過去4「神のために生きるということ①」

「あなたは神のために生きるのです」


 その言葉が私という存在に刻まれた始まりの記憶です。

 私はグロリア王国の外れにあるプレカーリーという小さな村で生まれました。プレカーリーはロセウス様を崇める信徒たちが集まりできた、祈りのための村です。そこの住人は誰もがロセウス様を心から慕い、ロセウス様の教えに身命を捧げることに喜びを感じていました。


「神のために尽くす」


 それがロセウス様の教えの最も基礎となるものです。

 創造神たるロセウス様はこの世界をお造りになられました。

 常世に生きる人間は等しく神の御子です。ですから、「神のために尽くす」ということは、「神が創造したものに尽くす」ということ。つまり、「他人のために生きる」ということと同義なのです。

 すべての人間は神とその御子のために生きる。

 私はそう教えられて育ちました。

 その教えは本当に素晴らしいものであると思います。皆が他者を敬い、尊重する。そうすれば、きっと、この世界の不幸の多くは消え去るであろうと思えるからです。

 母は私に向かって言いました。


「あなたは『神の器』になるのですよ」


 それが彼女の口癖でした。

 私の胸元には生まれつきとある痣がありました。ハートの形をした痣です。これは『神の書』に語られたロセウス様の特徴と同じでした。


「つまり、あなたの身体はロセウス様を模して、創造されたものなのです。だから、あなたの身体は神が再びこの世界に顕現なさる際に使われる大切な器なのです」


 母は私に向かって語り続けます。


「ミリア、『神の器』になるということは大変名誉なことなのですよ」


 母が『神の器』について語るときは決まって言葉に熱がこもりました。高揚と陶酔を抑えれないといったような表情で、私に熱い視線を送るのです。


「ああ、ロセウス様。私を、私をお救いください。私は自分自身だけではありません。娘の身体もあなた様に捧げます。だから、どうか、どうか、私を憐れんで、お救いください」


 母は私を通じてロセウス様に祈りを捧げるのでした。

 幼い私は母がそうやって神に縋ることを喜んでおりました。私自身が母の救いになれている。そのことが何よりも嬉しかったのです。

 だから、私は、涙を流して娘の私に縋りつく母の頭をそっと撫でました。


「ああ、ありがとうございます、ありがとうございます」


 母はそう言うと、まるで許しをもらった罪人かのように、声を上げて泣くのでした。




「やあ、ミリア。調子はどうですか?」

「あ、司教様!」


 私が村の教会で『神の書』を読み、勉強していると司教様がやってきます。

 この司教様が、ゼーア=ステルフスキ様です。

 司教様は、文字通りロセウス教の司教様であり、この祈りの村を治める長でもありました。神学に通じ、誰にでも分け隔てなく接する司教様は、村の誰からも信頼されていらっしゃいました。


「司教様はお若いの大したお方だ」


 村の人々は口々にそう言って司教様を褒めたたえていました。


「何か解らないことがあれば、何でも質問するのですよ」


 司教様はそう言って優しく微笑みます。

 私はその言葉に甘えて質問をすることにしました。


「……司教様、一つお教えていただいてもよろしいでしょうか」


 私は息を詰めます。


「私に答えられることならなんなりと」


 司教様はいつもと変わらぬ柔和な笑顔で私を見てくださいます。そんな司教様の微笑みを頼りに、私は少し前から気になっていたことを質問してみました。


「この村の人々は、誰もがロセウス様の教えを心から信じていることは明らかです。そのことに一点の疑いもありません。ですが……」

「この村の外ではロセウス様の教えがないがしらにされている。それはなぜか。そう言いたいのでしょうか?」

「………………」


 私は黙ります。なぜなら、それはあまりに僭越な質問であると思ったからです。

 私は生まれてから一度も村の外に出たことはありませんでした。それゆえに私はロセウス様の暖かい教えの満ちた環境で育つことができました。しかし、外の世界からやってきた信徒の話を聞くに、外の世界では神の教えは絶対のものではないというのです。この村では幼子の頃から、天の神に召されるまで、ずっと読むことになる『神の書』を一度も見たことがない人すらいるというのです。

