第5話「犯人は黒い服を着ていた」

 夜の冬は寒い。

筆舌ひつぜつくしがたい」とか、「表す言葉が見つからない」といった決まり文句が、美味おいしい料理や美しい風景に使われることがある。が、それはこの冬の厳しさに使っても良いのではないだろうか。


 寒さが体にみ、仮眠かみんして良かったと俺は思った。これでもし眠ってしまったら俺は明日の朝には凍死体とうしたいとして見つかっているだろう。


「白崎くん。ちゃんと聞こえているかい?」


 耳に付けたイヤホンから黒川の声が聞こえる。俺は引いた貧乏びんぼうくじの結果について、黒川をうらんでいた。奴は車内で見張りみはり、俺は外なのだ。

「聞こえないよ」とふてぶてしく答えると、黒川は少し笑いながら「そうかそうか、それは良かった」と返す。嫌味いやみかよ。いや、嫌味を言ったのは俺が先か。因果応報いんがおうほうというやつではないか。


 辺りを見渡みわたす。重く静かな塀が、もしくは無機質むきしつなアパートの壁が道路に沿って立ち並ぶ。電灯は青白く光を放つが、それは弱かったり、チカチカと点滅てんめつを繰り返したりしている。悪事を働くのにうってつけの場所と言うべきだろうか。あまり雰囲気ふんいきの良く無い場所だった。


 白崎はアパートの表の路地に車を止め、俺はアパートの裏側の通りにある公園のベンチからそれぞれスマートフォンで連絡を取り合い、怪しい人間や異常があったらすぐに報告することになっていた。


 また、大井青子にはブザーを持たせた。これは黒川の私物で、ブザーを鳴らすと、俺と黒川のスマートフォンに通知が届く仕組みになっている。そして、その通知を確認したらばすぐに俺は大井の部屋へと向かい、黒川は警察に連絡する手はずだ。


 なっていたのだが、今夜は恐ろしいほどに静かだった。人どころか車さえもアパートの前を通らないまま午前の二時をとうに過ぎてしまった。寒さは依然いぜん、厳しくなりゆく。


「白崎くん、何か気になることはあったかい? こっちは暇すぎて眠くなってきた」


 耳につけたイヤフォンから黒川の声が聞こえる。

 彼のそのセリフはこれで十八回目。


「絶対に寝るなよ」


 そして、この俺のセリフを十八回目となる。


「わかっているよ。僕だってそんなアホじゃ……ん?」


 黒川が何かを言いかけた時、車のドアを開く音が確かに聞こえる。その次に風の音、そして寒そうな、彼の吐息といきの音。どうやら彼は車外しゃがいへと出たようだ。


「黒川?」


 俺は不意ふいに彼の名前を呼んだ。意味もなく自分の持ち場を離れることはありえない。彼は何か、異常を察知したのではないだろうか。俺は耳をまして彼の返事を待つ。黒川は声を出すが、それは俺に向けてのものではなかった。


「なあ、君。ちょっと待ってくれるかい。なあ——!」


 黒川はさけぶ。黒川は呼び止めようとしている。ける足が地面を踏む音が、かすかに聞こえる。黒川がその「誰か」を追いかけている。まさか、大井青子のストーカーか? もしそうならば、黒川のその行動は悪手あくしゅと言わざるをえない。


 不味まずい、それはやばい。


 がらにもなく。自分の心はどこかざわついていた。

 柄にもない?

 それは嘘だ。既視感きしかんを感じているから、自分の心はみだれているのだ。


「黒川! 状況を説明しろ。おい!」

「刃物を持った男が。いや、説明する時間もしいな!

 早くこっちに来て——」

「待て、刺激しげきするんじゃねえ! 追うな、黒川!」


 俺はすぐさま忠告ちゅうこくするも、何か、ノイズにも似た音が入った途端とたんに黒川からの返事がなくなった。俺はすぐさま冬の寒さも足の冷たさも気にせずに黒川の方へとけつけんとする。黒川のいる場所まではおおよそ一五〇メートル。自分の足なら二〇秒ほど。それは、今の自分には恐ろしく長く感じられるものだった。


「黒川! 黒川?!」


 黒川は彼が見張みはりに決めていた場所からさほど離れていないところにいた。しかし、様子がおかしい。彼はうずくまって動かない。道の遠くで走り去る何者かの姿がちらり見えた。黒服。しかし、そいつを追いかけてはいけない。


 しかし、そう思いながらも俺は一瞬、自分の目を疑い。黒服が居た場所を凝視ぎょうしせざるをえなかった。奴はかのように見えたからだ。実際、黒服の姿は消えた。しかし、曲がり角に消えるとか、遠くに去って消えるとか、そういうものではなかった。

 俺はその時、黒服がまるで魔法でも使ったかのように消えたように思えたのだ。しかし、それについて考える暇はない。俺はすぐに黒川の近くへとる。


「黒川、どうした! 何があった⁉︎」 


 俺は黒川に声をかけると、もしかして刺されたのではないか、と反射的に彼を仰向あおむけにする。自分の予想通り、彼の茶色いコートにナイフが刺さり、そこから赤い血がにじんでいた。鉄の匂いが、俺の鼻を文字通り刺激する。


「黒川、聞こえてるか! 誰かに刺されたのか⁉︎」

「……ああ、聞こえているよ。刺されたよ。

 にしても、刺されるって、メチャクチャ痛いもんだね」

「当たり前だろ——じゃなくて、意識があるんだな。良かった。とりあえず警察と救急を呼ぶ。それまで我慢してくれ」


 どうやら見た目ほど深手ふかでではないらしい。黒川を安静にさせ、すぐに救急車を呼んで圧迫止血あっぱくしけつをすれば命に別状べつじょうはないはずだ。しかし、傷を負った本人は伝えたい事があるようで口を開く。


「そんなことはどうだっていい。

 ……白崎くん、さっき走り逃げた男を見たかい?」

「見たよ。後ろ姿だけどな。

 だけど、あんまりしゃべんな。安静あんせいにしてろ」

「いいや、やだね。血が抜けて頭がえてきたんだ」

しゃべるなって」


 俺はそう言って、スマートフォンを取り出し、急いで一一〇番に通報つうほうする。俺の背後では、黒川が何やらブツブツ言いながら笑っている。怖い。まるで、好奇心こうきしんられた少年のような瞳をしている。いったい、何が彼をそこまでさせるのだろうか。


 その疑問はすぐさま思考のすみへと追いやる。今は応急処置おうきゅうしょちが先だ。不幸なことに、黒川を刺したであろう刃物は、あの男がってしまったようだ。止血を早急さっきゅうに行う必要がある。


「止血のためのビニールとガーゼをコンビニから貰ってくる。

 ちょっと待っててくれ」


 俺は黒川に一声かけて、すぐさま走り出した。不幸中の幸いというやつで、コンビニは俺達のいる場所のすぐ近くにあった。その数分後には救急車のサイレンがひびくだろう。


 午前三時。夜はまだ深い。黒川が病院に運ばれたとはいえ、だ。大井青子からの依頼のため、俺は彼女のアパートから離れるわけにはいかなった。俺は溜息ためいききたくなった。

 夜の冬は寒い。

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