◆月的抒情歌

挿絵

第1話

灰色の町に雨が降っている。湿度七十五パーセント、気温華氏六十六度。雨粒が町を叩いて跳ねる音が途切れなく続いている。私はこの雨に濡れている。膝を抱えて、路地裏の建物の壁に背中をつけてうずくまっていた。動けなかった。私が外に出てから、もう二十二時間二十一分三十七秒が過ぎた。雨が降り始めてからは、五時間四十三分十五秒。刻々とその時間は進んでいる。全身が濡れていた。水気を含んだ衣類が、絶え間なく身体の熱を奪う。動けなくなってからは二時間七分四十秒。私の身体は正確に時を計り続ける。

 私が外へ出て一時間五十七分七秒後からずっと、私は信号シグナルを受信している。だが、私は信号が発する指示に従っていない。もう十七時間四十分三十四秒もの間。

 それこそがまさに、私が欠陥品である証拠だった。

 欠陥品である自分には価値がない。私はずっと、そう考えてきた。価値がないのなら、私の部品を使い、もっと新しく高性能な、価値あるものに作り替えなくては。そのために、私は私を早く壊さなくてはならない。

 だけど私は動けなかった。この雨のせいだ。予想外に強い雨が長く降り続き、私の身体から熱を奪う。動力にはわずかな余裕もなかった。このままここで機能が停止するのもいい。それでもいい。私が壊れるのなら。

 表通りを行き交う人の気配はごくわずかだ。今日は木曜、時刻は午後四時三十一分。

 どれほどそうしていただろう。いや、正確にはさらに二十三分六秒だ。時間の進みは私には意味を持たないが、雨音の中に足音が聞こえた。複数の足音。その音から歩幅と身長、体重を推測すると、男性がふたり。足裏が路面から離れる時に、同時に水滴の跳ね上がる音がする。もっとよく耳を澄ませば、より正確な体型や年齢を推測することができる。ただ、私は今、その機能を使いたくなかった。残りのエネルギーをなるべく温存しておきたかった。

 足音とともに、途切れ途切れの会話が聞こえる。複数の足音は連れだって歩いているようだ。一定の足音のまま、まもなく私のいる路地を通りすぎる。私は動けない。助けを呼ぼうとも思わなかった。私は決して、助けが必要な状態ではなかった。

「ねえ、あれ」

 足音が止まった。一秒前よりその声は明瞭に私の耳に届いた。

「誰か倒れてない?」

 同じ声が続けた。声の調子がわずかに深刻さを帯びている。驚きと恐怖が入り交じっている。私がそう分析している間に、躊躇いがちな足音が私に十七歩近づいた。

「酔っ払いだろ、ほっとけ」

 別の声がそう言うと、私に近づいていた足音がその場で止まった。

「こんな時間に? この雨の中?」

 時刻は午後四時五十五分三十八秒。空を雨雲が覆っているせいで、太陽の動きが正確に掴めない。もうひとりの足音も私の方へ近づいてきて、私の前にふたりの人間が立った。

「大丈夫ですか? 具合が悪いんですか?」

 頭上から、そう声が聞こえた。反応した方が良いと判断したが、私の身体は動かない。

「救急車かな」

 それはだめだ。結論はすぐに出た。それは必要ない。救急車にも、病院にも、まったく意味がない。

「おい、あんた、意識あるか、聞こえてるか」

 別の男の声がそう言った。声が近い。彼は私の前にひざまずき、つかのま私のことを窺ってから、私の肩に触れた。私の身体は冷え切っていた。それが伝わったのだろう。男の腕が強張ったのがわかった。

 返事をしなくては。誰かに関わられるのは本意ではなかった。迷惑がかかる。頭を動かす。私はもう一度そう考えた。雨に打たれ始めてから六時間十一分十二秒。どうしても彼らに返事をしなくては。そう強く指示を出すと、かすかに首を動かすことができた。

「おい、立てるか。救急車を呼ぶ。あんたを病院に運ぶ。聞こえてるか」

 それはだめだ。救急車も病院もだめだ。あなたたちに迷惑がかかる。私には必要ない。迷惑がかかる。だからだめだ。それを伝えたい。どうしても伝えたい。迷惑をかけたくない。

 音声が上手く機能しない。その間にもふたりはなにか話しあっている。発声機能に集中しているせいで、会話の内容は不明瞭だ。

 だめだ、迷惑がかかる。必要ない。

 私の口元が動いた。音声がいくつか口から出る。

 目の前の男の心拍数が増加した。彼の筋肉の強張りや表面温度の上昇で、彼が驚いたのがわかった。音声を発したことが、彼を驚かせたのだ。私はそう推測した。

 そして私の動力は切れた。

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