隣にいるべき人

「あ、悠介久しぶり!」

「おー」


 彼女は翔さんから悠介さんに目を移すと、翔さんにしたように抱きつく。悠介さんは「香水くせー」と顔を顰めながら彼女を受け入れた。同じようにメグさんと滝沢(思いっきり拒絶していたけれど)にもして、彼女は私に視線を移した。


「あ、バイトの子?また新しい子だね。翔、手出しちゃダメだよ」

「……うるさい」

「え、もう出しちゃったの?本気になっちゃダメだよ、翔は……」

「美花。そんなんじゃないからもうやめて」


 そんなんじゃない。私、翔さんの恋人じゃなかったっけ?私と付き合っていること、この人に知られたくないのかなって。この人が来てから翔さんは私を見てくれない。まるで眼中に入っていないかのように。

 盛り上がるみんなの輪の外で、私一人になってしまったような、そんな感覚。立ち竦む私は、彼女のことをぼんやりと眺めていた。美しい花。名前の通りのその人は、簡単に翔さんに触れる。長い指で、美しい所作で。翔さんの動揺が痛いくらいに伝わってきて、私は静かにその場を離れた。

 コツコツと慣れないヒールの音が静かな路地に響く。馬鹿みたい。少しでも翔さんに釣り合いたくて履いたヒールも。いつもより濃くした化粧も。結局素材がいい人には敵わないし、私はそもそも翔さんのそばにいられるような人間じゃないのに。涙も出ない。今まで自分は何を勘違いしていたんだろうって、本気で自分を馬鹿にしている。


「すずちゃん!」


 後ろから名前を呼ばれて。私は一つ息を吐いて振り向いた。


「……一人でいなくなんな。送ってく」


 私がいないことに気付いて追いかけてきてくれたらしい悠介さんが先に歩き始めて。私は静かに彼の後を歩き始めた。翔さんは、私がいないことにも気付かなかったらしい。ふっと笑うと、悠介さんが振り返った。


「……すずちゃんって結構自分の中で完結しちゃうタイプだな」

「え?」

「ネガティブっつーか、傷付かないように必死で自分を守ってる感じ」


 言い当てられて、口を噤む。気付かないうちに拗ねたように口を尖らせていたらしい、悠介さんはハハッと笑った。


「あれさ、美花。アイツ翔の兄貴の嫁なんだ」

「……え……」

「自由な奴で、兄貴も馬鹿みてぇに浮気ばっかしてて。なんかあるとすぐ翔に泣きつく」

「……」

「すずちゃんが思ってるようなことはないよ」


 でも、彼女は翔さんの特別なのだ。メグさんも言っていた。前に翔さんのことを好きだった人も言っていた。翔さんは、お兄さんの奥さんを好きだったってこと……?


「翔はさ、昔から一人で生きてきたから。親もいなくて、年の離れた兄貴が金の面倒は見てくれてたけど仕事でずっと海外にいるし。自分は必要ないって昔から思い込んでた」

「……」

「だから飯も食わねぇ、生活に必要最低限なことしかやらねぇ、近付いてきて自分を必要だって言ってくれた人間は誰でも受け入れる。でも誰にも執着しない」

「……」

「すずちゃんにはすごく執着してるから、俺安心してんだ」

「……」

「だからさ、アイツから離れないでやって」


 悠介さんの言葉も、私は今素直に受け入れられない。だって翔さんはさっき、そんなんじゃないって言った。私が彼女だってハッキリ言わなかった。そんな理由、一つしか思いつかない。彼女に知られたくなかったんだ。


「……私は……、翔さんに釣り合うような人間じゃないんです」

「……」

「翔さんの隣に立つのは、綺麗な人じゃないと。翔さんに相応しい人じゃないと……」

「なぁ、すずちゃん」


 悠介さんの鋭い視線が突き刺さる。怒ったような目。何も言えずにいると、悠介さんは口を開いた。


「すずちゃんは、アイツの隣にいたいって思わないの?」

「……」

「アイツの隣に立つのが相応しいのは、アイツが一緒にいたいと思った奴だよ。容姿なんて関係ない」

「っ、」

「どんなに綺麗でも、アイツが一緒にいたいと思わなきゃ意味がない。すずちゃん、不安になる気持ちも分からなくもないけど、まずアイツの気持ちを一番に考えてやってよ。もちろん、すずちゃんの気持ちもな」


 悠介さんが目尻を下げて微笑む。翔さんの、気持ち。翔さんが私といたいと思ってくれるなら、その気持ちに応えたい。でも、怖い。複雑な気持ちを抱えたまま、私は悠介さんの後ろを黙って歩いた。

