第4章 幼神獣は悪と戦う

第16話 罠

 オレは、お菓子配りをした貴族の娘さんを凶悪犯の冒険者から助けたことで、ベイロン商会の恩人として屋敷に招かれていた。

 セレスから教えられて知ったのだが、公園でお菓子配りをしていた貴族の娘さんだと思っていた人物こそ、ベイロン商会の女当主であるシャルリーヌ・ベイロンであると知って大いに驚かされた。

 エルシリアの機転でセレスとアーリーンも無事合流、さらにシャルリーヌから是非にと乞われて、冒険者ギルドからベイロン商会の屋敷に拠点を移していた。


 オレたちが合流してから五日が過ぎようとしている。

 ベイロン商会の当主、シャルリーヌ・ベイロンに宛がわれた部屋にて、オレとセレスは静かに状況を精査していた。


「冒険者ギルドに動きはないか……。凶悪犯の一人がまだ捕まっていないが、襲撃される危険はないか?」


「ここ数日の状況から推測すると冒険者ギルドが襲撃される可能性はないかと。それよりも、ヴィレムは私たちの存在が脅威であると捉えています。冒険者ギルドの解放、クィユ族の交易品の販売、アズナヴールでのご主人様の人気、これらの活動を危険視しています」


「そうか。何か仕掛けてくるかと思っていたが、ここ数日それらしい気配はないな……」


 街を歩いているとき、屋敷にいるとき、冒険者ギルドにいるとき、それぞれ不審な気配がいないかを臭いで探していたが、不穏な殺気を見せているような輩はいなかった。

 うまく隠しているとしてもあまりに動きがなさすぎるので、本当にいないんだろうと思うしかなかった。


「この街に暗殺者ギルドはありません。子飼いの犯罪者たちにも技術ある者はいないようです。それに、ヴィレムは商人です。絶対に隠蔽できる可能性がない限り、正攻法で私たちを捕らえようとするはずです」


「とすると――。権力がでてくるか」


「ご明察通りでございます。ヴィレムはアリスター・グランフェルト辺境伯に命じて適当な罪でご主人様を捕らえるつもりです。辺境伯はロバン帝国の英雄。住民からの信頼も厚く、この街で悪く言う人はおりません」


 セレスは淡々と説明をする。


「辺境伯軍を撃破することは容易いですが、偽りの罪状であるとしても軍を壊滅させたとあれば、ご主人様の評判は地に落ちる」


「素直に辺境伯軍に従ったとしても、弁明するための機会が与えられるとも思えません。拘束後、うやむやに処刑されるだけでしょう」


 このような事態に陥ることは想定内だったはずだ。そのために回りくどい方法でクィユ族の奴隷解放を進めていたのだから。


「権力に抗うには権力が必要だ。そのために冒険者ギルドで知名度を上げるって話だったろう?」


「ええ、その通りです。ご主人様の尽力のおかげでアズナヴールの住民感情は好意的です。偽りの罪状を覆す証拠を挙げれば、アズナヴールの住民たちがアリスター・グランフェルトではなくご主人様を支持してくれる地盤はつくり上げました。あとはステージをつくるだけです」


 ステージは殺し屋の隠語だ。標的を無理なく殺せるタイミングを指す言葉なんだが――、


「……殺すのはだめなんじゃなかったのか?」


「ヴィレムの奴隷商人としての地位を殺すステージをつくります。仕上げはお任せください」


「オレはどうすりゃいいんだ?」


 セレスが調整をしてくれるのはいいんだがオレは手持無沙汰でしょうがない。頭を使うのは苦手だが、力仕事ならば手伝えるはずだ。何かあるだろうと尋ねてみるが、セレスは必要ありません、と首を振る。

