ファイル3「看護体験実習×医療過誤」

ファイル3「看護体験実習×医療過誤」(1/4)

 新品のレインコートを羽織って、南は家を出た。朝日はまだ出ていない。


 いつもと同じバスに乗り、いつもと変わらぬ愛長医科大学へ向かう。だが今日は校門側ではなく、医療従事者側の狭い出入り口をくぐる。夜勤明けの従事者と挨拶を交わしてすれ違った。


 今日は看護体験実習初日だ。


 薄暗い更衣室には、神木が先に来ていた。少し緊張した様子の彼は、南の姿を見つけてほっとしたように手を上げる。


「おはよ」

「おはよう。早いね」

「まーな」


 まだ七時過ぎ。病棟での体験実習は八時集合なので余裕がある。


「南は何科なんだっけ」

「脳外だよ。ちょっとこわいなあ」


 渡されていたナース服に着替えるとぶかぶかして違和感がある気がした。もう少し小柄用のものがあったらよかったのだが。


 これから平日五日間、脳神経外科の病棟の看護を体験するという実習が続く。

 事前講義によると看護師とペアを組んで、ベッドメーキングや食事の援助、洗髪など、患者さんに対する看護業務を体験するらしい。

 南に割り当てられた脳神経外科が診るところといえば、脳だ。手術の際には頭をパカっと割ったりする。脳というのはよくわからない部分も多くて、よく言えば神秘的だし、悪く言えば不気味だ。


「脳外かあ。でもさ俺なんて産婦人科だよ。キャー!! アタシ男の看護師なんてイヤ!! なんて言われんのかな。はあー……こえーよ……」


 生徒は各診療科にランダムに配置されていた。それぞれかなり特色が異なりそうだ。


 赤ん坊の頃に誰もがお世話になった産科には産科の、独自の悲喜こもごもがあるに違いない。不妊に悩む高齢夫婦の明るい未来を創ったり、若くして妊娠してしまった少女の葛藤に寄り添ったり、そして、生命誕生の感動の瞬間に立ち会い続ける……。もちろん、ドラマは脳神経外科にもあるだろう。


 それは胸踊る想像だった。南はそもそも病院や保健室が好きだった。弱った者に寄り添って助ける、いたわりの優しい空間。そこに患者としてでも従事者としてでも、身を置くことが居心地良いと思うタイプだ。何かあるとすぐ診てもらいに行きたくなるし、学生の頃はずっと保健係だった。


 しかし冷静に考えて、たった五日間では各科のドラマまで体感できないかもしれないなとも思う。

 実際の患者を前にした実習など今回が初めてのことで、こちらが医学生で実習に来ている事情などさっぱり知らない生身の人間が相手だ。


 ドアの開く音がして南と神木は振り返る。

「あっ、鵜飼さんおはようございます」

「おはよ。敬語じゃなくていいよ。同じ一年だろ」

「で、でも。年長者ですし」

 入室してきたのは鵜飼宗男。四十歳の医学生、最年長だ。さすがにここまで歳上は珍しいが、医学部に通う年齢はバラバラだ。浪人生も留年生も、再受験生もいる。

「気を遣わせたくないから、好きなようにしてくれたらいいからね」

「ありがとうございます」

「ありがと!」

 早速タメ口になったのは神木。さすが神木だ。

「担当科はどこなの?」

「産婦人科だよ」

「おっ! 一緒じゃんか!」

 南達と揃いの看護師服に着替える鵜飼の肩をばしっと叩く。薄毛がそよそよと揺れた。

「じゃ、いこーぜ鵜飼!」

「あっはは、行こ行こ!」

 ここまで気を遣われないとは驚いただろうが、鵜飼は嬉しそうに朗らかに笑って、急いで袖を通した。神木の態度には見下した感じや無理がまるでなく、すがすがしい。自分もよく助けられる。


(ぼくも行かなきゃ)

 神木達と別れ、早めに持ち場へ移動することにした。


 梅雨に入ってから、廊下のいたるところに紫陽花が活けられている。日中入院患者や医療従事者の心を元気づけていることだろう。早朝の廊下は人がほとんどいなくて、南だけがそのパワーを独り占めして浴びながら、現場に向かう。


 脳神経外科は中央棟三階、エスカレーター上がって右の「35」にある。既に来ている医学生らしき姿を見つけた。知っている顔だった。人気ひとけのない薄暗いナースステーションをふらりふらりと彷徨う、色白で学者然とした雰囲気のあの眼鏡は――


「雪野くん、脳外だったんだね。よろしく」

「よろしく」


 クラスメートの雪野映、その見慣れた顔にまた少し安心した。ただ彼の着ているのがいつもの白衣と違って看護師服なのが妙な感じだ。雪野も幾分か安堵した様子で、二人して無言のまま脳の模型を眺めたりきょろきょろそわそわしているうちにすぐに時間は経過した。

 年配の看護師や医療事務の女の子が一人また一人と出勤してくる。おはようございます、と挨拶していると、

「あらぁ、あなた達二人ね。看護体験の」

 首から下げた名札を見ると、師長の丸山さんだ。優しい笑みを向けられ、南もつられて笑顔で応えた。


「はい。愛長医科大学医学部一年の、南颯太です。どうぞよろしくお願いします」

「同じく雪野映です。よろしくお願いします」


「はいはい、南先生、雪野先生、よろしくお願いしますね~」

「あ、えっ、ぼく」

 先生?