 夜中に翔さんからメールが来た。話したいことがある、と。嫌な予感しかしなくて返せなかった。

 次の日、バイトに行くとカウンターのところに美花さんがいた。こんにちは、と頭を下げると彼女はふいっと顔を背ける。あ、私の存在は受け入れられていないんだな。モヤモヤしながらもバイトのために気持ちを切り替えた。

 仕事中も美花さんは翔さんを何度も呼んだ。翔さんは迷惑そうな顔をしながらも彼女に応えてあげていて、私はそんな二人を見るのが辛くて仕事に没頭した。幸い今日は忙しい日であまり他のことを考えなくて済んだと思う。

 今日は賄い食べないで帰ろうかな。そう思ってキッチンにいる翔さんに声をかけた。


「あの、今日は賄いいりません」

「え、なんで?」

「あ、その……」


 翔さんの眉間に皺が寄る。私が逃げようとしていること、気付いたんだ。私は慌てて理由を作った。


「この後、友達と約束があって……」

「こんな夜中に?」

「……」


 嘘をついていることがバレバレだ。目を泳がせる私に、翔さんは一つため息を吐く。


「……昨日、話があるってメールしたよね?5分で済むから聞いて」

「……」

「……すずちゃん、あのさ、」

「翔ー!仕事終わったなら飲みに行こうよ!」


 明るい声を響かせながら、美花さんが厨房に来る。そして翔さんの前に立つ私を睨み付けた。


「あ、私、そろそろ帰ります」

「……」

「お疲れ様です」


 ピリピリとした空気のキッチンを出る。後ろから、声が聞こえた。


「何?大事なこと話してた?」

「……ううん。あの子は関係ない」


 関係ない。そう、私は関係ない。ただ、翔さんを好きになった女の子の一人。特別になれなかった、女の子の一人。翔さんの言葉は容赦なく私の胸を抉った。

 ……関係ないなら、あんな風に触れないで。関係ないなら、好きだなんて言わないで。やっぱり翔さんは酷い人。こんなに夢中にさせた後に、簡単に捨てるんだから。


「悠介、あんたも飲みに行くよね?」

「あぁ?ふざけんな。俺は明日も朝早くから学校だ」

「えー、つまんない」


 着替え終えてお店に戻ると、カウンターでいつものように計算をしている悠介さんに美花さんが話しかけている。私は二人に「失礼します」と言ってお店を出ようとした。


「あ、ちょっと待て。一人で帰んなって言ってんだろうが。飯食わねぇの?」

「今日はちょっと、用事があるので……」


 その時翔さんがキッチンから出てきて美花さんの隣に立つ。私を見ようともしないで。……やだ、泣きたくない。絶対に泣きたくない。急いで頭を下げてお店を出ようとしたら、後ろから悠介さんの舌打ちが聞こえた。


「翔、お前……」

「藤堂」


 悠介さんの言葉を遮って、口を開いたのは滝沢だった。


「すみません、この後友達の家で飲み会なんです。行くぞ」

「っ、う、うん」


 助けてくれたんだ。そう思って一緒にお店を出る。我慢していた涙が一気に零れ落ちた。


「っ、あり、がと」

「……槙原に電話してみたら」

「う、ん」


 香穂に電話すると、今すぐおいでと言ってくれた。

 滝沢は私を香穂の家まで送り届けてくれて、私は抱き締めてくれる香穂に縋るように泣いた。

 やっぱり、私にはレベルの高すぎる恋だった。痛くて仕方ない。でも、忘れなくちゃならない。こんなに痛いなら、もう恋なんてしたくない。人生で一番の失恋に、私はひたすら泣き続けた。

 次の日、泣きすぎたからか熱が出た。家に帰るのも辛くて、香穂はそのまま家に置いてくれた。看病もしやすいし、と笑って。


「ねぇ、もういいの?」

「うん」

「翔さん、話あるって言ってたんでしょ?ちゃんと聞いたほうがいいんじゃない?」

「……うん、そうだね」


 でもまだ、今は痛すぎる。少し時間を置きたい。そんな私に、香穂は微笑んだ。


「しばらくはゆっくりしなよ。すずは少し、頑張りすぎたんだよ」


 遠い世界の人に必死で恋をして。今の私は少し息切れ状態なのだ。次のことを考えるのはもう少し後にしたい。携帯を見ると翔さんから何回も電話が来ていた。今は名前を見るのも辛くて。私はそのまま電源を切ってしまった。

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