 そして、オレの周囲に視線を巡らせたのち、いつもよりさらに無感情な声で言い放つ。


「侍らせた女性たちと遊んでいて下さいませ。もちろん、行きずりに誑し込む女が十人、百人になろうとも全く問題ございません」


「侍らせ……、誑し……!? お前な! ……待てよ、これは違うぞ…………?」


「わかっております。生前のご主人様も同じでございました。何もおっしゃらないでください、――すべて私におまかせください」


「待て、勘違いするな!!!」


「誰が見ても勘違いなどしようがないと思いますが?」


 セレスはジトっとした目でオレの背中と左右とその周りを見つめる。


 オレはソファに腰かけたアーリーンの膝の上に座らされている。左隣には非番のエルシリアが手馴れた様子で尻尾の手入れをしている。右隣には仕事の合間に現れたシャルリーヌが陣取り、甘いフルーツケーキを切り分けて口元まで運んでくる。


 ソファの周りでは、紅茶の用意をするメイド、お菓子を運んでくるメイド、それとなくお世話をできないかと待ち構えているメイド、メイド、メイド、メイド……メイドが何人も控えている。

 あんまり部屋に居座っているとメイドリーダーらしき女性がやってきて叱るが、入れ代わり立ち代わりメイドはやってくる。そして、尻尾や耳を撫でて去っていく。


 この状況は意図せぬ事故だ。断じてオレの責任ではない。


「シャルリーヌはオレが勝手にやったことだが! アーリーンとエルシリアはお前のせいだろうが!」


「私はご主人様のお世話をするように命じただけです。発情……ごほん、性愛を抱くまで育てたのはご主人様ではありませんか。性交は自由ですが節度は守っていただきたく」


「するか、バカ野郎――!!! だいたい、意思疎通ができないからおかしくなるんだ。言葉を教えろって言ったのに、いつになったら――」


「さて、……ご主人様、遊んでいる場合ではありません。辺境伯軍が動きました」


「お前は、……」


 都合が悪くなるとさらりと話題を変えるのが得意なセレスだった。しかしながら、遊んでいる場合ではないことも事実だ。

 すん、と街の臭いを探ってみる。

 セレスの言う通り街には緊張を感じる臭いが垂れ込めている。その臭いはだんだんとベイロン商会へと近づいている。


「軍が襲いかかってきた場合はどうする?」


「無傷で無効化できることが望ましいです。しかし、そんな手段は……」


「考えがある。巻き添えを喰らった人がいたら治療はまかせる」


「――承知しました。お任せいたします、ご主人様」


 オレとセレスはベイロン商会のある通りで辺境伯軍を待ち構えることにした。




***




 ――精霊神セレスが整えたステージが幕を上げる。




 セレスは大通りの真ん中に立つ。

 背後にはご主人様を抱きかかえたアーリーンがいる。大通りをぐるりと見渡せばベイロン商会の前にずらりと兵士が立ち並んでいる。門兵とは違うやや意匠の凝らした鎧をきた兵士たちは辺境伯軍だ。その数は辺境伯を含めて二十名ほど。

 その他の辺境伯軍は別の通りに配置されて、セレスたちを逃さぬように包囲網を形成しつつある。


 大通りを歩く人々が何事かと辺境伯とセレスたちを眺めている。それに加えて、エルシリアとシャルリーヌにお願いして【騒ぎ】を冒険者や市民に知らせたため、続々と野次馬が集まってくる。

 金髪を後ろで束ねた中年の男が馬に乗ってオレたちを見下ろしている。


「セレス、あいつが辺境伯か?」


「見た目は辺境伯ですが、偽物です。仮面の魔道具を奪い取れば正体を明かせますが、魔道具は壊さないでください。本物のアリスター・グランフェルトが戻れなくなりますので」


「わかってる」


 セレスがご主人様とこそこそと打ち合わせしていると、偽辺境伯が何やら懐から紙を取り出した。そして、大通りによく響く声で読み上げ始めた。


「貴様たちが【神獣】の名を騙り、怪しげな呪いを使い人々を惑わし、ありもせぬ噂を流していることは調べがついておる。私は犯罪者に慈悲などかけぬ、抵抗するならばこの場で斬り捨てる! ――者共、捕らえよ!」


