星が輝く夜に

白川ゆい

プロローグ

 眩いネオンに目がチカチカする。いつもなら足早に通り過ぎるここを、私は今男の人に手を引かれて歩いていた。まさかの展開に自分でも頭がついていかない。どうしてこんなことになったのか。私を置いて帰ったみやちゃんを本気で恨みたい。


「ここでいい?」


 振り向いた彼からは特に欲望やら焦りといった感情は見られない。体の関係を持つ直前って、男の人はそんな感情でいっぱいになるのだと思っていた。……まあ、そんな経験ないから知らないけど。

 体をべったりと密着させて歩く男女。ホテル街。そんな彼と物怖じしている私は、この場に不釣り合いな気がした。

 始まりは二時間前。高校の頃からの大親友であり社会人になった今ではルームメイトにもなったみやちゃんと飲みに来ていた。みやちゃんの本名は岩田みやび。地味で内気な私とは違い明るく活発な女の子だ。


「私もう一生恋なんてしない……」


 二月に5年間付き合った彼氏と別れてから、みやちゃんの口癖はこれになりつつある。5年付き合って結婚も意識し始めた頃に、彼に浮気なんてされたらそりゃあそうなるよね。あああ、とテーブルに突っ伏したみやちゃんの背中を撫でた。


「ところで、あんたはどうなのよ」

「うっ」


 突然矛先が私に向く。みやちゃんは基本的に優しいけれど、お酒を飲むと説教臭くなる。その時のみやちゃんはとにかく私の恋愛についてツッコんでくるので恐縮するしかない。


「な、なにもないです……」

「やっぱりな!私があんたの恋愛について聞いたのは高校生の頃の根岸くんだけだよ。しかも何もせず見てるだけ!」

「うっ……」

「あんた一生処女でいるつもり?!」


 そ、そんなことハッキリ言わなくても……!みやちゃんの言う通り、私辻七瀬22歳。処女です。

 今までチャンスもなかった。私は昔からものすごく地味で目立つのが嫌で、きっと高校時代の同級生も私を覚えている人のほうが少ないだろう。


「みやちゃんの隣にいた?あー……そういえば誰かいたような……」


 と、誰もが言うに違いない。そんな私に男の子と関わるチャンスや、ましてや初体験を済ませるチャンスがあるわけもなく。今まで処女を捨てる気配もなく22年生きてきた。

 焦っていないわけじゃない。私だって素敵な恋をして素敵な彼氏が欲しいと思うし、恋の話をしている女の子は総じて綺麗だ。自分もそうなりたいとは、思うのだけれど。


「まず出会いがないし……」

「職場に山ほどいるでしょ」

「職場の人は……その、気まずいじゃん?」

「じゃあ合コン」

「ご、ごうこ……!まず誘われないし、初めて会う男の人となんて……」

「あー!ウジウジウジウジ!あ、あそこにいる男の子二人に声かけよ!ね!」


 みやちゃんの暴走を止めることができなかったのが運の尽き。みやちゃんは止めようとした私の手をすり抜けて近くにいた男の子二人に声をかけてしまった。相手の反応は上々だったらしく、みやちゃんが振り向いて手招きした。男の子の視線が私に向く。そのうちの一人の涼しい目と目が合って。私は慌てて逸らして荷物を持った。


「へー!じゃあ俺らより年上なんだ!俺らは二つ下、大学生だよ」


 大学生とお酒を飲むなんて法律を犯していないだろうか……!そう思ったけれど彼らも二十歳だし特にやましいことは何もなかった。

 みやちゃんは隣に座った明るいほうの男の子、確か澤田くんだったと思う、と盛り上がっていた。私の横に座っている、さっき目が合った涼しい目の彼は関くんというらしい。とても大人っぽくて年下には見えない。クールな雰囲気といい、落ち着いた所作といい。終始ソワソワしている私とは正反対だ。


