ファイル4「試験対策委員会×盗まれた問題用紙」前編
ファイル4「試験対策委員会×盗まれた問題用紙」(1/8)
今日は月曜日。細胞生物学の小テストの時間がもうすぐやってくる。
授業開始前になると、あるものは机に必死にかじりつき、あるものは仲間と問題を出し合って互いに焦らせ合う。南は今まさに焦らされている最中だった。
「では南、リーディング鎖とラギング鎖の違いを説明しなさい」
「え……わかりません」
「じゃーヒント! 複製フォークの移動と同一方向に重合が進むDNA鎖のほうがどっち?」
「ラギング鎖!」
「ぶー! リーディング鎖だよ」
「うあああ」
……目の前が真っ暗になる
「ラギング鎖は逆方向で、飛び飛びの伸長の仕方をするんだって。ちなみにこの時できるDNAの断片の名前は?」
「知らないよ……」
「岡崎フラグメント。これも覚えておいた方がいいな」
「えーん……」
しかし神木は意地悪で言っているわけではない。神木がそう言うということは試験に高確率で出題されることになるだろう、これまでの経験上。
でもこれ、はっきり言ってムリゲーだ。範囲が広すぎるし時間もないし、一回きりならまだしも毎週ときたら、どんなに鉄の意志でここへ通っていたって挫けそうにもなる。
「俺にも! 俺にも問題出して!」
神木にせがまれ、参考書をめくってみる。
「じゃあ問題ね。遺伝情報は転写、翻訳、タンパク質の順に伝達されるという概念を何と呼ぶでしょう!」
「え、セントラルドグマ?」
きょとんとした顔で答える神木。
「正解!」
「いや~、これは出ないだろー」
軽快に笑いながらも正答するのはなんでだろう。
神木とは大学で最も仲がいいものの、頭の出来が違いすぎるのをそろそろ南も自覚してきた。髪も金に染めてオシャレな神木は、部活もやっていて勉強熱心な方ではない。それなのに試験前までには問題なく仕上げてくる。しかもどうにも間に合わなかったときは、試験直前に教科書を集中して読み込めばなんとかなってしまう。どうやら頭の作りが違う、と思う。頑張ればどうにかなる人達もいるにはいる。
そういう人達のことを羨ましく思ったり自分はなんてダメなやつなんだと自信をなくしたりもしたけれど、平々凡々の自分がいかにして医学部を無事に卒業できるか、そのことだけを考えよう、と南はもう内心で頭を振るようにしていた。劣等感を感じている場合ではないのだ。
「ちょーっといいかねぇ?」
ネチネチした声に顔を上げれば、そこには少し浅黒い肌の丸顔がにっこり微笑んでいた。
「あ、倉田委員長! はいっ、どうぞどうぞ。何のご用です?」
南はぺこぺこと頭を下げて起立しようとし、いやそのままでいいよ、と満足そうに手で制されて、上げかけた尻を戻した。この小柄な人は一年生の
南と同じ一年生なのだが、倉田相手には自然と敬語になる。しかも、本人はそれを喜んでいるのを感じるので、なんだかもう南の中ではすっかり定着してしまった。
「これ十五時までにコピー頼める?」
「あ、はいやっときます!」
渡されたUSBメモリを大切に鞄にしまいながら、南は頭の中で今日の予定を上書きする。問答無用だ。
南が、神木と問題を出し合う以外にやることと言えば、これ――委員会の仕事だった。
委員会といっても大学側が作った役職ではない。
医学部を無事卒業するために生徒達が自ら集まって結成した組織、その名も「試験対策委員会(通称:シケタイ)」である。生徒同士で力を合わせて協力し効率よく試験を突破しましょうという委員会だ。
「神木くんは、どんな感じ~?」
倉田は白衣の襟元から上質で大人っぽい黒シャツを覗かせながら、ゆっくりと神木に視線を移す。黒髪が油でテカテカしていて、なんだか四十代サラリーマンのよう。でも、高校からストレートで合格しているそうなのでまだ十代か。
