月へ翔る

@shibachu

 

月へ翔る

PROMISE

 ベーブ・ルースの時代から、手術を控えた子供にホームランを打つ約束をするのはプロ野球選手の宿命らしい。

 長島直也ながしまなおや君は俺が思っていたよりもずっと小柄な子供だった。病室のベッドの隣には、何やらチューブやコードでごった返した大掛かりな装置が置かれ、それらの一部はベッドに横たわる少年の身体に繋がっている。

「こんにちは、直也君。オウルズの月岡つきおかです」

 声を掛けると、直也君はぎこちなく頷いた。持ってきたボールにその場でサインを書いて渡すと、小さくではあるけど笑ってくれた。球団広報の那須なすさんが連れてきたカメラマンがその様子をカメラに収める。

「直也君は、野球が好きなの?」

「……うん」

「野球やってたの?」

「……うん」

「そう。どこのポジション?」

「ショート」

「ショートか。いいとこ守ってるなあ。またやりたい?」

「……うん。僕ね、ピッチャーやりたい」

「そっか。……なら、元気にならなきゃ」

 困ったような顔で固まった直也君は、俺のその言葉に返事をしなかった。那須さんがかがみ込んで、ベッドに寝たままの少年と目の高さを合わせ、質問する。

「直也君は、月岡選手のどういうところが好きなのかな?」

「えっと、えっとね。……二番なのに、ホームラン打つところ」

 俺は苦笑した。二番なのに、か。

 確かに俺は、スター選手というわけじゃない。なぜ俺なんかのファンでいてくれるのかは気になっていたところだ。九月の半ば、シーズンも残り十試合で、俺の本塁打数は二十一本。この数字はチーム内では三位で、リーグ本塁打ランキングのトップとは倍の差があるが、二番打者としてなら十二球団で一番多い数字だ。

「そっか、ホームランを打つ月岡選手が好きなんだね? じゃあ、月岡選手がホームランを打ったら、直也君も勇気を出して手術を受けてくれるかな?」

 那須さんがものすごい無茶ぶりを口にした。

(待って、それハードル高くないっすか)

 危うく口に出すところを、俺は寸でのところで自重した。

 直也君は困った顔のまま那須さんから目を背けたが、こくりと小さく頷いた。それから期待に満ちた瞳を俺の方に向けてくる。

「今日の試合で、ホームランを打ってください」

 今日ときたか。シーズンの残り試合じゃ駄目かな。

 ホームランは野球の花形と言われるが、もちろん簡単に打てる代物じゃない。約束したからと言って果たせる保証はどこにもないのだ。

 しかし──

 気がつくと病室の視線がすべて俺に集まっていた。ここで「出来ません」などと言ったら、直也君の落胆ぶりは如何ばかりか。俺の返事に少年の命がかかっている。

「わかったよ。絶対にホームランを打つから、直也君もがんばって」

 俺は一言一言に力を込めてそう言った。ほとんど自分に言い聞かせているようなものだった。手を握ると直也君は嬉しそうに笑い、彼の母親は感極まって泣き出した。両手で顔を覆い、嗚咽を漏らしている。

「ありが……あり、あじがどうごりゃいまう……ああっ……ああっ!」

 嗚咽まじりの感謝の言葉に送られながら、少しばつの悪い思いがあったものの、

「そろそろ球場へ行く時間なので」

と病室を後にした。

 病院から出ると、院内での取材許可が下りず外に待機していた報道陣が、まるで餌に群がる鼠のように押し寄せ俺たちを取り囲んだ。これほどの数の報道陣に囲まれたのは初めてだ。初めてサヨナラホームランを打った日だって、今日の半分以下だったと記憶している。

 那須さんにあとの対応を任せタクシーに乗り込んだ俺は、後部座席に身を投げ出すと深い溜息をついた。ダブルヘッダーをフルイニング出場したって、こんな疲れ方はしない。


 今日の対戦相手、中京ドルフィンズと我が神宮オウルズは、三位のクライマックスシリーズ進出圏争いの真っ最中だった。お互いに絶対負けられない相手である。

 午後二時に球場入りした俺は、軽くウォーミングアップを済ませたあと室内練習場に移動し、打撃投手の岩屋いわやさんに相手をお願いした。岩屋さんはバッターが気持ちよく打てるボールを投げてくれる。いつもならそれでいいイメージを持ったまま試合に臨むことが出来るのだが、ヒットならともかく今日の相手からホームランを打つにはそれでは足りなかった。ドルフィンズ先発バースは打者の手元で動くボールが持ち味だ。それをホームランにするには完璧にアジャストしなければならない。

