第3章『人魚』

019『人魚:まほろば』


 八百比丘尼は、現在の福井県・若狭の国の伝承で人魚の肉を食べ不死となってしまった少女である。その後、少女は幾年もの時を経て出家し全国を行脚したが、最後に自分の生まれた村へ帰るとすでにそこには何も無くなっており、世を儚んで自殺したという悲しいお話である。奈良時代からその話の断片が見られ、平安時代の風土記(当時の公式文書)には実際にその姿を見たと書かれた物もある人物である。


 この目の前に座るこの少女が本物だと言う確証はないが、このシーンで嘘をつく必要性も無いのである。


 私は縁側で靴を脱ぎ、合羽代わりのマントを外した。軍手も外しランプもここに置いておく。身体も多少体も濡れているがしょうが無い……。

 暗い板の間に入り込み、奥へと進む。蝋燭の明かりに照らされた六畳ほどの畳の間。

 マヒト様は神棚の前に座り、その前に座布団が敷かれすでに席が用意してある。

 私は迷わずその席に座る。目の前には三方に乗った白磁の酒瓶と朱塗りの杯がある。


「すでに夕餉ゆうげは済ませた故、このような物しかないのじゃ」屈託のない笑顔でマヒトはそう言った。

「いえ、お気になさらず」

「遠慮せず、好きにやってくれてよいぞ」

「ええ、そうさせてもらいます」


 私は酒を杯へと注いだ。

「……」――これは甘酒だ……。

 甘酒は江戸時代までは夏の飲み物で滋養強壮にとても良く、現代でも飲む点滴などと言われるほどだ。疲れた体の今の私には最適の飲み物と言えるだろう。さらに言えばこの甘酒は甘麹から作られた本物の甘酒で、多少の酸味はあるが甘さはくどくなく香りも華やかな一級品である……。まあ、本当のことを言えば、お酒の方が良かったが……。私は杯を煽った。


「さて、浅見殿。そなたはわらわに何か聞きたいことがあるのじゃろ」

 自らも朱杯に注いだ甘酒を袖で隠しながら口へと含み、杯を置いて指先で唇をなぞる……。


「ええ、色々と……マヒト様……」

「呼び捨てで良い。このような成りじゃ、妾は気にせん。妾に答えれる事ならば何を聞いてくれても良いぞ」

「では、マヒトさん、ここは一体どこですか」

「ふむ、そなたはこの村を見て回ったのであろう、どう思っているのじゃ」


 私は今までの事を思い出しゆっくりと考えてから答えを探す。

「……常世……」常世の国は、古代日本で信仰された、海の彼方にあるとされる異世界で一種の理想郷のことを指す言葉だ。

「ふむ、凡そあっておるかの……ここは妾が作ったなのじゃ」

 まほろばとは、豊かな国や幸せの国と言う意味だ……楽園、いや天国か。


 だが……。「あんた、今ここをと言ったな!」

「うむ、妾がこの神社を再建し、村の皆を集めて長い年月を掛けて作り直したのじゃ」

「ここで何がしたいんだ、何が目的だ!」

「何をしたいと言う事はない。妾のやりたいのは、ただの……〝償い〟 じゃ……」

「償い……」

 ――これまで村を見て回り、考えていたのとは、多少、違う答えが来た……。どう言う事だ……。

 私はこの下で行われている宴を含めて、これは何かの儀式と考えていた。だが、どうやらその考え自体が間違いだったようだ。


「左様、この村を巻き込み、このような事態になってしまったのも全て妾の所為なのじゃから……」彼女は少し遠くを見つめ、悲しげな表情でそう言った。


 とつとつと彼女は静かに語りはじめる……。


 およそ十年と少し前のこと……。


 兵士たちが突然この村を訪れた。彼らは満州で消費の拡大してる日本酒を製造する酒蔵の候補地を探していた。

 彼らの所属は関東軍。大日本帝国陸軍の軍隊でありながら満州(関東州)に拠点を置く軍隊である。

 ここが当時の兵站拠点であった広島より、佐世保や境港に近いという理由であった様だ。

 ここで安く酒を造り、軍上層部に知られず彼等の資金源の一つにするのが目的の様だ。

 だが、その中にとある部隊の存在があったのが問題であった……。


『関東軍軍馬防疫廠』

 軍用動物の衛生管理・研究などを目的とした部隊であり、酒造で使われる麹菌の為のアドバイザーとして同行していたそうである。彼らはすぐにこの村の得意な性質に目を付けた……。


 〝アマヌシャ〟


 彼らは黒穴の内部でその姿を目撃し、その研究を始めたのだった……。――どうやらセイラの見た酒蔵の一番北の蔵にあったのがそれの様だ……。

 関東軍軍馬防疫廠、通称:満州第百部隊……後に人体実験を行い戦場で細菌兵器を使用したとされる関東軍防疫給水部本部、通称:満州第七三一部隊の前身である。


 ――ちっ、その名前が出て来たか……。私はその時、歯噛みした。


 だが、彼らの研究は次第に頓挫していった。そのアマヌシャを鎮める事も従える事も出来るのは結局このマヒトただ一人だったのだ……。次第にその事に危機感を抱いた彼らは最終的に研究の中止を決定した。そして、この村の放棄を決めたのだった。


 その後の彼等の対応は素早かった。

 先ずは南の遊歩道を解体し、東のバス道を占拠した。そして、昭和十年七月八日。最後の出口、西の修験道を封鎖しようと試みた……。

 そこでマヒトは黒穴に残っていたアマヌシャを召喚して彼らを襲わせ、ダムにまで撤退させる事に成功したのだった……。


 しかし、それはこの悲劇の始まりでしかなかった。

 七月十一日深夜……十日から日付が替わって、間もなくの時間。それは起こった……。


 突然の轟音。そして地鳴り。

 木々をなぎ倒し、押し寄せる大量の土石流。

 一瞬にしてこの村は、只一人の人物を残し……


                 そして、〝全滅した〟

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