 って、ぼくのことなんだ……。

 医学生も「先生」と呼ばれる立場らしい。どきんとした。なんだかくすぐったい。でも、そうだぼくは医者を目指してここに来たんだった、と改めて思い直す。

「でも、今日は看護師としての体験だから、南さん、雪野さんとお呼びしますね~」

 しわを深くして師長がにこやかに提案してきた。たしかに、看護師の中に一部「先生」と呼ばれる人達が混じって看護師の仕事をしていたら現場は混乱してしまうだろう。


 始業前に一日のスケジュールをざっくりと説明された。食事の介助やバイタルチェック、体位交換、それから検査や手術の送り出しなど。脳神経外科は手術後の管理が多いということ以外はだいたい「看護師」のイメージ通りであった。


(看護師の業務……か)

 南は穏やかな気分でその始まりを待っていた。

 医学生といっても、医療現場では素人同然だ。体験実習時に期待されることは少ないだろう。その範囲内で、役に立てたらいいなと思う。与えられた役目を全うして、その上で患者さんに寄り添えたら。看護師さんの助けにもなりたい。


 八時、いよいよ業務開始の時間だ。

 患者の状態の確認や、本日の点滴や検査、処置、手術といった情報収集から始まった。医学生は自己紹介の後、ペアの看護師に付いて患者さんの点滴交換を手伝い、バイタルサインの測定に入る。その後はベッドメーキング。


 各部屋を回って、声をかけていく。というより、

「あら、こんにちは。新しい看護師さん?」

 患者から声を掛けられるほうが多かったかもしれない。

「実習生の、南です。一週間だけですが、どうぞよろしくお願いします」

「よろしくね~。頑張ってねぇ」

 やはり患者の前に出ると、自然と気合が入る。大学での日々の小テストの時とは違って、この目の前の人の役に少しでも立てたらいいなという気持ちが自然に沸き起こってくる。

(こういうモチベーションの方が、ぼくは好きだ)

 なんだかうまくやれる気がしてきた。


 めまぐるしく時間が過ぎていく。昼食の援助も手伝った。意外だったのは、実習生の立場でもそこそこ労働力として期待してもらえるところだ。投薬の手伝いもしたし、入浴の介助までさらっと説明されて「あとよろしく」という感じだった。学生の立場でどこまでやっていいのだろうと思っていたのだが。

 

(ええと、次は……?)

 任されていた体位交換がちょっと早く終わったので、ペアの看護師を待つ。横井よこい隼人はやとという新米看護師が相方だ。最近では珍しいこともなくなってきたが、横井は男性看護師だ。


 自己紹介によると彼は看護師になって一年目だという。ということは、春までまだ学生だったのだ。時折小さな手帳にわたわたとメモを取りながら看護している。今は血液培養検査の準備中のようだ。


「ちょっと、横井くん、今、ポケット触ったでしょ?」

「あっ……」

 先輩ナースに咎められ、横井は普段メモを入れているポケットから手をぱっと離す。おそらく無意識だったのだろう。でも、今はだめだ。

「滅菌操作中よ。これ全部捨てて、もう一度最初からやり直し。培養検査の結果に影響出ちゃうわ」

 大変そうだなあ、と南は遠巻きに眺めていた。


 雪野は二年目看護師鮎川千里(三十を超えている。一度社会人になってから看護師資格を取ったらしい)と組んでいたが、南にあてがわれたのはどちらかというと学生の自分の身分と同じような、学び途中の男性看護師だった。ヘルメットのように分厚い髪に包まれた彼は、不安げにそわそわと慌てていて、自信なさげで、見ていて気の毒になるほどだった。南と雪野は横井と鮎川の新人ナース達と一緒にベテランからの指導を受けることになっている。


