第3話 はい、チーズ 1



 感情は脳の化学的な反応によって生じたものだ、と言われても赤沼稜太あかぬまりょうたは納得できなかった。

 強い怒りを抱えて、赤沼はここまで歩いてきた。

 目的を達成すれば、この感情はあっさりと消えてしまうのか。

 そうは思えなかった。

 だからこそ、この感情が異種知性体によって作られたものであると聞かされても、実感はなかった。

 当たり前だ。

 怒りだ。この怒り、この感情こそが真実だ。怒りに突き動かされ、赤沼はここまできた。

 赤沼には妻と娘がいる。いた。過去形だ。

 ただ妻と娘は以前と変わらずいまもそばにいて、笑い、一緒に暮らしている。

 しかし、それは嘘だ。妄想だ。異種知性体の代替現実技術によって、脳が赤沼に見せている幻影だ。

 なぜなら彼女たちは写真に写らない――。

 であれば、本当の妻と娘はどうなったのか。

 死んだ。死んでいる。

 家族で遊園地に行った。そのとき、異種知性体の大規模な攻撃を受け、死んでしまった。

 だが、そのとき赤沼だけが運良く生き延びた。

 だから、いまここに立っている。

 赤沼の目前には大きな壁がある。

 その壁は一辺の長さが三百メートルもある巨大な立方体だ。

 窓はなく鈍色に太陽の光を反射している。

 材質はコンクリートで地球産のものであるはずなのに、異様な大きさと外観の情報の少なさから、人類の理解の外にある建造物だとわかってしまう。

 この巨大な箱は、異種知性体の外交機関だった。

 これから赤沼は攻撃をしかける。外交機関への報復攻撃だ。単純な方法だ。反異種知性体組織「ブルーアース」によって提供された高性能爆弾を持って建物のなかに入る。

 そして、爆発させる。

 ただ、それだけだ。

 何が高性能なのかは聞いたが忘れてしまった。

 赤沼に必要だったのはこの爆弾によって外交機関が破壊できるかどうかだった。

 あと少し、もう少しだ。

 赤沼は怒りと高揚を気取られないように慎重に歩き続ける。

 最寄りのバス停からゆっくりと、外交機関の入口に向かって。視線が泳げばそれだけ怪しまれる。平静であることを心がける。ここまで来たのだ。

 朝の早い時間だった。歩道には赤沼以外は歩いていない。

 まるで異種知性体の外交機関へ陳情に来たように、赤沼は歩く。

 疲れが抜けない生活に倦んだ男が厄介な訴えを持ち込もうとしている。そういう実態に即した演技を続ける。

 そのときだった。

 外交機関の入口が開き、遊園地のマスコットキャラクターが出てきた。

 異種知性体のエージェントだ。

 うさぎ耳を生やし、ピエロ然とした顔が歩道の誰かを探すように動き、赤沼と目があうと、破顔する。

 デフォルメされた大きな手足を軽快にふりまわし、転がるように駆け寄ってくる。

「ちょうどよかった、赤沼さん。あなたにお伝えしなければいけないことがありまして!」

 そう言うエージェントの、かわいくない笑顔に、赤沼は自分には計り知れないことが起きていることに、気がついた。

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