第5話、ヒロイン観察記録、その3

 大変な目にあった……。

 バスが目的地に着いた後で、俺は水屋で服を洗いながら、ひとり溜め息をついた。

 宿泊地は、森林の中の小さなキャンプ場で山小屋のような造りの建物が並んでいる。


「あっ、日比谷くん。ここにいたんだ。道明寺さんは部屋に寝かせてきたよ。もう大丈夫そうだから、心配しないで」


 凛とした声が背後から聞こえてきて、俺は思わず背筋を伸ばした。

 ふり向くと、声の主は、天文部の部長であり優等生として評判の、名取なとり早希さきだった。

 大きな眼鏡に、後ろで三つ編みに縛った髪型という期待を裏切らない委員長っぷりだ。


「あんなに道明寺さんがバスに酔いやすいとは知らなかったから。知ってたら私が道明寺さんの隣に座って介抱できたんだけど……ごめんね、日比谷くん」


「あっ、いや……その、お構いなく」


 何がごめんなのかよく分からないまま、思わず俺はそう答えた。


「それにしても、良いところだね。日比谷くん。ほら空気がこんなに美味しい」


 そう言って、早希は大きく息を吸い込む。

 何となく俺も真似して深呼吸してみる。

 うん……ごめん、俺には瑠花の嘔吐物の匂いしか感じないわ。


「今日は、絶好の天体観測日和になりそうね。期待して良いみたい」


 早希は、そう嬉しそうに微笑んだ。

 当然のことながら、部長である早希は数少ない天体観測ガチ勢である。

 しかも、奏のようなニワカファンではない、全国大会出場経験もある生粋の天文部員だ。

 正直、俺には天文部の全国大会というのがよく分からない。

 みんなでいっせいに星を探して、一番早いやつが勝ちなのだろうか。


「それより、日比谷くんは知ってる?今朝、起こった事件のこと」


 急に早希は、声を落としてそう囁いた。

 誰かに聞かれるのを恐れるかのようだ。


「事件? それって……」


「あっ、日比谷くん。朝刊読んでないんだ。ダメだよ、来年は受験生なんだから時事ネタにも強くなきゃ」


 急にダメ出しされてしまった。

 たしかに早希は、毎朝五紙くらいは読んでそうだ。


「この近くで行方不明事件が起こってるのよ。それも数件、重なって……」


「……行方不明?」


 瞬間、真夏だというのに鳥肌が立つような感覚が全身を襲った。


「ええ、それも何かに襲われたみたいな痕跡が残ってるから、ただの失踪ではないみたい」


「何かって……例えば熊とか?」


 俺の返しを聞いて、早希は小さく笑う。


「北海道じゃないんだから、この近くにそんな人を襲うような熊は出ないわよ」


 俺と早希の二人とも黙ってしまい、考え込むように間が空く。

 すると、俺の顔を覗き込んで、早希はさもおかしそうに笑いだした。


「あら、信じちゃったんだ。もう、日比谷くんって天然なところあるんだね。そんな怪談みたいなことあるはずないよ」


「えっ? さっきの話、嘘だったんですか」


 突然の早希の手のひら返しに、俺は目を白黒させた。


「うん、嘘、嘘。さすがにそんな事件、都合よく起きないって! あっ、二日目の夕方に肝試しやるから、この話はそれまで内緒ね」


 なるほど、肝試しのネタだったのか。

 すっかり信じ込んでしまった。

 しかし、早希もああ見えて、なかなか悪戯好きなところがあるようだ。

 山小屋へと戻って行く早希の後ろ姿を眺めながら、俺は少し落ち着かない気分になった。

 それまでは気にしなかった、森の小さな音がやけに耳に入ってくる。

 優等生は、怖い話まで得意ということか。

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