「イワさん、カッターとツーシーム、ミックスでお願いします」

「手元で動く系? あんまりコントロール良くないで」

「いいですよ。最初はけんで。スピン多めでよろしく」

 ちょうどバースと同じ右のサイドスローの岩屋さんはゆったりとしたフォームで、注文通りスピンの利いたツーシームを三球続けて投げ込んでくれた。

 左打者である俺にとって、右のサイドスローが投げるツーシームはなかなか厄介なボールだ。外角にこれが決まると、ストライクゾーンの外から中に入ってくる軌道を描き、ホームベースに近いところから今度はゾーンの外に逃げていく。ストライクとボールの判別が非常に難しい球種なのだ。

 見送ったボールはホームベースの手前で沈み、キャッチャー代わりのラバーマットにドスンと音を立てて突き刺さった。

「ナイスボールです。イワさん、うちの救援陣よりいいボール来てますよ」

「ほんまか。お前がそない言うとったって告げ口しとくわ」

「すいません、今のは嘘です」

「どないやねん。次、行くぞ」

「はい。次からは手を出します」

 外角寄りのツーシームがベルトの高さに来た。打ち頃のコースだ。俺はまずレフト線を破るつもりでバットを振るった。トップスピンのかかった打球が快音を響かせて防球ネットに吸い込まれる。サード頭上を越えて長打が狙える当たりだ。

「おお、ナイスバッティング」

 岩屋さんは誉めてくれたが、今の捉え方はホームランにはならない。バックスピンをかけて、打球にもっと角度を付けなければ。そのためには、あと5ミリ下を捉える必要がある。

「もう一丁、お願いします」

「ん。次、カッター行くで」

 一球、様子を見た。スピンの利いたボールがど真ん中に来たと思ったら、少し沈みながら内角ぎりぎりを突く。思わず「うお!」と驚きの声が出た。今のを試合で投げられたら、空振りかどん詰まり、良くてファールだったろう。

「厳しめっすね」

「偶々ええとこ行ったんや」

「イワさん、現役の頃よりいいんじゃないですか?」

「せやろ? 年俸一億で現役復帰したってもええで」

「僕じゃなくて上の人に言ってください」

「おもろないリアクションやな。次、行くで」

 さっき打ったのと同じ外角へのツーシームを今度は高く打ち上げてしまった。本番ならショートフライだ。

「ああ〜〜〜〜くそっ!」

 自分の不甲斐なさが腹立たしい。岩屋さんは寸分違わぬコースに同じボールを投げてくれたというのに。

「へいへい、さっきのはまぐれか?」

 一旦バッターボックスから離れて自分のスイングを分析した。ポイントが少し近くなっているような気がする。前のポイントで捉えた方が飛距離が出るはずだ。コンマ数秒判断にかける時間が短くなるが、試してみる価値はある。

「もう一丁、お願いします!」

 岩屋さんはとことん修正に付き合ってくれるつもりらしく、言わずとも同じボールを投げてくれた。俺はそれを右方向への強烈なゴロで返した。バットの真芯で捉えてはいるが、ボールの上っ面を叩いてしまっている。

 スイング自体はしっくり来た。あとはミリ単位でボールを捉えるポイントに修正をかけていけば、ホームラン性の打球が飛ぶはずだ。しかし、なかなかフライ性の打球が上がらずゴロばかり続く。

 フライを上げようと躍起になっているうちに、スイングが乱れた。と、次の瞬間に激痛が走った。打ち損ねた打球が右足に当たったのだ。俺は痛みに堪え兼ねてその場にうずくまった。

「おい、大丈夫か?」

 岩屋さんがマウンドから駆け寄ってきた。近くにいた誰かのトレーナーを呼ぶ声が聞こえる。

 右足は地面に触れているはずだが、その感覚が感じられない。まるで足が無くなってしまったかのような錯覚に陥る。そのくせ痛みだけが登ってきては、頭の中を駆け回るのだった。俺は両手で右足に触れたが、手は感触を伝えてくるのに足の方は触れられている感触がなかった。