「何か食べる?」

「えっ、あっ、はい!いいえ!食べます!」


 その上気配り上手。とても素敵な人だ、と、思う。どっちだよ、と笑った顔も。


「ところでさ、二人は彼氏いるの?」

「いたら男の子に声かけたりしないよー」

「そっか。俺らもいなくてさ。関なんか最近別れたばっかで」

「え?私もそうなんだ!」


 その話題から、今度はみやちゃんと関くんが盛り上がり始める。もちろん話題についていけない私はひたすら飲んで食べて。みやちゃんに早くいい人が出来るといいな。それがこの二人の内のどっちかなら、更にいい。二人ともいい人そうだし。……ま、男の子とほぼ関わったことのない私の見る目なんて0だろうけど。


「七瀬ちゃんは?好きな人とかいるの?」


 優しい澤田くんはきっと興味がないだろう私にも話題を振ってくれる。慌てて首を横に振った。


「今まで彼氏もいたことなくて」

「え?マジ?一人も?」

「はい」


 ……あ、何か変な空気になった。やっぱりこの歳で一人も彼氏がいたことないって引かれるか。引かれるよね。でもここで誤魔化す技術が私にはない。


「でもその分純粋だし、ほんといい子だよ」


 さっきまで説教する側だったみやちゃんがフォローに回ってくれる。うう、みやちゃんほんといい子……。でも、今まで黙っていた関くんが突然口を開いた。


「別にそんなの気にすることじゃないでしょ。今までいい男に巡り合わなかっただけ」


 クールな声で、クールな仕草で、クールな言葉で。でも、「ね?」と私に微笑みかける笑顔だけは優しくて。ああ、本当に素敵な人だ。そう思った時にはもう恋に落ちていたのだと思う。

 簡単だと、自分でも思う。でも男の子に全く免疫がない私にとって、彼の言葉と微笑みは破壊力抜群だった。それだけでいっぱいいっぱいだったのに、酔っ払っているみやちゃんは更に爆弾発言をした。


「関くん、お願いします!七瀬の処女、奪ってやってください!」


 頭下げるな!重いわ!重すぎるわ!笑顔が引きつっている澤田くんと、無表情の関くん。終わった、この恋一瞬で終わった。ヒクヒクと口角が引き攣る。……けれど。


「俺で、よければ?」


 何故か疑問系の関くんの言葉に私はその場で卒倒しそうになった。簡単にそんなこと言っちゃダメ!恋愛経験0だと簡単にその気になっちゃうんだから!


「じゃあ私たち帰ろう!若い二人の邪魔しちゃいけないから!」


 お見合いの時のお節介な仲人役のような台詞を吐いて、みやちゃんは澤田くんを引きずって去って行く。未だに放心状態だった私はみやちゃんを止める気力もなく。さっき頼んで来たばかりのカシスオレンジを一気に飲み干した。


「なっ、なんかごめんね!みやちゃんとんでもないこと言ってたね!」


 どうしよう。熱い。顔が。体が。隣に座っている関くんは手を少し動かせば触れられる距離にいて。息苦しい。


「あのさ」

「は、はい!」

「さっきの、本気だから」

「え?」

「俺が、七瀬ちゃんの処女貰うって話」


 涼しげな目が、私に向く。まるで射抜かれたように動けない私を見て、彼が微笑む。そして、お酒のせいか少しだけ赤くなった顔を私に近付けた。吐息のかかる距離で、彼が囁く。


「……出よっか」


 と。

 そして、今私は彼に手を引かれホテル街を歩いている。あまりの展開に目眩がしそうだ。私はどうして初対面の男の人と手を繋いでこんなところを歩いているのか。しかも、終始無言で。緊張しすぎて吐きそうだ。もしかしたら酔っ払っているからこんなに心臓がドキドキしているのかもしれないと思ったけれど、一瞬彼と離れてトイレに行った時は落ち着いたから絶対に違う。頭の中は混乱して、どうでもいいことを延々と考えてしまう。

 処女でそんな機会もないくせに、何故か下着だけは毎日気合を入れていいのを着けていた自分を初めて褒めたい気分だった。え、ていうか、ほんとにするの?