 今は手術から帰ってきた患者さんの人工呼吸器を繋ぎかえる作業に入っている。南は静かに見守ることにした。


「ねえ、検査結果出てないよ。項目間違えてない?」

 ベテランナースの貝塚に質されて、横井の顔がサッと曇った。

「あ……。すみません」

「採血やり直しだし、これ急ぎの検査よ?」

 貝塚は口調も視線も優しかったが、横井が迷惑をかけていることへの指摘である。

「ごめんなさい! 俺、検査室に直接頼んできます!」

「患者さんにもちゃんと謝るんだよ」

「はい……すみません」

 脇で見ていた南も、まるで自分が言われたかのような暗澹たる気分になってしまった。あああ……自分にも経験が……経験がありすぎる。


 あれ。

 そこまで考えて、南の意識がある一点に吸い込まれた。

 着々と進めていく横井の目の前、ベッドに横たわる患者の胸郭の動きが――まったくない。反射的に人工呼吸器の画面を見た。


「それ、スタートしてますか?」

「え、あ……」

 そこには「スタンバイ」という絶望的な表記。

 これじゃ、患者は息ができない。

 患者の顔色同様、横井看護師の顔も青くなる。貝塚の振り返る顔も固まっていた。

 走る緊張。

「忘れてました!!」


 物言えぬ患者はきっと苦しかっただろう。だが、その間はわずか一分ほどだ。なんとかセーフだ。


「横井くん!!」

 貝塚からついに鬼気迫る鋭い檄が飛ぶ。

「君ね、やっちゃいけないミスがあるわ! 患者さんの命を預かっている自覚あるの!?」

 恰幅の良い壮年の鬼の形相には迫力がある。怒られるのは仕方ない。患者がこのまま死んでいたかもしれないのだから。

「すみません……」

 騒動を聞いて、隣で食事の介助をしていた二年目看護師鮎川千里も飛んできた。

「横井くん、スタンバイ状態で装着したら換気スタートしないと! 患者死んじゃうよ」

 走ってきた勢いのまま、ポニーテールが揺れていた。武士の居合のような緊張感だ。

「はい……。俺、わかっていたのに……すみません」

「一年目にもそんなこと任せるんですね」と、雪野。鮎川は「そうです」と短く返すと、また髪を揺らして南に向かう。

「医学生の南先生ですよね、気付いてくれて本当にどうもありがとうございました。本当、よくわかりましたね」

 お礼を言われて南は焦った。

「い、いえいえいえいえいえ、たまたまです!! よ、よかったです……」

 ぽりぽりと所在なく手を動かす。こんな風に褒められるのは慣れていない。医学部では迷惑しかかけていないし……。


 それに、嬉しいが、叱られた横井のことが気になって素直に喜んでもいられない。


 横井は貧血を起こしたようにその場に座り込んで重そうな頭をわしわし掻いている。

(ど、どうしよう)

 ここは医療現場であり、仕事は山積み。彼に落ち込んでいる時間などない。でも、このままではまた何か大きなミスをしてしまうのではないかと不安になるほどおびえている。南は差し出がましいとは思いつつも、

「あ……あの、一息ついちゃ、だめでしょうか」

 横井を蔑むような眼で見下している鮎川と(あと雪野も)無視して、南は勇気を出して声をかけてみた。

「ええと……大変なお仕事だなー。ああ~ぼく休憩、したいなあ……って」

 本当のところは横井に休息が必要と思って誘ったのだが。横井も限界だったらしく、一緒に自販機コーナーの椅子に腰かけた。


 ここの自販機コーナーを使うのはほとんど医療従事者だけで、街でいう路地裏のような雰囲気がある。

「俺……失敗しちゃいました……」

 彼はしょんぼりと肩を落としている。

「けど、未然に防げたのだから、よかったです」

「南先生に気付いてもらえなかったらどうなっていたことか。あと一歩間違っていたら……」

 なんかこれ、イメージと違う看護実習だな。ぼくがペアの看護師を励ます係なんて……。 

「ぼくも気持ちわかりますから……ほんと」

 生きていてうまくいかないことだらけだ。痛いくらいにわかる。わかってあげることくらいしか、できないけど。

「俺、看護師向いてないのかな」

 横井はぽつりと、そんなことをこぼす。

「先輩に毎日叱られてばかりだし、患者さんも、俺じゃなければもう少し楽になれるんじゃないかって」

「横井さん……」

「本当は、“こうありたい”って理想を持って看護師になったんですけど、もう、忘れた……です」

 毎日が忙し過ぎて、崇高な使命どころではない。

「あ……すみません、先生にこんなこと」

 胸が痛くなった。その気持ちは医学部の立場でもよくわかる。毎日の小テストに次ぐ小テストに対応するだけで精一杯になる。

「横井さんのせいじゃないと思います。たとえば、人手不足の医療体制にも問題があると思いますし」

 高給で人がわんさか集まるようになったらもっと業務に余裕が出るのではないかとも思う。

「でも、二年目の鮎川さんは、こんなふうじゃなかったって」

「部分的に人と比べるなんてもったいないですよ。鮎川さんはすごく年上だし……。それに、看護師の人生は始まったばかり。横井さんは横井さんで、きっと力があると思います」

「南先生……」

「ぼくは先に戻りますから、ゆっくりしてくるといいですよ」

「はい」

「お疲れ様です」

「お疲れ様です……」


 *


 思い出してしまう。


  ――人工呼吸器はスタートしていますか?

 ――「忘れてた!!」

 ――「横井くん、スタンバイ状態で装着したら換気スタートしないと! 患者死んじゃうよ」

 ――「はい……すみません。ごめんなさい」


 そんなことされたら、

 そんな話をされたら、


 思い出してしまう。


 記憶に蓋をするように、コーヒーを呷る。


 有能な医学生さんのおかげで、助かったこと。

 一方で、自分の無能さが際立って。


 逃げ出してしまいたい。


 そんな、日常を。

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