 やって来たトレーナーの指宿いぶすきさんの肩を借りて、俺は医務室に連れられた。


「病院で診てもらわないとはっきりとしませんが、おそらく甲の骨にひびが入ってますね」

 指宿さんの言葉を聞いて、俺は目の前が真っ暗になる思いだった。

「仕方がない。監督には伝えておくから、病院へ行け」

「いや、ちょっと待ってください」

 打撃コーチの西川にしかわさんが救急車を呼ぼうとするのを、必死で制した。病院で直也君と交わした約束を打ち明け、試合に出してもらえるように訴える。

「そうは言っても、その足じゃな。バッティングはどうにか出来たとしても、走れるか? 守備は? プレーオフがかかっているんだから、半端なプレーは出来ないぞ」

「いや、でも……」

 俺は言い淀んだ。西川さんの言ってることは正しい。でも、胸にチューブが刺さった直也君の小さな姿が脳裡に浮かび、もう一度、いや何度だって頭を下げる。

「お願いします。ホームランを打つ自信は正直言ってありません。でも、俺は今日、小学生の男の子に命を賭けて手術台に上がるよう勇気を出せと言いました。その自分が、挑戦もせず約束を破ることは出来ません」

 西川さんは暫く黙っていたが、

「まあ、オーダーを決めるのは俺じゃない。監督に話してみよう」

と最後には折れてくれた。

「ありがとうございます」

 俺はもう一度西川さんに頭を下げ、一緒に監督室に向かった。

 自分で歩くことが出来るくらいには痛みに慣れてきた。


「スタメンは無理やな。代打で行けるか?」

 西川さんが事情を説明すると、有馬ありま監督は銀縁の眼鏡のレンズを拭きながら、割とあっさりとそう訊いてきた。

「はい、行けます」

 俺は直立不動で答える。ありがたい。一打席限定とはいえ、チャンスがあるのだ。

「お前、代打の経験あったっけ?」

 眼鏡をかけ直した監督が訊ねる。思い出すのに少し時間がかかった。

「トータルで三十打席くらいでしょうか。オープン戦を入れてですが」

「最後に立ったんは?」

「今年のオープン戦で二度ほど。シーズン中なら二年くらい前になります」

「ふうん。少ないな」

 監督は頭をがりがりと掻いた。

「お前、今日はわしの隣座れ」


 午後四時。

 中京ドルフィンズの選手達がグラウンドに姿を現し、練習を始めた。俺はその様子を一塁側ベンチから眺めている。何人かの選手がこちらのベンチの方へやって来た。

「こんにちは。今日はよろしくお願いします」

 ドルフィンズの主軸を打つ万座まんざが西川さんに頭を下げると、

「おお、ホームラン王。調子いいじゃないか。今日は打つなよ」

と西川さん。二人は同じ大学の出身だ。

「三本打ちます」

 笑いながらそう返した万座は、俺の顔を見て不思議そうな顔をした。

「あれ、月岡さん、準備しなくて大丈夫なんですか? 病気の子供の為にホームラン打つ約束したんでしょ?」

「うわ。それ、そっちのチームにも広まってるのか」

 俺がしかめっ面をすると、

「なに言ってるんですか。ニュースに出てましたよ」

そう言って万座は尻ポケットからスマホを取り出し、ニュースサイトを開いた。

『オウルズ月岡、予告ホームラン 難病の子供のため打つ』

『月岡、手術控えた少年と男の約束』

 スポーツニュースの項目にはそんな見出しの記事が踊っている。

「げ。マジか」

「俺が言うのも変ですけど、がんばってくださいよ。試合はうちがもらいますけど、月岡さんは打ってくれていいんで」

 そう言うと万座は、三塁側ベンチに戻っていった。

 やがて試合の開始時刻が迫り、両軍のスターティングラインナップが発表される。


先攻 三塁側  中京ドルフィンズ

 一番 センター   小浜おばま

 二番 ショート   塩江しおのえ

 三番 ライト    黒川くろかわ

 四番 ファースト  万座

 五番 サード    輪島わじま

 六番 セカンド   洲本すもと

 七番 レフト    長門ながと

 八番 キャッチャー 和倉わくら

 九番 ピッチャー  バース


後攻 一塁側  神宮オウルズ

 一番 ショート   宇佐美うさみ

 二番 セカンド   嬉野うれしの

 三番 ファースト  城崎きのさき

 四番 レフト    バーデン

 五番 キャッチャー 堂ヶ島どうがしま

 六番 センター   高山たかやま

 七番 サード    野沢のざわ

 八番 ライト    十和田とわだ

 九番 ピッチャー  水上みなかみ


 スタメンに俺の名前はない。俺がいつも座る打順にはベテランの嬉野さんが入り、ライトの守備には大卒ルーキーの十和田が着く。

 観客席がざわめきだした。

「月岡はどうしたんだ?」

「月岡を出せ!」

「逃げるな、約束を守れ!」

 そんな野次がベンチに降り掛かる。

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