「ここでいい?」


 彼が振り向く。さっきと変わらない涼しげな目だ。断るならここしかないのに、帰るならここしかないのに。混乱している私はひたすら首を縦に振った。処女であることに焦っていた。彼のことを素敵だと思った。たった二つの理由で、私は今処女を彼に捧げようとしている。本当にいいのか?後悔しないのか?……わからない。後悔、するのかな。

 もちろん初めて入ったラブホテルをキョロキョロ見渡す私とは違い、彼は落ち着いた様子で部屋を選んでいた。そして、「ここでいい?」とまたさっきと同じ台詞を言って、私も同じように首を縦にブンブン振った。繋いだ手の汗が酷い。今まで未知の世界だったラブホテルの室内に入った私の感想。


「す、すご!!見て関くん!!テレビでか!お風呂は……うわー!広い!あのマット何だろう?あ、あ、あ!ベッド大きいピンクだー!!」

「ははっ、そうだね」


 ……はしゃぎすぎました。関くんはソファーに座って既に寛いでいる。慣れているであろう関くんの態度と、初めてのラブホテルにはしゃぎ過ぎた私。……私のほうが年上なのに恥ずかしい。


「お風呂入る?」

「えっ、一緒に?!」

「……別に、一緒に入ってもいいけど?」


 ニコッと笑われて、また恥ずかしさに泣きそうになる。関くんは少し意地悪だ。


「は、入ってくる!」


 真っ赤なまま、私は洗面所に入った。シャワーを浴びて、とにかくムダ毛がないかをチェックする。本当にするかは分からないけれど、一応エチケットとしてね?……だがしかし、やる気満々である。私は本当にこのまま処女を捨てるのだろうか。少し怖いし、不安だし、後悔するかもしれないけれど。知ってみたい。男の人に抱き締められる感覚。キス。そして、それ以上も。ここまで処女だったのだから本当に好きな人と初めては終わらせるべきなのかもしれないけど、私の場合特にこだわって処女でいたわけじゃないし、ただチャンスがなかっただけだし。

 ……いいや。私今日、処女卒業しよう。

 私がお風呂から上がると、次に関くんがお風呂に入った。戻ってきた関くんは上半身裸で腰にタオルを巻いただけで。若い男の人の裸を生で見るのは初めてで、照れる私を見て関くんは微笑んでいた。

関くんが私が座っていた隣に座る。ギシッとベッドが軋んだ。そして。関くんの腕が肩に回る。近付いてくる顔。ゆっくりと、でもしっかり。唇が、重なった。


「……怖い?」


 触れ合っただけの口付けが終わり、関くんが至近距離で私を見つめる。綺麗な目。涼しげだけど、透き通ってる。


「キスってさ、レモン味じゃないんだね」

「はは、じゃあ、何の味がした?」

「ビールの味」

「あはは、七瀬ちゃんって、面白いね」


 ひとしきり笑った後、関くんは私をゆっくりとベッドに押し倒した。


「優しくする」


 突然、関くんが色気を纏う。長い指で髪をかきあげ、彼は私を見下ろした。ドキドキと忙しなく動く心臓が、皮膚の上からでも分かる。関くんの指がツツッと私の肌を伝い、どんどん下がっていく。息が苦しい。どうにかなってしまいそう。


「ねぇ、七瀬ちゃん」

「んっ、な、なに」

「忘れないでね」

「え……?」

「今から、俺が七瀬ちゃんのこと抱くから」

「うん……?」

「俺の感覚全部、忘れないで」


 ……そこからのことは正直よく覚えていない。ただ熱くて、心臓が破裂しそうで。でも関くんの指や舌や、全ての感覚だけは生々しくて。忘れたくても忘れられないと思った。

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