侯爵ほどの人物が金払いを渋るとは思えないので我慢をする。
「たしかに。それでは、ごゆるりとお楽しみください」
ヴィレムは地面に投げ捨てられた金貨袋を恭しく拾い上げる。そして、金貨袋の重さに足が震えないように細心の注意を払いながらゆっくりと退出した。
ヴィレムは急く心を抑えながら自室に戻り金貨袋を覗き見る。
「帝国白金貨が百枚……、クハハハ……これだけあれば! 私はまだ、まだやれるぞ!」
ヴィレムは自室にため込んでいた財産、大量の金貨と宝飾品を詰め込んである
ヴィレムはざっと部屋を見渡して思考を巡らせた。
さて何がいる――?
ヴィレムは考えながらまずは愛用のレイピアを腰に差した。そして、干し肉のつまみと水をカバンに入れて背負う。馬に乗って海都シクスーへ向かえば三日程度。大した食料はいらない。
屋敷や土地は惜しいがこんなものはまた建てればいい。金さえあればどうとでもなる。奴隷調教師、メイドたちは主が消えたとなれば後は勝手にするだろう。残された奴隷たちはどうなろうと知ったことではない。
ああ、でも調教した魔獣たちは檻の鍵を開けておくとしよう。混乱が起きればヴィレムは死んだ扱いになり逃げるのが楽になるかもしれない。
「夜のうちに行くとするか……、【神獣の子供】と仲間がどこに潜んでいるかもわからんからな」
ヴィレムは風除けの帽子と旅人のコートを羽織り身をひるがえす。かつては冒険者のまねごとをしていたこともある。ヴィレムの行動は迅速だった。
数刻後。
夜陰に紛れて屋敷をでたヴィレムは一人、辺境伯の城である【ロア城塞】へと向かった。
***
誰も見ていないと思われたヴィレムの逃走をある者がじっと眺めている。
ヴィレムの屋敷の屋根に一人の男の姿があった。派手な服をきた道化師のような男、悪神ゲン・ラーハだ。
「いけないなぁ、ヴィレムくん。メインデッシュは最後まで皿の上にいないと……」
屋根の上に腰かけたゲン・ラーハは低い声で笑いながら、背中のマントをひるがえす。速足で街を行くヴィレムの背後をひたひたと追いかけていった。
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