 そんな世界があること自体が私にとっては衝撃でした。それくらい、神の教えとは、私にとって生活と切っても切れない関係にあったのです。


「……ミリア、恥じることはありません。それは現代を生きる信徒にとって避けて通ることができない命題です」


 私の不躾ともいえる質問に司教様は嫌な顔一つしませんでした。


「ミリア、確かに今、世界ではロセウス様の教えは忘れ去られつつあります」


 司教様は言います。


「数十年前からこの世界では魔術というものが一般的になりました。実際、今、我々の村にも魔術道具がいくつかあると思います」


 当時、村にあった魔術道具は魔石を使ったランタン程度のものでしたが、それでも、確かに魔術というものは私たちの生活に根を下ろしていました。


「魔術というのは便利なものです。実際、我々もその恩恵を受けています。しかし、世の中にはその恩恵を受けすぎたがゆえに、神の奇跡を蔑ろにするものが現れたのです」

「奇跡を……?」

「ミリア、思いつく限りの神の奇跡を上げてみなさい」


 突然の質問に私は焦ります。


「き、奇跡ですか……え、えっと……」

「はは、焦らなくてもいい。ゆっくり考えなさい」


 私は司教様の笑顔を見て、緊張を緩め、一つ一つ思いつく奇跡を取り上げます。


「えっと……まず神は奇跡によって、病気を治してくださります。あと、日照りで苦しむ地域には雨を降らしてくださります。逆に、大雨による洪水に苦しむ地域には暖かな日差しをくださいます。それから、魔獣たちに襲われそうになったときには力を与え、助けてくださるとも」

「その通りだ」


 司教様は満足したようにうなずきました。

 しかし、次の瞬間に司教様は少し悲しそうに眉を歪めました。


「だが、現代ではそれらのうち、ほとんどのことは魔術で代替できるのですよ」

「え……?」


 それは思いもよらない言葉でした。私にとって、魔術というのはランタンのように生活を便利にしてくれる道具であって、神の奇跡と同類に並べられるようなものではなかったからです。


「ああ、もちろん。なんでもかんでもできるわけではありません。天候操作なんて大魔術の部類だし、治癒術だって完璧というわけではないでしょう。それでも、たいていの奇跡は魔術で代替できる。これは事実です」


 司教様は話を続けます。


「特に数年前に起きた『魔術革命』によって魔術道具の性能は大幅に向上しました。それこそ、長年、魔術の流入を拒んできたこの村にも、魔術化の波が押し寄せる程度には一般的なものになったのです」

「なるほど、そうだったのですね」


 私は司教様の言葉にふんふんと頷きます。

 しかし、なぜそれが神の教えを蔑ろにすることにつながるのでしょうか。

 私の疑問を察したのでしょう。司教様は言います。


「ミリア、なぜ君はロセウス様を信じるのですか?」

「ロセウス様の『神のために生きよ』という教えに感銘を受けたからです」

「うん。良い答えです」


 司教様は優しく微笑みます。


「しかし、誰もが君のように神の教えを素直に受け入れられるわけではない。それでも、昔の人々はもっと神を受け入れていた。その違いは何でしょうか。昔の人が優秀で、今の人間が劣等であるからではないですよ。もっと単純な話です」


 そこに来てようやく私は司教様が真意を悟りました。


「……今は魔術があるから神の奇跡の価値が下がっている。だから、皆、神を信じない……」

「その通りです」


 司教様は言います。


「魔術が今よりももっと胡散臭いまじないとしか思われていなかった時代は、病気を治そうと思えば神に縋るしかなかったし、力の弱い人間が怪物とわたりあうためには神の奇跡の助けが必要だった。でなければ、生きていけなかったのです。だけど、今は魔術という手軽な代替がある。こんな時代に、みんな神の教えに頷けなんていうことが無理なのはわかりますね?」

「そんな……」


 それはに私にとっては思いもよらない価値観でした。

 神の教えとは絶対のもの。それ以外の生き方など、想像したことすらなかったのです。

 沈んだ私を見て、司教様は優しく微笑んで私の髪を撫でます。


「でも、もちろん、私はあなたのように、神の教えにすべての人間が従ってくれればいいと思っていますよ」


 司教様は呟きます。


「そのためには、神の奇跡の力を……奇跡でしかなせない力を、皆に示す必要がある……」

「司教様?」

「いや、この話はまた今度だ。迎えが来たようだから」


 そう言う司教様の視線の先を私は追います。そこには、司教様の弟子の方々が立っておられました。


「司教様、お時間です」


 お弟子様の一人から声がかかります。


「ミリア、続きはまた今度だ」

「あ、ありがとうございました!」


 私は司教様に深くお辞儀します。


「……外の世界」


 外の世界。そこは一体どんな世界なのだろう。神の教えが通用しないかもれいない世界。それは想像もつかないような場所でした。

 しかし、同時に私はそんな未知の世界に対する好奇心のようなものも抱いていたのです。




「儀式の日取りが決まりました」


 ある日、私を教会に呼び出した司教様は言いました。


「あなたの十五の誕生日の日。その日がロセウス様が再びこの世に顕現される記念すべき日になります」


 儀式とは、『神の器』である私にロセウス様を下ろす儀式のことです。

 私はその日のために生きてきました。自然と体に力が入ります。


「はい、このミリア=ローゼンハート。身命を賭し、この役割を全ういたします」


 そう申し上げて、私は深く深く頭を下げました。




 儀式の日取りが決まり、村中はお祭り騒ぎになりました。

 それはそうでしょう。儀式が執り行われるということは、ついに我らの悲願であるロセウス様の顕現が叶うということなのですから。村中の人々が次々にうちを訪れ、祝いの言葉を述べました。中には泣いて跪いて首を垂れる方もいらっしゃいます。私の手を握り、心からの励ましの言葉を送ってくださる方もいます。皆が私にロセウス様が降りてきてくださることを心の底から望んでいる。そのことがはっきりと解りました。

 ただ、そんな村人の様子を母はどこか冷ややかな目で見ていたのでした。




 昔、一度だけ聞いてみたことがあります。

 私が『神の器』としてロセウス様を身に宿した後、今ここに居る私自身はどうなってしまうのか。今ここに居て、神様を慕う私自身の魂はどうなってしまうのか、と。

 いつも優しくなんでも教えてくれる村の住人は一様に口を閉ざし、少し困ったような顔で微笑みました。

 だから、私はその質問をすることをやめました。

 これはきっと聞いてはいけないことだったのだ、そう思ったからでした。




 儀式の日が近づくにつれて、母の様子がおかしくなっていきました。

 私を見るなり、そっぽを向いて部屋に閉じこもるような日もあれば、私を壊れそうなくらい強く抱きしめ、涙を流す日もありました。

 もともと、少し精神的に脆い部分がある母でしたが、それでも、ここまで不安定になるのは初めてのことでした。

 そんなある日、母は私を抱きしめ、涙を流します。

 私はそんな母をそっと抱きとめます。か細く壊れそうな背中でした。ここ数日、母は明らかにやつれていました。

 少しでも母の悩みが消えるように、母の苦しみが安らぐように。

 私は心の中でロセウス様に祈り続けていました。

 しかし、母はそんな私の胸中を知ってか知らずか、こんな言葉を口走ったのです。


「ごめんなさい、あなたをこの村なんかに連れて来なければ……『神の器』になんかしなければ……」


 ぐらり、と。

 その言葉は私の芯を揺るがしました。

 まるで今まで踏みしめていた大地が忽然と消え失せてしまったような心持ちでした。

 私はずっと神に自身の身体を捧げるために生きてきました。それだけは絶対に折れることのない心の柱でした。

 その信念を他ならぬ母が揺らがせたのです。


 ――私は『神の器』になるために生まれてきたのではなかったのですか。


 ――それが、神の御子を、この世界を救うことになるのではなかったのですか。


 ――お母様は私に『神の器』になってほしかったのではなかったのですか。


 私の動揺を悟ったのでしょうか。母は慌てた様子で言いました。


「ごめんなさい。忘れて。忘れなさい、私の愛しい娘」


 そう言って、母は私を一層強く抱きしめるのでした。




「村を出るわ」


 母は真剣なまなざしで私を見つめていました。

 プレカーリーでは、外に出ることは禁じられていました。この村は神聖な祈りのための村。外に出れば不必要な穢れが村に持ち込まれてしまうかもしれない。だから、外の出られるのは、司教様から特別な許可を得た人間だけでした。

 もちろん、母は外に出る権利を持っていませんでした。

 母は私を抱きしめて言いました。


「あなたを『神の器』になんかさせない」


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