ファイル3「看護体験実習×医療過誤」(3/4)

 昼食を買った売店の帰り道、ロビー吹き抜けの廊下を南は横井と歩いていた。売店で出くわして、そのまま一緒に戻ろうかということになったのだ。南と横井はペアだが、医学部実習生は一人前としてカウントされていないので、二人同じタイミングで休憩に入っている。


「そっか……。一年目は、つらいですよね。ほら、新人看護師のための『ズルいくらいに一年目を乗り切る本』なんてのもあるくらいですし」

 ズルカン。有名な本だ。

「でも、南先生も、医学部一年目、ですよね」

「や、一年生は、なんでもつらいけど、でも……ぼくは学生だから、プロとは全然違いますよ。やっぱ」

 「一年目」でひとくくりに同じにするのは傷つけてしまう気がする。

「ぼくも。医師として実際に患者さんを抱えたら、どうなるのかな。医師一年目、かあ。怖いなあ」


 自信がない。

 研修医一年目が楽だったなんて話は聞いたことがない。


 学生の時は「お金を払って教えてもらう立場」だが、研修医になると「お金をもらって働く立場」になる。指導医は自分の多忙な仕事の合間を縫って、使えない研修医を使えるレベルになるよう指導することになる。ぶっきらぼうで怖いとか、すぐ罵倒されるとか、優しいのは女の子にだけとか、そういう話はいろいろ聞く。


「南先生にも、俺にとっての南先生みたいな、励ましてくれる心強い仲間がいたらいいですね」

 隣を歩く横井が、はにかみながらそんなことを言ってきた。

「えへ。ぼく、そうなれてます?」

「はい! 南先生が体験実習に来てから、俺、すごく前向きになれてるんです」

「それならよかった。ぼくはいつも、迷惑かけてばっかりだから……」

「そうはとても見えないけど……。でも、もしそうならきっと、だからこそ、俺、助けられているんだと思います」

 優しい人だな。

 きっと、いい看護師になれるに違いない。それに、

「じゃ、横井さんもきっと、いい先輩になれますね。新人ナースの痛みがわかる先輩ナースに」

「そっかぁー」


 痛みを分かる先輩は、厳しい現実から後輩を守るだろう。

 横井の心が折れないで、そのまま育ってくれさえすれば、医療の現場にとって間違いなくプラスだ。

 生き残った者が次に来る者を踏みつけるなんて不毛だと、南は思う。



 笑顔は、うまくできているだろうか。

 医学生と廊下を歩きながら、ため息を噛み殺す。

 せっかくの休み時間くらい一人になりたかった。


 できる医学生は何かを偉そうにしゃべり続けているし、逃げるように現場に戻ればずけずけ物を言う先輩ナースが待っている。

 

 医学生の話は努めて聞かないようにしていた。

 そうでなければ憎悪が広がっていってしまう。

 実際に患者を持ったこともないくせに――。持ったことがないからわからないのも仕方がないけど、だったらわきまえるべきだ。実際の現場は教科書とは違う。一年目はなんでも辛いだって、だから同じとでも言うのか。医学部一年目と、看護師一年目を同列になんてしないでほしいと叫びたかった。


 励まそうとして、失敗しているから。

 得意になったような顔で、心に触れようとするのをやめてほしい。

 自己満足で、人を追い詰めて楽しいか。

 本当に痛いからやめてくれ。やめてくれ。



 三日目。

 波多野さんの担当看護師は今日もお休みで、彼のことは出勤者全員で看るということだった。

「あっ。だいぶ経つので、留置針交換しましょっか。横井さんお願いできる?」

 いつも同じ看護師が看ているとつい気が付かないこともあるものだ。

 南は横井が切ったテープのごみを受け取ってポリ袋に入れていく。左手負傷により右手に点滴をしていることで巻き方が普段と逆なものだから、ハサミを手にちょきりちょきりとなんだか危なっかしい手つきだな……と感じていると。