「医用物理学ならもうまとまってるよ。あと、生体分子の化学の過去問もゲット」
視線が外されてほっとしている南とは違って、神木は気怠い口調で返している。
「じゃあさっそくアップロードしておいてくれるかなぁ?」
「うっす」
軽く右手を上げて去っていく倉田委員長を見送り、南はふうっと息をもらした。
はあ。緊張した。
試験対策委員を組織するあの人に嫌われたらここでは生きていけない。
前期前半の小テストの成績を突き合わせた結果、南にはさっそく役立たずの烙印が押されていた。だが倉田委員長は南にこの組織が必要であることを理解し、南にもできる仕事を回してくれる。
なんとしても、絶対に医者になりたいから。
残念ながら自分は天才ではないと思い知らされた南は、それでも医者になるために、あらゆる手を尽くす必要があった。試験対策委員会がそれを叶えてくれるのなら雑務でもコネでも媚びを売るでも何でもいい。
おかげで今月に入ってからはノー追試で突破している。コピーだとか買い出しだとかいったつまらない雑務も、文句言わずきっちりこなさねばなるまい。そうしていればなんとか、きっと、自分でも医師になれるはずだ。やり方はなんだっていいんだ。
昼休み、与えられた役目を全うしようと南がコピー室に行くと、たまたま医学英語の先生が使用中だった。
医学英語。
医術論文を読むだけでも大変なのに、全文英語で読まなければならないという苦行を強いられる授業である。出されていた課題の論文英訳が全く進んでいないことを思い出して南はバクバクと動悸がしてきた。ここで質問してもいいものだろうか。迷っている時間ももったいないと、ダメ元で聞いてみることにした。
「すみません、あのぅ」
反応がない。
「あのっ、あの、あのー……」
コピー機の音でかき消されて聞こえていないのだろうか。南は思い切って肩を叩く。
「おおっと。びっくりした」
「失礼しました。呼びかけたのですが……」
「すまないね。私は耳が遠くてね。ええと、君は南くんだったね。なにかな?」
南は少し声を張ることを意識しながら、わからない箇所をいくつか質問してみた。だが、優し気なヒゲのジェントルマン教授は、南を遮って申し訳なさそうに言う。
「たしか雪野くんと組ませてたはずだが」
「あ、はい……」
たしかに、授業中に自分は雪野と組まされていた。
「すまないがもう行かなければならない。わからないところは雪野くんに聞きなさい。そのためのペアなんだよ。二人で協力してみよう。はっはっは」
たった今ちょうどコピーも終わったらしく、ぽんと肩に手を置いて去っていってしまった。
一年生の必修科目はほとんど全員被っているから、雪野に会うのが難しい訳ではないが……
(雪野くんに話しかけるのは、倉田委員長に話しかけるのとはまた違った意味で緊張するんだよなあ……)
男子の平均的な身長に丸い眼鏡をかけて、茶色みがかった柔らかく長めの前髪の間、いつも眉間に皺が寄っているあの人。白衣がこの上なく似合う学者っぽい男子だ。微笑めばきっと優しげな雰囲気になるだろうに、そんな顔は見たことがない。聡い視線と、キレる頭脳、そして最小の正論で心をエグってくる。
担当する範囲が違うから神木に聞くわけにもいかない。でも講師に指示された以上は、発表までに雪野に対してなんらかのアクションを取らないと筋が通らないだろう。南は余計なことを言うんじゃなかったなと後悔しつつ、コピー機の蓋を持ち上げた。
次の授業の教室に入ると、既に席について参考書を広げている雪野がいた。仕方がない。行こう。
「雪野、くん」
にっこり微笑んで、彼の視界に入ろうと身を屈める。
「ご、ごめん、ちょっといいかな……?」
はい、無視。