 偽辺境伯が手を挙げると、控えていた辺境伯軍が動きはじめた。セレスはアーリーンとご主人様を背にしたまま何もせず迫る辺境伯の兵士を見守る。


「セレス、どうすんだ?」


「控えているエルシリアとシャルリーヌが話します。その後、偽伯爵を捕まえて仮面を外しましょう」


「おう、……もう少し待機だな」


 ご主人様が言うが早いか、人込みを割ってエルシリアとメイドと執事を連れたシャルリーヌが現れた。その後ろには冒険者や市場の商人が続いていた。

 真っ先に声を上げたのはエルシリアだ。


「辺境伯様、その罪状待ってください! 私たちは神獣様に助けられたことは間違いない事実です! それに神獣を騙るなどということは不可能です! 冒険者ギルドの魔道具でもクィユ族に抱えられた女の子が【神獣の子供】であることは調べがついています!」


「エルシリア、お前は神獣を騙る者たちに惑わされている。すまないが……話を聞いてあげることはできん」


「――……」


 ご主人様の色香に誑かされているのは事実なので「惑わされている」と言うのはあながち間違えてない。正直にこの場で発言するわけにはいかないですねー、とセレスはのんびり聞き流す。


「神獣を騙る者が冒険者ギルドを占拠した凶悪犯を退治したりしますか? そもそも、冒険者ギルドに凶悪犯たちの推薦状を寄こしたのは、辺境伯様でしょう? あの件についての説明はいまだされていませんよ!」


「あの件については申し訳なく思っている。後日、正式に謝罪しよう。だが、あの件とこの神獣を騙る者の逮捕は関係のないこと。控えてもらいたい」


「しかし――!!!」


 踵を返そうとする辺境伯に次々と声が上がる。


「グランフェルト様、待ってくれ! わしらは病を治してもらったんじゃ! もう歩くこともできんかった体がピンピンしとる!」


「おいらたちも! おいらたちは市場で助けられたんだ! あの子たちがいなけりゃ牢屋にぶちこまれていたのはおいらだったんだ!!!」


「辺境伯様。我ら衛兵が日々の生活に弛んでいたところに活を入れてくれたのは、あの幼い娘なのです! 詐欺を働くような者が衛兵の詰め所にわざわざやってくるはずがありませぬ! いま一度ご再考を!!!」


「グランフェルト様!!!」


「辺境伯様!!!」


 本当に捕まえていいのか、と辺境伯の兵士から伺いの視線が集中する。

 辺境伯は黙したまま語らないが、セレスの目は辺境伯が握る手綱にぎりりと力が入るのを捉えていた。あの偽物は機転の利く性格でないことは調べがついている。揺さぶりをかけていけば辺境伯らしくない行動を見せるはずだった。


 ――むろん、そんなまどろっこしいことをするつもりはありませんが。


 セレスがちらりと後ろを見てシャルリーヌへ合図を送る。シャルリーヌは心得たとばかりにエルシリアの前に歩みでると、辺境伯に向かって凛とした声で話しかける。


「辺境伯様、シャルリーヌ・ベイロンでございます。最後にお会いしてから数か月ぶりになりますね」


「…………ベイロンの娘か。久しいな。この場を借りてまで話すことがあるのかね?」


「……っ」


 辺境伯はやや苛立ちと子供には辛いかもしれない迫力をもってシャルリーヌへ問いかける。

 肩を震わせたシャルリーヌに執事が安心させるように隣に立つ。メイドもまたシャルリーヌをさせるように肩を抱きしめた。シャルリーヌは強い口調で先を続けた。


「――あります。辺境伯様は、貴方様は……本物のアリスター・グランフェルト辺境伯様でしょうか? 辺境伯様は領政に係る事業・物品購入は各商会に公正に割り振っておりました。ところが、ここ数か月の領内の開墾事業で購入する身分奴隷、生活物品の購入先、その他調度品の発注に至るまで、すべてクラーセン商会を融通する取引ばかりが目立ちます。この数か月でベイロン商会を含め他の商会からの購入がまったくないのは、公正さを謳っていたいた辺境伯様にあるまじき行いではありませんか?」