 あ。管までちょきんとやってしまった。

「あああっ、すみません! ルート切っちゃいました。わー血が……」

 綺麗な赤い噴水に、屈強そうな波多野も血の気が引いている。


「ちょっとちょっと、どうしてそうなっちゃうの!」

 すっ飛んできた鮎川がさっと代わり、放心して立ち尽くす横井をわき目に手早く片付けていく。

「あ……ありがとうございます。鮎川さん」

 ようやく我に返った横井が、布巾を手に近づく。

「だめ! 素手でやらない!」

「……はい」

 しゅんとした横井を鮎川は勇気づけるように「こっちはやっとくから、替えのシーツ持ってきて。あれっ、輸液もない。ついでにお願い!」と指示する。患者の前から引き離して、気持ちを落ち着けさせるつもりだろう。

 鮎川は横井にいつもこそっと手を貸してくれている。

 先輩に恵まれてるな。と、南は思う。


 それから横井が戻ってきたのは、十分が経過してからだった。

「ごめんなさい、時間がかかってしまって!」

「待ってたわよ。どこ行ってたの」

「輸液が見当たらなくて、一から作ってました」

「そう。とにかくありがと」

 患者を車椅子に退避させ、南と二人でシーツを取り替えながら、鮎川はぽつりと言った。

「横井くん、さっきはごめんね、強く言っちゃって」

「いえ……」

「でも、血を触るっていうのは感染リスクが高いから、絶対だめよ」

「はい」

 先輩の真剣なまなざしに、横井はしっかりと頷いた。

「じゃ、波多野さんはこれでオッケーっと」


 ナースステーションに戻る途中で、南はつい無駄口をきいてしまった。

「なんだか、鮎川さんって、横井さんの身を案じてくれてるのが伝わってきますよね」

「そうですね」

 横井はよく笑うようになった気がする。目が隠れるほどの長く分厚い前髪からでも、わかるほどに。

 南もつられて笑った。

 そんな環境で働くのが一番いい。まぶしかった。



 先輩ナースは気遣ってくれるけど、噛み合っていない。

 医学生も、誰からも、なにも理解してもらえていない。


 ここには、味方は誰もいない。

 原因はわかっている。


 ぼくだ。

 ぼくが、いつだってにこにことしているから、これでいいんだと思わせている。


 だけど、じゃあ本当になんなんだ、と思う。

 ぼくが全部悪いのか。

 「俺は優しくしている!」みたいな顔されて、不愉快なのに。

 勘違いだ、自己満足なんだよ、って言ってやりたい。



「また考え事?」

「あ……うん。ちょっとね」

 人の行き来の多い外来のロビーで佇んでいると、いつの間にか目の前に雪野が立っていた。

「なんか、本当にぼくはうまく励ませているのかな、って……」

「え?」

「人って、わからないからね。表面を見ているだけじゃ。ぼくの自己満足になっていないかな? って」

「そんなところまで考えるんだ」

「え?」

「俺なんて、表情読み取るのも苦手だよ。ていうか、興味ないのかな」

「あ、はは。そっか。雪野くんは、勉強には興味あるのにね」


 少し間があって、雪野が聞き返してくる。


「勉強には興味あるのにね、って。言ったんだけど……」

「ああ、うん」

 雪野は申し訳なさそうな顔をすると、

「俺、雑踏の中で会話するの、苦手なんだ。こういう場所では、人に話しかけないようにしてる」

 そう言った。


 雪野は対人コミュニケーションが苦手なのかなと思ってはいたが、いろいろ抱えているものがあるらしい。見た目ではわからないことだらけだ。


「じゃ、なんで今日は話しかけたの?」

 気持ちボリュームを上げて聞いてみた。

「話しかけやすそうだから。南くんって」

「あはは、よく言われる……」


 人の痛みは、わかるつもりだ。

 傷ついてきた経験があるから。


 でも、まだまだ足りないような気がする。

 心の内では、腹の底では、何を考えているのか。何か抱えているものはないだろうか。理解した気になったらそこで終わるから、考えなくては。

 杞憂だったら、まあ、いいのだけれど。


 横井の元に戻ると、担当患者の森沢さんのところへ配膳に行くところだった。随行した南にお盆を持たせると、横井は箸の向きとお茶碗と汁椀の位置を交換した。


「配膳の位置、変えてみたんです。左利きなら、このほうが便利かなって」

 森沢さんのテーブルに置くときにそう伝えると、彼はちょっと微妙な顔つきで微笑んだ。

「気が利くね。ありがとう。でも、これはマナー違反なんだって。だから次からはそのままでいいよ。あ、箸はありがとう」