熱心に勉強中で、声をかけるのは躊躇われるけど……
つんつん。
指で肩をつつくとさすがに顔が上がる。
だが、覚悟した二割増しで睨みつけられた。
(ひぃ~)
精霊のように整った顔いっぱいに嫌悪感と見事なまでの殺気を感じる。この時点で南の心は既に折れた。
「あ・の・さ。今、勉強中なの見てわかるよね? 気安く話しかけないでほしいんだけど」
「は、はい……ごめんなさい」
やっぱり怒られた。
「で、何?」
そのまま強い視線に真っ直ぐ射抜かれる。彼の意識がこちらに向いていると思うだけでその密度と速度にあたふたしてしまう。
「これ、まだできてなくて……えっと、その、先生にも聞いたんだけど」
しどろもどろになりながら、南は用紙を取り出して説明しようとしたが。
「その範囲は南くんの担当だよね?」
「ハイ、ソウデス」
「じゃあ自分で頑張って」
「う」
雪野はそれだけ言うと、最短経路の動作で再度勉強に戻った。
そしてもう熱心にノートを書いている。
取り付く島もない。
うー。
わかったよ。
ただ、先生には雪野くんと協力するように言われたんだもん。
……はあ~。
噛まれる噛まれると思いながら近づいてやっぱり噛みつかれて、全治一か月。うん。一か月は引き摺る。神木の待つ席まで戻る。様子を見守っていたらしい神木はにやにやしながら迎えてくれた。
「おっつー! いやあ、あいつ相変わらずでなにより」
「何が……」
「まああきらめろって。そんなことより俺と問題出し合おう!」
「はいはい……」
言われるまでもなくもうあきらめた。
医学英語の授業では、どうにかできた分だけを発表しよう。自分で訳してみたけどたぶん間違いだらけだし、でも講師にも聞いたし、ペアの雪野くんにも聞いた。もういいや。落第しそうな授業は他にもある。これはこの辺で切り上げよう。
そう思っていたのが甘かったことを、数日後の授業で知ることになった。各々が担当の論文を日本語訳して内容を発表していく中、雪野と南のペアの番が来た。雪野は自分が担当したところを問題なく、むしろ補足や追加資料など豊富で見事な発表をしたものの、南がそれを帳消しにして余るほどのダメっぷりを見せつけた。そこで普段は温和な先生の態度が急変したのだ。
南に、ではなく、雪野に対して。
「雪野くん、君は南くんに教えなかったのかい? 私は南くんに君と協力するよう言ったのだが」
「ぼくも聞いたんですけど……」
「そっちの範囲は俺の担当じゃありませんので。ってか、なんでちゃんとやってこなかったんだよ……チッ」
悪びれる様子もなく雪野が答えると、教授は厳しい声色できっぱり言う。
「これはチームワークを測るための課題でもあったんだよ。君たちペアの評価は足して二で割ったらBでギリギリ合格だけど、協力しなかったという点がマイナス。だからC」
「そんな!」
雪野が驚いて目を丸くする。
「君にここまでの余裕があったのに相方のことを気遣わなかったのはかなりマイナス評価だ。君達二人は発表やり直し。次もこんな調子なら単位はあげられないから覚悟するように」
信じられないというように固まる雪野の顔が印象的だった。
南自身、ここまで厳しいとはびっくりだ。
そして――授業が終わるや否や、彼は用具を乱暴に鞄に詰め込むとこっちへ向かってきた。
「あのさ、協力するよう指示されたんなら、ちゃんと言ってよ! 発表も酷かったし、やる気ないだろ! それでなんで俺が大きく減点とかされなきゃいけないんだよ!」
すごい剣幕である。こんな刃を向けられるなら、あの時もう少し食い下がって手伝ってもらったらよかったと後悔するほど。
「だ、だって、話しかけないで、って……雪野くんが……」
「気安く、って言っただろ。こんなことになるなら別だよ!」
そ、そんなぁー……。
