分かっていたこと

 それから翔さんは事あるごとに私にキスするようになった。例えばバイトのためにお店に行った時。例えばいつものように送ってもらってさよならをした後。一番ドキドキしたのは営業中に誰にも見られないようにカウンターの下に二人でしゃがんで唇を合わせた時だ。キスをした後、翔さんは必ず目を合わせて少し照れたように甘く微笑む。私もつられて笑うのだけれど、「翔さーん」とお客さんが呼ぶ声に二人して慌てて立ち上がり頭をカウンターでぶつけた。私たちは笑いを堪えて仕事に戻ったのだった。


「すずちゃん、玄関の前にこれ置いといて」


 翔さんが持っていたのは今日のオススメメニューを書いた小さな黒板だ。受け取ろうと手を伸ばすと、反対に手を引かれて唇が重なる。またふふっと笑って翔さんは「じゃあよろしくね」と言ってキッチンに行ってしまった。翔さんは不意打ちも好きらしい。はぁ、と少し照れながら幸せのため息を吐き出して玄関に向かおうとしたら。玄関の前で私を見て眉間に皺を寄せる滝沢と目が合った。


「何気持ち悪い顔してんだてめえ」

「……ひ、酷いなー」


 で、見た?怖くて聞けなかったこと。滝沢は簡単にその葛藤を無視した。


「キスする時は目閉じたほうがいいぞ」


 と。ハッとして滝沢を見た時には滝沢は既に着替えに行ったようで辺りにいなかった。み、見られてた……!

 けれどそれからも特に滝沢がそれについて何か言ってくることはなかった。まるで特別な光景ではないとでも言うように。


「ごめん、今日用事があって送っていけないんだ」


 ある日、翔さんがそう言った。とても申し訳なさそうに言うから、もちろん責めるつもりは全くなかったのだけれど逆に寂しさが募ってしまう。「全然大丈夫です」と言った声は少し震えていた。

 夜、バイト終わりに一人で歩くのは初めてだった。いつも翔さんにはとてもお世話になっているのだなぁとしみじみと思う。細い路地を抜けて大通りを歩いてアパートに続く暗い道に入った。大通り以外はやっぱり街灯は少ないし人通りも少なくて怖い。無意識に早歩きになっていたのだけれど、異変に気付いたのは少ししてからだった。後ろから足音が聞こえるのだ。気のせいだ。そう思うほどに心臓が張り裂けそうに痛む。慌てて鞄から携帯を取り出そうとした時。


「オイ」

「ぎゃあああ!」

「うわあ!な、なんだよおめえ!!」


 突然声を掛けられて大声を出したら後ろに立っていたのは滝沢だった。び、びっくりした!!


「びっくりしたのはこっちだふざけんな!」

「じゃ、じゃあもっと早く声かけてよ!」

「お前意外と歩くの速ぇんだよ!やっと追いついたんだっつの」


 確かに滝沢はハァハァと肩で息をしている。すごく走ったみたいだ。何か用があったのだろうか。そう思っていると、滝沢の後ろから女の人が姿を現した。今まで全く気配を感じなかったから一瞬幽霊かとヒヤリとした。けれど滝沢が彼女を振り返ったからちゃんと人間だと分かった。


「この人がお前に用事あんだって」

「え?」


 誰だろう。よく見ても知らない人だ。首を傾げていると、彼女がニコリと笑った。


「翔さんを返してください」


 あまりにハッキリ言うものだから逆に耳を疑った。翔さん?を、返して?キョトンとする私を見て彼女の顔は一気に険しくなって。逆上した彼女は私の頬を引っ叩いた。


「ちょ、おいおいおい待ってお姉さん」


 彼女の後ろに立っていた滝沢が興奮している彼女を取り押さえる。私はピリピリと痛む頬を押さえて呆然とするしかなかった。


「私見たんだから!貴方が翔さんにキスしてるの!貴方とキスするようになってから翔さんは私と会ってくれなくなった!翔さんを返して!」

「……」

「私いつも見てるから知ってる!翔さんは私にキスしてくれたの!絶対私のこと好きなんだから!」

「……翔さんは、誰のことも好きじゃないと思います」


 思わずそう言っていた。そして彼女を傷付けたことに気付いて慌てて取り繕おうとしたけれど、彼女はみるみるうちに目に涙を溜めていった。もう遅かった。


「知ってる……そんなの、知ってる」

「え……」

「翔さんは優しいけど、私を特別みたいに扱ってくれるけど、私は特別じゃない」

「……」

「あの人にとって大切なのは美花さんだけだから」

「み……」

「オイ、帰んぞ」


 不敵に笑う彼女を置いて、滝沢が私の腕を掴んで歩き出す。前にメグさんが言っていた言葉を思い出した。


『翔さんの特別な人はずっと……』


 遮った時、翔さんは無表情だった。翔さんの無表情を見たのはその時だけ。きっと、翔さんにとって絶対に触れられたくないところ。それが、美花さん。


「お前意外と冷静だったんだな。翔さんにキスされて舞い上がってると思ってた」

「うん、大丈夫。初めからわかってたもん」

「そうか」


 滝沢歩くの速いなぁ、私走ってるんだけど。翔さんは女の子の歩くペースに合わせてくれるよ。ほんと女心分かってないんだから。滝沢ほんとにモテるのかなぁ。翔さんなら。……翔さんなら。


「ねぇ、滝沢知ってるの?美花さんって」

「……あぁ、知ってる」

「へー、そうなんだ」


 平気。全然平気。だって、翔さんの特別になれないことなんて、最初から分かっていたから。

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