番外編【魔女の目覚め】

第13話【目覚め】


素晴らしいわ。


氷ついた川の水の中。


空は見えない。


倒れた朽ち木や黒ずんだ匕―スの枯葉。


少しずつ解けた 氷の天蓋の隙間から、光の梯子が降りるのが見える。


私は思わずそれに触れようと手を伸ばす。


両手で水を掻いて、外の空気の中に顔を出す。川は半分以上凍っていて流れない。


流れる水は苦手。力が溶け出して全部流れるてしまうから。気節は春になろうとしているようだ。谷間の森から見上げる陽射しが、私にそれを教えてくれる。


やがて大陽は雲に隠れて見えなくなる。灰色の厚い雲が空を覆い、風と雪を運んで来る。私は掌に冷気と雪とを集め、裸の体に衣装を纏う。


流れる水よ再び凍れ。黒い肌を見せ始めた大地よ、再び雪の衣を纏え。


私はいつも裸足で歩く。だから土の上は嫌いなのだ。汚れるから。


雪が辺り一面を真白く覆うのを待って、私は漸く歩き始める。雪や氷の上なら、私は誰より早く滑るように動くことが出来た。


私は夜になるまで凍った水の上を滑りながら踊った。


「急に冷え込むと思ったらあんたかい」


そう声がして、見上げたオ―クの木の枝に孔雀の羽を纏う女がいた。魔女だった。


「随分久しぶりじゃないか。氷と雪のマレキフィウム!」


その呼名は私に馴染まない。古い人間が勝手に私をそう呼んだ。私はただ生まれて、目覚めた。その時からこうして、ここにいるだけなのだ。


「めずらしいところで会うわね。バブシカ」


「私の真名を教えた覚えはないが」


翡翠の色の翼が夜気に広がり、羽の中央にある目玉の1つ1つが、私に剣呑な眼差しを向ける。


「そんな童女の髪飾りのような名が、お前の真名であろうはずがないではないか」


私が朗らかに微笑むと、木の枝の孔雀は髪飾りにかけた右手をゆっくり降ろした。


「向い風の魔女」


「今日は野暮用があって近くまで来た」


Tawusê Melek……Melekê Tawus。


この女の名前は確か、そんなアラビアの呪文みたいな妙な響の名前だったはず。


今ここで一文字でも口にすれば、この孔雀は爪を立て、私に襲いかかるだろう。私は争いは好まぬ。新雪が汚れる。


それにこの女…いや男でもある魔女の長にも、彼女の野暮用とやらにも、端から興味がなかった。


「先頃、バビロンに私の先祖が封印したマレキフィウムが目を覚ました」


「イグニ―トが」


それはこの世界と人に、火と災厄をもたらした。火炎と灼熱のマレキフィウム。私はこういう女だから会ったことはない。


「あんたの上等な氷の寝所が溶けたのも関係があるはずだ」


「あの女が目を覚ました?大変ね」


「蠍や毒虫を好んで食らうのが、昔から私の仕事だ」


「ヤドリギはまだ眠ったままだ。しかし、これはその予兆と考えて間違いない」


「それで向い風がここまで吹いた…ようやく理解出来たわ」


本来領域でない場所に魔女や魔法使いが姿を見せるはずがなかったからだ。


「もしも、あんたが」


「私は誰かと徒党を組むつもりはない。昔も今も、知っているはず」


さらさらと孔雀に粉雪が舞い落ちる。もう帰れと風が吹いた。


「それを確認したかった」


「これからは忙しく吹くな、向い風」


「そうなる前に私の弟子を差し向けた」


「抜かりのない」


「抜かりなく話が進めばいいが」


最後に魔女は私に言った。


「村へ行くつもりか?」


私は答える代わりに微笑んだ。


「気節外れの雪になるな」


「春でも雪は降るものですよ」


「あまり長くなると困る」


やれやれとでも言いたげに、百の眼が目蓋を閉じる。


「春の雪などすぐに消えて、誰も覚えていない」


「そうでないと、私の弟子がこちらに向うはめになる。それだけは言っておく」


私が孔雀の話にすっかり退屈して、欠伸を1つする頃には、彼女の姿は既にそこにはなかった。


私は雪に落ちた孔雀の羽を拾った。


「少々けちもついたが」


目覚めは悪くなかった。吹雪く森を越えた先には人の住む土地がある。


古い領土と懐かしい人々の顔。運河に沿って歩けば見えて来るはず。小高い丘の上にある小さな村。


港があるライへと向かう。


再び目覚めた私の足は宙に浮いた。雪の上や、凍りついた枝や、節くれた木の根を飛び越える。


踊る私の心は悦びに溢れていた。

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