 シャルリーヌの後ろには中小関わらず駆けつけることができた商会当主たちがずらりと勢ぞろいしている。クラーセン商会から取引をしている、と情報を明らかにしたのはセレスだが、シャルリーヌは独自に中小の商会当主と情報交換していた。商会当主たちとやりとりをして、ここ数か月は辺境伯より発注を受ける公共事業がまったくないという事実は掴んでいた。

 そして、ここ数か月の公共事業に絡む作業現場に現れるのがヴィレム・クラーセンであることを商会の丁稚がたびたび目撃していた。


 ――方針が変わった、と言われれば何も言えませんが……辺境伯の人柄が知れ渡っているアズナヴールでは違和感があるでしょうね。


 エルシリアとシャルリーヌ、そして市民の一部からの嘆願。何の事情も知らぬ市民たちにも少なからず疑問が芽生えている。ざわめく聴衆たちを鎮めるように、辺境伯の声が大きく響く。


「ベイロンの娘……いや、シャルリーヌよ。まだお主は幼い故、不問とするが……このような重要な話は限られた者たちだけで共有すべきことだ。取引の件は後程使いの者を出す。詳細はその者に――」


 頃合いですね。

 セレスは辺境伯の言葉に割り込んで叫んだ。


「その必要はありませんよ、――ご主人様」


「了解だ」


 ご主人様はアーリーンの腕から飛び降りると、目にも止まらぬ速さで駆けだした。反応できない辺境伯の兵士の横をすり抜けて馬上の辺境伯へと迫るのは一瞬であった。


「なっ――、貴様――っ!?」


「化けの皮引っぺがしてやるぜ」


 辺境伯は咄嗟に顔を守ろうと手をかざすが、ご主人様が小さな掌が辺境伯の額をつかむのが速い。【仮面】の魔道具をご主人様が奪い取った。


 魔道具の効果が失われる。辺境伯の姿は消え去り、残されたのは皮鎧にシミターを提げた女盗賊レギナの姿であった。


「なん、てぇ……速さだい、このくそガキ――ッ」


「こいつ、村を襲ってた奴の生き残りか!」


 レギナがシミターを振るってご主人様に斬りかかるが、ご主人様はひらりと身をかわして地面に降り立つ。


「辺境伯様のお姿が!?」


「女に……あの腕の刺青、盗賊になったぞ!? どういうことなんだ……」


「辺境伯様は偽物だったのか!?」


 人々のざわめきが波のように広がっていく。


「た、隊長! 辺境伯様が……」


「これはいったい……何が、どうなっているんだ……」


 辺境伯の兵士は主の姿が変わってしまったことで動揺している。神獣の子供を捕まえなくてはいけないのか、辺境伯を騙っていた女盗賊を捕まえなくてはいけないのか、動けないまま固まっていた。


 作戦は完璧に決まった。もはやご主人様の勝利は目前だ。

 あとは女盗賊を捕らえ、仮面の魔道具を回収。……続いて囚われの本物のアリスター・グランフェルト辺境伯を救出して、ヴィレム・クラーセンの屋敷に押し込む。それでクィユの奴隷は解放される。

 セレスは一大局面を乗り越えて安堵の吐息を漏らした。




 そのとき――。

 セレスは突如として現れた反応に通りに立ち並ぶ商店の屋根を見上げた。屋根の上から何者かが飛び降りてくる。


「――生体反応、検知。いきなり出現した? また見えない情報が……? ご主人様!!!」




「ガァァァァァアアア――――ッ!!!」




 商店の屋根に現れた人物は雄たけびを上げながら、女盗賊レギナとご主人様に襲いかかった。


 右手に持った漆黒の長柄武器グレイヴを女盗賊レギナに振り下ろし、左手の斧槍ハルバードでご主人様を打ち据える。

 女盗賊レギナは長柄武器グレイヴを回避したものの馬上であったことが災いし、完全には避けきれなかった。赤い飛沫が飛び散る。ついで長柄武器グレイヴの一撃で首を落とされた馬が崩れ落ちた。


「ぎゃ、ぁ、あぁぁぁぁ!!! 目が、あたしの、目がぁぁぁぁぁ――!!!」


 額から涙のように血を流しながらレギナは絶叫を上げる。瞼の上から眼球を切り裂かれてしまったようで、馬から転げ落ちて地面を這いずっている。


「ちぃ、――なんだ、こいつ!」


 ご主人様は地面にいたおかげで左手の斧槍ハルバードの斬撃をなんなく回避する。しかし、雄たけびを上げる襲撃者は斧槍ハルバードを回転させてご主人様に連撃を叩きこんでいく。回避しきれなかったご主人様が斧槍ハルバードの柄をガードする。


「うぉ――!?」


 ご主人様の身体が浮いた。強烈な一撃に踏ん張りがきかずに小さな体が吹き飛ばされる。ご主人様はすさまじい勢いで殴り飛ばされて通りの商店に叩きつけられた。


「ご主人様――!?」


 ありえない事態にセレスの心が揺れた。女盗賊レギナを確保しなければ、と思う心とご主人様を助けなければ、と迷う心がせめぎあう。AIであった頃は躊躇うことなどなかったはずなのに――。


「だ、だいじょうぶ……だ! つよいぞ、そのクィユ族!」


 商店の崩れた棚を押しのけてご主人様が返事をする。

 セレスは襲撃者を、ご主人様がクィユ族だと言った者を見据える。瞬時にパラメータを読み取り絶句する。


名前:グラシア

Lv:36

種族:クィユ族の英雄(隷属)

性別:女

筋力:3200000

体力:2500000/2500000

魔力:10/10

闘気:4600000/6000000

神性:700000/700000

器用:570000

敏捷:1200000

反応:1800000

知力:10

精神:10

魅力:1100000

備考:狂戦士状態を自身に付与する魔道具を所持、幼神獣の加護(中級)。


 狂戦士状態のためパラメータは歪だが、いくつかの数値はご主人様のパラメータを大きく上回っている。


「ガァ――! ルァァァァ――ッ!!!」


 襲撃者グラシアの雄たけびが轟き、鼓膜がびりびりと震える。

 襲撃者グラシアは左手の斧槍ハルバードと右手の長柄武器グレイヴを振りかざし、辺境伯の兵士に飛びかかる。切り落とされた腕が地に転がり、鎧ごと胴体を貫かれた兵士の断末魔の叫びが上がる。

 突然にはじまった殺戮に野次馬は悲鳴を上げて逃げていく。


「なんで……、グラシア、どうしちゃったの……!? シアちゃん!!!」


「アーリーン、近づくな! アーリーン!!!」


 アーリーンは無謀にも暴れまわる襲撃者グラシアへと走り寄っていく。呼び止めるご主人様の声がどこか遠くに聞こえる。


 セレスは思いもよらなかった事態に思考が鈍くなっていた。

 何故、狂戦士状態になったクィユ族の接近に気がつかなかったのか。何故、クィユ族の救出に向かった近衛隊長がこの場に現れたのか。何故、グラシアが【英雄】であると情報を得られなかったのか。

 何故、何故、何故――。


 ループする思考の中で、「さぁて、なんでだろうねえ?」、とささやく男の声が聞こえたような気がした。



***




 ――とあるどこかの森の奥にて。




 女盗賊レギナは目が見えないまま腕を引かれて走っていた。伊達に盗賊として長く生きていない。音だけでも手を引いてもらえれば走ることはできた。


「ゲン・ラーハの兄貴、助かったよ……、まさかあんなところでクィユの奴隷が襲い掛かってくるとは思わなかったから、油断してたのさ……」


「そういうこともあるだろうなぁ、ハハハッ。気にすんなよ!」


 レギナは絶体絶命の窮地であった。

 偽辺境伯であることがバレてヴィレムの利用価値もなく、視力を失い盗賊として生きていくことすらできなくなったレギナは、もはや衛兵に捕まるか神獣の子供に殺されるのを待つだけだった。

