過去と未来
私の心の支えは関くんがつけた痕だけだった。私の意志など関係なく進んでいく結婚の話に焦らなかったわけじゃない。でも関くんと約束したから。関くんは約束を破るような人じゃない。絶対に、迎えに来てくれる。そう、信じていた。
「……辻」
仕事から帰ってくると必ず私の部屋を訪れる部長は毎日何かプレゼントを持ってきた。お花だったり、私の好きなケーキだったり。いい人だと思う。上司として尊敬もしていたから。でも今は私を閉じ込める人の仲間なんだ。
「……どうして」
「ん?」
「どうして、私なんですか。どうして……」
「……辻」
部長の大きな手が伸びてくる。私は無意識のうちにその手を避けて。ハッとして顔を上げたら、部長は少し傷付いたような苦笑いをしていた。
「……おやすみ」
部長が静かに部屋を出て行って、ドアが閉まる。頭の中がぐちゃぐちゃでよく分からない。私はただ、関くんを待っていればいい。そう、だから。部長の気持ちは、無視したままで……
「……っ」
ベッドの上で膝を抱える。苦しい。苦しい、だから、早く。迎えに来て。
それからまた何日か経った日だった。突然部屋のドアがすごい音を立てて開いた。驚いて立ち上がった私はふわりと誰かの温もりに包まれる。その香りには憶えがあった。
「……みやちゃん……?」
「七瀬、心配した……!」
ポロリと目から涙が零れる。ずっと我慢していたものが溢れ出して、私はみやちゃんにしがみついて泣きじゃくった。
落ち着いた頃、ベッドで隣に座ってみやちゃんは私の背中を撫でてくれた。ずっと不安だったから安心する。
「突然連絡が途絶えてどうしたのかと思った」
「うん、ごめんね……」
「関くんには会ったの?」
私が頷くと、みやちゃんは少し安心したように微笑んだ。
「関くんが血相変えてうちの会社に来た時は驚いたよ。最近忙しいのかななんて思ってたら、まさか実家に監禁されてるなんて……」
「で、でもみやちゃんどうやって入ってきたの?お母さんに見つかったら……」
「会って話すだけって説得してたらこんなに時間かかっちゃって」
苦笑いしたみやちゃんに申し訳なさでいっぱいになる。きっと何度も足を運んでお母さんに話してくれたんだろう。でもみやちゃん以外なら話も聞かずに門前払いだっただろうから。みやちゃんが会いに来てくれて本当によかったと思う。
「そういえば、婚約者七瀬の上司なんだって?」
「うん……」
「どうして?向こうの家も名家なの?」
「よく知らないの。でも部長は昔からうちの両親に世話になったって……」
「そう……」
沈んでしまった雰囲気を明るくしようと、私はみやちゃんに言った。
「あ、あれから関くんに会った?関くん、私を迎えに来てくれるって……」
みやちゃんの顔が、更に辛そうに歪んだから。心臓が嫌な音を立てた。
「関くんには……もう会えないよ」
何かの冗談だと思った。信じられなくて、どういうことか分からなくて、ヘラッと笑う。みやちゃん、冗談言ってるんだよね?みやちゃんがこんな笑えない冗談言うなんて珍しい。
でもみやちゃんは目にいっぱい涙を溜めて私を見た。
「関くん、あの日事故に遭ったの」
「え……」
「七瀬に会いに行って、その帰り」
「う、嘘だよね……?」
それでもまだ信じられなくて笑う私にみやちゃんは耐えきれないと言ったように涙を零した。
「無事なの」
「そう、よかった……」
「よくないの!!関くん、七瀬のこと忘れちゃったの……!」
叫ぶように言ったみやちゃんに固まってしまう。忘れた?誰が?誰を?体も表情も頭も固まってしまって、ただ周りの景色が一瞬にして真っ暗になったような心地がした。
「澤井くんと二人でお見舞いに行って七瀬の話したの。そしたら、そんな人知らないって……」
「……」
「今は、亜美ちゃんがずっとついてる」
「ど、どういうこと?全然意味が……」
「亜美ちゃん、関くんのこと好きだったんだって」
今までのことが走馬灯のように蘇る。関くんとのこと。亜美ちゃんとのこと。亜美ちゃんが本当に好きになったのは、関くんだったの……?
