△2手 残炎

 「せっかく家族で集まったんだから、ゆっくりしておいで」と、英人はひとりで帰っていった。無理に笑ってはいたけれど、とても疲れた顔をしていたから、香月もあえて引き止めなかった。

 薫は歩を二階で昼寝させていて、将は桂太と将棋を指している。竜也は後片づけもせずに録画したテレビ棋戦に夢中だから、香月はひとりで荒れたテーブルを片づけはじめた。


『折笠五段、考慮時間を使い切りました。残り時間はありません』


 その声は聞いたことのないものだったのに、醤油皿や箸がぶつかり合う音の隙間を縫って香月の耳に届いた。持っていた皿を落とす勢いでふり返り、テーブルに腰をぶつけながらテレビに視線を向ける。


「香月?」


 大きな音に驚いた竜也が不思議そうにたずねる声にも反応しない。青い顔で、じっと画面だけを見ていた。

 テレビに映っているのは、真剣に盤を睨む対局者と盤面だけ。さっきの声の主は見えない。


『20秒ー、1、2、3、4、5、6、7、』


 対局者が指して、画面が切り替わる。向かい合うふたりの向こうには、棋譜を読み上げる女流棋士と、記録係の男性が座っていた。


「……知らない、こんな人」


 声の主である記録係は、香月の知っている少年とは別人のようだった。すっと伸びた身長も、自然にカットされた髪の毛も、細い手首も、メガネも、低く響く声も、香月は知らない。けれど、目で見て違っても、耳で聞いて違っても、心が画面から離れない。


「竜也兄さん、この人だれ?」


 画面が変わる前に急いで指さすと、竜也はやはり不思議そうにソファーから半身を起こして答えた。


「記録係だろ?」

「だからだれ?」

「奨励会員(プロ棋士養成機関に所属している人)だよ。名前なんだっけなー。一番最初にテロップ出てたはずだけど忘れた」


 竜也の側に転がっていたリモコンを奪うと、香月は最初の場面まで戻した。


「あ! 観てたのに!」


 竜也の抗議なんて耳より手前で聞き流す。これまで兄妹でチャンネルを争ったことなどない。いつもどちらか、たいていは香月が「別に観たいのないからいいよ」と譲っていたからだ。だから、香月のこんな遠慮のない様子に、竜也は驚いていた。

 番組の始まりまで巻き戻す。解説者の紹介があり、対局者のインタビューがある。そして女流棋士がルールを説明する。


『振り駒の結果、先手が折笠五段に決まりました。持ち時間はそれぞれ十分。それを使い切りますと一手三十秒未満で指していただきます。但し、秒読みに入りましてから一分単位で、合計十回の考慮時間がございます』


『三段 梨田史彦』


 説明の間約五秒ほど、そのテロップは出ていた。確認した香月は、驚きで顔を紅潮させる。


「━━━━━全然『男爵』じゃない」


 地デジになって映像がクリアになったと言われるのに、画面越しの姿に懐かしさは感じない。竜也の存在も忘れて、何度も巻き戻して見るけれど、それは香月の知っている梨田ではなかった。容姿の変化だけでなく、顔色の悪さや目の下の深いクマが、その面影さえ奪っている。


「梨田って……。え! まさか?」


 竜也の声はもう聞こえていなかった。どんなに面差しが変わっても、これがあの梨田であることを、本当は名前を確認するまでもなく確信していた。


『20秒ー、1、2、3、4、5、6、7、』


 頭の芯まで声が響く。低く変わっていても、それは確かに、いつかのあのやわらかさは残していて。香月の奥に淀んでいた何かを霧散させていった。





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