 左手に箸を持ち、食事を始める。 

「今回は、このままいただきます」

 好意に応えるかのように、左側の汁椀に箸をつけた。 

「いろいろと不便が大きいんですね」

「そうだねえ。母も、そう思って両利きにしてくれたんだとは思うけどね」

「あ、じゃあ点滴台の位置だけ変えておきましょう」

 南と横井で、ルートを浮かせるのと台をころころ引くのとを手分けして移動させていく。


 廊下からカートを引く音がしたかと思うと、開けっ放しになっていた引き戸から、先輩鮎川がひょこっと顔を出した。

「あ、横井くん、忘れ物」

 横井に何かを手渡した。

「要るでしょ、包帯。持ってきた」

「あ……ありがとうございます」

 鮎川は慌ただしそうに足早に去っていく。

「森沢さん、どこか怪我しました?」

「? いいえ」

 もぐもぐと食べながら森沢は首を横に振る。

 横井は額をかいて言った。

「えっと……とりあえずここに置いておこう」

 

 それからしばらくして、ナースステーションにナースコールの音が鳴り響いた。

「どうしました?」受話器を耳に当てる横井の表情が険しい。「……森沢さん?」

 返事がないらしい。

 彼と共に駆け足で病室に急行すると、そこには意識をなくした森沢が静かに横たわっていた。

「ドクター呼びましょう!」

 南は横井のポケットからPHSを抜き取ると、森沢の主治医にコールした。


 すぐさま飛んできた主治医は緊急で血液検査をすると、結果を元に注射器から薬剤をどんどん投与していく。こういう時、医師の存在はやっぱり大きい。


「低血糖に陥って昏睡状態だった。ブドウ糖投与して、今は落ち着いている。けど、なんでこんなことになるんだ。糖尿病や低血糖症の既往もないのに。突然どうして……」


 まさかと思って南は上を見上げた。

 点滴台にぶらりとぶらさがるパックには油性ペンで「入」という字に丸が打たれている。


「何か入ってますね」

 南は横井の顔を見て尋ねる。

「何か点滴に入れました?」

「いえ、入れてません。俺、【入】なんて書いた覚えもないです」

「何か混注したんじゃないと、こんな印書かない……ですよね」

「俺は何も指示してないぞ」

 不機嫌そうな口調で医師が言う。

「ヒューマリンが入ってたのかもしれん。看護師はいったい何やってるんだ! 誰がやった、まったく」

 ヒューマリンといえば血糖値を下げるインスリン製剤だ。


 もしそうだとしたら看護側のミスだ。

 冷え冷えとした。


 ナースステーションで事情を話すと、辺りは騒然となった。

 犯人捜しをしても仕方がないけれど、誰がやったのか明確にする必要もあると師長の丸山さんがきっぱり言った。

 心当たりのある看護師が名乗り出るのを待つような間があったが、特に誰も言い出さない。


「意識を取り戻した森沢さんに、「最後にどの看護師さんと会ったか覚えていますか?」と聞いたんですがね、あの時は眠くて朦朧としていてわからないって……でも、看護師さんに、不安ですってぼやいた覚えがあるって言っています。そうしたら自分もいつも不安でたまらないって返ってきたから、看護師の仕事も大変だなって思ったって」


 師長の言葉を受けみんなの視線が、新人ナースの横井に集まる。


「いや、俺は、やってないですよ! うっかりで、なんて……さすがに有り得ないです。入れ忘れるならまだしも――って、それもダメですけど……でも、不必要に加えるなんて……。森沢さんは俺の、たった一人の患者なのに」


「とにかく、患者さんとご家族に事情を説明して謝ります」

 師長がナースステーションを出ていく。


 雪野と顔を見合わせる。

 困ったことになったな、という視線を交わした。


 *


 点滴を間違えた。


 間違えた間違えた間違えた。


 医療ミスだ。医療過誤。ニュースになるのか。新聞に載るのか。医大にまで取材が来てしまったらどうしよう。記者会見? 偉い人が謝罪するのだろうか。ぼくも?


 違う。医療体制に問題があるんだ。ぼくのせいじゃない。


 だから、謝罪する必要なんてない。


 患者は生きているじゃないか。だったらもういいじゃないか。


 残念でしたね。ぼくなんかが担当で。不運でしたね。


 このまま黙っていればいい。


 終われ。

 終われ。


 早く終われ!

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