「……嘘だよ」
「七瀬……」
「信じられないよ。みやちゃん、その冗談笑えない」
「七瀬!」
「だって、それじゃあ私たちの時間は何だったの……!」
みやちゃんに言ったって仕方ない。分かってる。みやちゃんは何も悪くない。関くんだって、悪くない。でも……、胸が張り裂けそうに痛くてどうにもならない。
***
「ただいま」
みやちゃんが帰って数時間後、いつものように部長が私の部屋に来た。結局取り乱してみやちゃんに嫌なことを言ってしまいそうだったから帰ってもらったけれど。部長にはもっと酷いことを言ってしまいそうで怖い。
「……知ってたんですか」
「ん?」
「関くんが、事故に遭ったこと」
「……」
「関くんが私を、忘れちゃったこと」
部長は無表情のまま私を見つめ、そしてたっぷりの間の後頷いた。誰かに聞いたのか。そんなことどうでもいいのに。部長の低い声が耳について不快だ。
「……会わせてください」
「……」
「そうじゃないと、信じられない。みんなみんな私たちを引き離そうと……っ!」
「辻!」
部長の手が私の手首を掴む。この前は触れなかった手が、私を掴む。
「……傷付くだけだ」
どうして部長がそんな泣きそうな顔するの?泣きたいのは私だよ。
「……最後にしますから」
「……」
「関くんと会うのも、関くんのことを考えるのも最後にしますから。お願いします、会わせてください」
私の感情のない目を見て、部長はため息を吐いた。そして頷く。きっと、これを逃せばチャンスはない。逃げるんだ。関くんと一緒に。どこか遠くに。だって、関くんが私を忘れるわけないもん。
***
「ここだ」
部長の車が着いたのは本当に病院だった。お母さんには部長が上手く嘘を吐いてくれて外出できたけれど。聞いたことが現実的になって怖い。私は部長に続いて病院に足を踏み入れた。
「部長……!」
ある病棟に入ると、聞き慣れた声が部長を呼んだ。その声の主は部長の後ろに立つ私を見て目を見開いて、どこか切なそうに顔を歪めた。でもけれど冷めた目を向ける。
「今更何しに来たんですか」
「……」
「勝手に消えて、関くんが大変な時にそばにいなかったくせに」
苦々し気に言う亜美ちゃんの肩をポンと叩いて、部長はある病室を指差した。
「ここで待ってる」
待ってる、なんて言葉。今だけは聞きたくなくてぐっと奥歯を噛んだ。
病室は真っ白すぎて何だか心が更に落ち込む。関くんは奥のベッドに座ってじっと窓の外を見ていた。頭と腕に包帯が巻かれていて、事故に遭ったのは本当だったんだと胸が痛くなる。私に会いに来なければこんな目に遭わなかったのかと思うと辛かったけれど、今更そんなことを考えても意味がない。
私をあの優しい腕でぎゅっと抱き締めて、大丈夫だよって、少し遅くなったけれどちゃんと迎えに行くと。そう、言ってほしい。
「関くん……」
私の声に関くんは反応した。そして、振り向いた。
「あなたが、七瀬さん?」
他人行儀な声に、みんなが言っていたのは本当だったのだと嫌でも認めてしまって。心の中にズンと大きな石が乗ったみたいだった。
「うん、そうだよ」
関くんのベッドまで歩いていくと、関くんは私からすっと目を逸らした。よかった。泣きそうな顔見られなくて済む。関くんはどこまで覚えているのだろう。きっと幼い日のことも忘れてるんだろうな。私のこと、全部。
「関くん、ごめんね」
「……」
「本当に、ごめんなさい」
「……」
「約束、守れないね」
責める気にもなれなかった。私のほうを見ようともしない関くんからは、前みたいな優しい雰囲気は全くなくて。関くんのそばにはいられない。きっとお母さんが許さない。私には時間がない。関くんと一緒なら大丈夫だと思ってた。でもその関くんがいないなら……
私、本当に弱いな。普通の人は、失恋した時どうやってその痛みから立ち直るんだろう。みやちゃんはどうしていたっけ。失恋さえしたことがない私には分からない。関くんを忘れることなんて、きっとできない。でも、関くんは。私の意志も気持ちも関係なく忘れてしまった。
「……関くん」
「……」
「私、関くんに出会えてよかった。本当にありがとう」
「……」
「ずっと、待ってる。思い出さなくてもいい。待つだけは許して」
諦めるとか、好きじゃなくなるとか。そんなことはどうでもよくて。ただ苦しい。こんな風にカッコつけたって、本当は関くんにまた抱き締めてほしくて仕方ないんだから。
病室を出ると、部長と亜美ちゃんが前に立っていた。私は二人にぎこちない笑みを向けた後歩き出す。悲しいなんて感情もなく、あるのは虚無感だけ。
「……辻」
部長が後ろをついてきていたのは分かっていたけれど、振り向かなかった。名前を呼ばれても振り返らず、ただ歩く。これが本当に最後だったのかな。もう、関くんに会えないのかな……。
「うっ……」
今更泣くなんて。いや、関くんの前で泣かなくてよかったか。私、何であんなこと言ったんだろ。今すぐ思い出せって殴ってやればよかった。
「関くん……」
「……七瀬」
ふわりと後ろから抱き締められて。部長だと思った私は思いっきり振り払った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます