エピローグ【推敲前】

「あんたはまた、くだらない話ばかり書いて!」


 仁王立ちした母の叱責に、椅子に座ったまま首をすくめた。

 罵詈雑言にも近い説教の嵐が頭の上を通り過ぎていく。母の後ろでは、消音されたテレビが瞬くようにニュースを映していく。

 不意に、見慣れた電車が映った。キハ137。名前は知らないが、薄黄色と白色で塗り分けられた車体は、子供の頃から馴染みがあるものだ。

 路線廃止のために明日が最終運行。画面に浮かんだ文字が淡々と解説する。

 母がテーブルを叩いた。蓋の開けられた缶ビールがわずかに動く。小説投稿サイトを映したパソコンが怯えたように震える。殴り書きの紙束の山が崩れて床に散る。


「隆二! ちゃんと話を聞きなさい!」

「……聞いてるよ」


 うんざりしながら返せば、母親の眉が釣り上がった。


「あのね! 私はあんたのためを思って言ってるのよ!? 一彦は立派に医者として働いているのに、弟のあんたときたら、二十歳も過ぎたのに、しょうもない会社で適当に働いて……こんな妄想に浸ってるから、大した仕事も任せてもらえないのよ!」

「…………」

「ちょっと、何か言いなさい! あんたには自分の主張ってもんがないの!?」


 笑いそうになった。主張したって、どうせあんたたちは鼻で笑って、まともに取り合わないくせに。


「とにかく、とっととそのくだらない趣味をやめなさい。真面目に仕事に打ち込むこと!」


 一方的に言い残して、母は乱暴に扉を閉める。過ぎ去った嵐に息を吐いた。のろのろとパソコンに向かい、マウスに手を置く。

 モニターには、閲覧数一桁の小説が立ち並ぶ。ブラウザの更新ボタンを押す。応援やコメントを告げる、ベルマークに赤印がつくことはない。

 何度も同じボタンを押した。ブラウザの更新、更新、更新。一定の間隔で、無表情に、だが目だけは縋るように。

 かちり、かちり、とマウスが悲鳴のような鳴き声を上げる。

 それでもPV数は増えず、鐘印は動かず。


 くだらない趣味。


 響いた叱責が指を留めさせる。口と鼻に、急に透明なビニール袋をかけられたようだった。息ができなくなる。誤魔化すように、テーブルの上の缶ビールを煽る。生ぬるく鉄臭いアルコールにますます気分が悪くなる。


 最後に一度だけ、祈るように更新ボタンを押す。


 通知は来ない。


 手の中でぐしゃりとアルミ缶を握りつぶし、乱暴に投げ捨てて、立ち上がった。


*****


 真夜中の町は、どこまでも静かだった。

 その中を、ひたすら歩く。酔った足元をふらつかせながら、無言で足早に歩く。


 自分が無価値な人間だってことくらい、痛いほどに分かっている。

 そう胸中で吐き捨てて、俺は足を止めた。


 踏切の音が、耳に痛いくらい鳴り響いていた。

 薄汚れた黄色のライトが、暗闇にポツリと対になって浮かぶ。まるで獲物を狙う鷹の目のようなそれを、微動だにせずじっと見つめる。

 ますますけたたましく喚き立てる踏切。

 轟音と共に近づいてくる機械の車体。

 それを見つめて。ただただ見つめて。息を止めて。目を閉じて。


「こんなところにいても、死ねないわよ」


 澄んだ、少女の声がした。

 目を開けると同時に、自分の足元……歩道橋の下をくぐって、薄黄色と白で塗装された電車がすぐ近くの終着駅へと吸い込まれていく。

 俺は、一つ息を吐き出した。

 眼前の少女をじろりと睨む。


「誰だ、あんた」


 歩道橋で相対するように立った彼女は、いつからいたというのか。

 奇妙な少女だった。真冬の深夜だというのに、真っ白なワンピース一枚を羽織るばかりなのだから。地につく素足も白く、暗闇の中にぽっかりと浮かぶ。耳元に挿しているのは薄黄色の花弁を持つ花。


 彼女は腰まで届く黒髪を揺らして、綺麗に微笑む。帽子のつばを摘むような仕草と共に、ぴんっと腕を伸ばして口を動かした。


「出発進行」

「……なんだそりゃ」

「知らないの? 電車が出発する時に、車掌さんがよくやってるじゃない」

「俺は別に、お前のモノマネを見たいわけじゃないんだが」

「可愛い女の子のモノマネに興奮しないとか、おじさん、男の人として終わってるわ」


 何が悲しくて、見も知らん人間に酷評されなければならないのか。そう思う間にも、少女はくるりと体を回転させ、歩道橋の欄干から広がる線路を見下ろした。

 きっと彼女は鉄オタかなにかなのだろう。路線廃止の噂を聞きつけて、電車の最後の勇姿とやらを見に来たに違いない。


 頭を乱暴にかき、胸元から煙草を取り出す。湿気った煙草に苦労して火をつけた。

弱く吹きつけた北風が、男の吐き出す煙と、少女の耳元の花を揺らしていく。


「……私はね、鳥小屋の景色を見に来たの」


 少女が徐ろに口を開いた。鳥小屋? 胡乱げに問い返せば、彼女は一つ頷いて、終着駅の先を指差す。


「あそこよ」

「……ただの車庫じゃねぇか」

「もう、ムードがないわね。電車って、鳥なのよ。あの場所は、そんな鳥が毎日戻ってきて、羽を休めるための場所なの。だから鳥小屋」


 ムードがないのはどちらだろうか。オタクらしい想像力のたくましさに呆れた視線を向ける。

 少女はムッとしたように睨んできた。


「おじさんは、こんな時間に何してるの」

「……色々あんだよ」

「色々って?」


 少し、迷った。それでもきっと口をついて出てきたのは、酔っていたせいに違いなかった。

 欄干に背を預け、汚れた白煙を吐き出す。


「……ネットで小説を書いてんだよ。趣味だけどな」

「そうなの」

「親には馬鹿にされてんだ。そんなもん書くから仕事もまともにできねぇんだ、って。小説も……これで人気がありゃ良かったんだが、さっぱりだ」

「ふうん」

「痛感したよ。最近のネット小説には流行りがあるんだ。それを狙って書かにゃあ、上なんて狙えない。作者の主張も気持ちも、作品には不要なんだ。そんなものを書いた作品は、さっぱり見向きもされない」

「でもそれって、楽しいの?」

「楽しい? んなわけねぇだろ!」


 純粋無垢な質問は神経を逆なでするものでしかない。

 腹立ち紛れに煙草を投げ捨て、ぎっと少女を睨みつけた。


「楽しいだなんて答えんのはな! 人気があるやつだけだ! そりゃそうだろうさ! 自分の書きたい物語を書きたいように書けば評価されるんだから! 俺たちは書きたいように書いても評価されないんだ!」

「でも、人気のある人も、ちゃんと努力してるでしょ」

「俺達だって努力してる! なのに報われない! こんなことってあるか!? 結局は、才能があるやつだけが笑うようにできてんだよ! この世界は!! 俺たちはみたいな凡人は無価値なんだ!」


 肩で息をする。少女は驚きもせず、怖がりもせず、じっとこちらを見つめていた。

 宵闇を切り取ったような黒の瞳。その目がゆっくりと一度だけ、瞬かれた。


「おじさん、知ってる? さっき通ったキハ137。明日で最後の運行なの」

「……それがどうした」


 少女が無言で指をさした。

 レールの行き着く先の終着駅だ。薄黄色と白で包まれた車体の前に、小さな人だかりが出来ているのが見えた。


「なにやってるんだ、あいつら」

「お別れを言いに来てるのよ」

「お別れ?」

「そう。といっても、大して人数はいないけどね。ここは有名な観光地でもないし、珍しい車体でもないしね」


 でも。

 そう言って、彼女は次々と指を差した。


「あのお姉さん、中学生の頃に失恋した時、電車で大泣きしてたわ」


「あのお兄さんは、就職が決まった時にすごく嬉しそうだった」


「あそこにいるのはね、奥さんに離婚届を渡すために、難しい顔して電車に乗ってたおじさんよ」


「あのおばあさんは、余命一ヶ月のおじいさんと楽しそうに話してて……そうね、お葬式の帰りにぼんやり車窓から外を眺めていたわ」


 少女が指差す先は、実際のところ暗がりでよく分からなかった。

 それでも彼女は、まるで人だかりの一人ひとりを間近で見つめているかのように、ほうと息を吐き出す。


「その人達の人生の一部になれた。全部ね、続けてきたからよ。だから、あの人たちに出会うことが出来た。人気車両でもなんでもなかったけれど、彼らの人生により添えたことは、私にしか出来ない価値だったのだと思うわ」

「ちょっと待った。お前は……」

「おじさん」


 強められた語気に、思わず口をつぐんだ。自分よりも随分年下のはずの彼女が、不意にぐっと大人びて見えた。

 少女は微笑む。


「人気がなくたって、いいのよ。境遇も、才能も、平等には与えられないわ。すぐにもてはやされる人もいれば、そうでない人もいる。でも、もてはやされない人が無価値なわけじゃない。あなたの物語は、あなたにしか書けないのよ。あなたの紡いだ物語は、あなたにしかつくれない価値なのだわ。誰になんと言われようと。信じて続ければ、必ず報われる。疲れたら休めばいいの。私達だって、鳥小屋で休むんだから」

「……でも、もう終わるんだろ。お前は」


 少女の正体に確信を覚えながら問いかければ、彼女は微笑んだ。

 目を煌めかせる。積み重ねてきた年月を感じさせるような、深みのある黒の瞳を。


「馬鹿ね。終わるということは、始まるということよ」


 見て。そう言って、彼女は再び眼下を指差す。促されるままに視線を向ければ、電車が幾本も終着駅に戻ってくるのが見えた。


 あぁなるほど。鳥のようだなと思った。羽を休めに彼らは戻ってくるのだ。電車が戻ってくるこの場所は最果てだけれど、終わりの場所ではない。羽を休めるための場所。


 雪が、降り始めていた。彼女の小さな笑い声。それと共に、ばさり、と羽根を広げる音が響いた気がした。傍らから、真っ白な小鳥が飛び立っていく。舞い散る粉雪に、真っ白な羽毛をちらして。


 それを、ただ自分は見つめている。ただ、ただ……。


*****



 ばさりと、何かが崩れる音に目を覚ました。


 部屋の電気はいつの間にか消されていて、パソコンのモニターも真っ暗になっていた。

 重い目元を揉みながら、凝り固まった体を起こす。

 カーテンの隙間から朝日が差し込んでいた。

 ひしゃげたビール缶が床の上で光を弾く。

 その下で散らばっていた紙束……その一枚に、ふと目が止まって取り上げた。

 懐かしさがこみ上げてくる。それは、自分が一番最初に書いた物語だ。


 人気取りも何も考えていなかった。ただ自分が書きたいと、この気持ちを誰かと分かち合いたいと、ただそれだけの純粋な気持ちで綴った、物語。


 あなたの紡いだ物語は、あなたにしかつくれない価値なのだわ。


 涼やかな声が響いた。

 その時だ。


 消音状態のテレビの映像が切り替わる。

 薄黄色と白で塗装された、見慣れた電車の車体が映っていた。画面に映った文字が告げる。


 今日が、この電車の最終運行日なのだ、と。

 そして、この車体は途上国に運ばれ、再び電車として再利用される、と。


 画面の向こうで、運転室から車掌が出てきた。

 運転室の近くには、ささやかな人だかりができていた。若い女性、青年、禿頭の中年男、杖をついた老齢の女性。

 彼らに向かって、車掌は真面目な顔のまま……それでも、どこか嬉しげに口を動かす。


 出発進行。


 テレビの向こうの車掌と共に呟いて、記憶の中の彼女と共に少しだけ笑って。

 そして俺は、物語を紡ぐためにパソコンを起動させた。

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