 しかし、目が見えないまま這いずっているところをゲン・ラーハに助け起こされ今に至る。


 ただ、ここはどこなんだろうか。

 アズナヴールの街を出たはずもないのに濃厚な緑の臭いがする。靴底を踏み抜く感触はまるで森の土のような柔らかさだ。


「――ぅっ」


 レギナは地面の妙な突起に足を引っかけて転んでしまった。するりとゲン・ラーハの手が離れてしまう。


「ゲン・ラーハの兄貴、すまない……転んじまってさ。ちょいと起こしてやくれないかい?」


 しかし、返事がない。


「兄貴? どこなんだい?」


 手探りで地面を触れてみてもゲン・ラーハの姿はない。足音がしないのですぐそばにいるとは思うのだが、どうして……。


「グギャギャ――!」


 突然、背中から何かにのしかかられてレギナは転倒した。シミターを引き抜こうと腰に手を当てるが、いつの間にかなくなっている。


「ゲゲゲ――!」


「ギャッギャッギャッ――!!!」


 汚らしい声と生臭い異臭、姿が見えなくても魔物の正体はすぐにわかった。


「なんでゴブリンが!? ゲン・ラーハの兄貴! ゴブリンだ、ゴブリンがいるよ!!!」


 足音を頼りに数匹を殴り倒すが、目が見えず、武器もなくてはどうしようもない。レギナはあっという間に伸し掛かられて倒れ伏してしまった。手足に激痛がはしる。健を切られたのだ、とわかると、すぐに両手足に力が入らなくなっていく。ゴブリンたちはレギナの衣服をすべて剥ぎ取り、健を切った手足を縛りあげていく。


「はなせ――、はなしやがれぇってんだよぉぉぉ!!! くそがぁぁぁ!!!」


 ゴブリンは雄しかいない種族であり、繁殖のために別種属の雌を捕らえて繁殖のために巣に連れ帰る。このまま巣に連れていかれればゴブリンの繁殖に使われる。全滅した冒険者であれば次の部隊が救出にきてくれるかもしれないが……、レギナは一人だ。もし、誰も知らない人里離れたゴブリンの巣であれば死ぬまで……。


「ゲン・ラーハの兄貴!!!」


「聞こえてるよぉ、レギナ。もうすぐヴィレムの旦那から報酬をたんまりもらえて一生遊んで暮らせるはずだったのに、あーあ、残念だったなぁ……このままゴブリンに孕まされて、一生まっくらやみの穴倉生活……ま、しゃーねぇやな。運が悪かったってことだ」


「ぁあ!? なに、いって――!!!」


「いつぞやも新人の女冒険者をみんなでボコってゴブリンの巣穴に放り込んでやったけど……あんまり違いはねえな? いまの気分はどんなもんかね?」


「兄貴……! 助けてくれよ、あたいが何をしたって言うんだい……!?」


「なんもしてねえよ? ただ、――俺様は、他人の絶望ってやつを喰うのが大好きなんだ、ヒャハハハハハハハ――ッ!!!」


「なん、でぇ……!? だずげ、でぇ、ぇ、ぇ……!!! ……おごっ!?」


 涙を流して半狂乱で暴れるレギナの口に猿轡が嵌められた。とうとう声すら出せなくなり、芋虫のようにもがくだけとなったレギナは、ずるりずるりと引きずられ薄暗い洞穴へと消えていった。


「人族は欲望がつよいだけあって墜ちたときはすげぇが……喰い飽きてきたな。メインディッシュは残っているんだが、たまには別の……そうだな……、おう! あのは旨そうだな…………ククク」


 ゲン・ラーハが指をパッチンと鳴らす。いい思いつきだと自画自賛しながらニタリと唇を歪めた。

 ゲン・ラーハは背中に羽織ったマントをひるがえすと、派手な道化師のような姿はゆらりと森に溶け込み、やがて気配は消え去ってしまった。

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