「気安く」にそこまでの意味があったとは。嫌味ではなかったらしい。後付けでもなんでもなく、どうも本気のようだ。
すると、冷たそうな缶ジュースを三本手に持って教室に戻ってきた神木が口を挟む。
「んーでも、たしかにチームワークは最悪だろおまえら。減点はもっともな評価、じゃないか?」
ぐさっ。
意外にも、隣の雪野の横顔は傷ついたように歪んでいた。
「まあこれ飲んで落ち着けよ」
神木は買ってきたコーラを南と雪野の間に置く。
だが神木にズバッと言われてちょっと清々した気持ちにもなる。
チームワークは最悪だった。発表の内容が悪かったのはぼくのせいだけど、チームワークに関してだけはどちらかというと雪野くんの人当たりの悪さに原因がある気がする。
いや、怖気づいて言わなかったぼくも、やっぱり悪かったと思うけど。
それも含めて至極真っ当な評価が下されたって感じだ。
雪野くんとじゃなかったらこうはなっていない。たとえば神木とか。
「……俺、バイトがあるから帰る」
雪野はジュースも受け取らずに踵を返す。
「待って! じゃ、連絡先、教えて!」
南は雪野の鞄を引っ掴んで止めた。彼は小さくため息をつくと、南が広げていたノートの端にさらさらと数字を書いた。
「これ、番号」
「ありがとう」
去っていく彼の鞄にジュースを無理やりねじこむ。重石でも入れられたがこどくよろけると、彼はあきらめたように仕方なくそのまま帰っていった。
雪野の姿を見送りながら神木が言う。
「あいつ、何者なんだろうな。バイトも結構してるみたいだけど、成績すげえいいんだろ」
「うん……」
成績上位者は掲示板に貼り出される。雪野はいつもどの授業にも名前が挙がっているのを南は知っていた。ちなみに南の名前が載ったことは一度たりともない。
「倉田委員長とどっちがいい?」
「抜きつ抜かれつ、って感じだよ」
「そうなんだ。でも自力で倉田と競える時点ですげーよな。あいつが人と話してるのって俺あんまり見たことない」
たしかに、倉田委員長の成績がいつも一番なのは、委員会のメンバーとの協力体制や方々の先輩から入手した過去問を駆使した対策が功を奏しているからだろう。一方で、雪野は単独でその倉田と肩を並べられるほどの成績なのだ。
ノートの隅に書かれた番号をスマートフォンのアドレス帳に入力しながら、南は謎にみちた彼の生活に思い馳せる。
彼は一体どんな勉強法であそこまで成績をキープしているんだろう。バイトもやっているみたいだし……。やっぱ頭の良さが違うのかな。
協力しろと言われたのだから、勉強法こそ聞いてみればいい。けど、忙しそうだし、それに電話なんて緊張する。まあ、電話は最後の手段にして、明日学校で会った時に相談をしてみよう。と南はスマートフォンをポケットに滑り込ませた。
そう思っていたら翌日のことだった。雪野がつかつかと南の机に近寄ってきたかと思うと「ん」とA4サイズの紙の束を差し出してきた。
「え……? これ」
何?
「これ発表すればいいから」
ひとまず受け取り、ぱらぱらと中を確かめると、「心不全」「運動療法」など見覚えのあるようなないような単語が目に飛び込んできた。どうやら南の担当分を代わりに訳してくれたらしい。全文の日本語訳だけにとどまらず、雪野が考えたであろう対処法の具体例と発表時のスピーチまで用意されている。
「あ……ありが、とう?」
これだけのものを用意するのにどれほど時間かかっただろう。険悪な雰囲気はそのままだが、労を割いてくれたことには反射的に感謝の気持ちが沸き起こる。
……でも、いいのかな。
たしかにこれさえあれば誰が発表しても素晴らしい内容になるだろう。
けど、協力しなかったことを反省したとはいえないような気がするんだけど……。
雪野は関わるなとばかりにもう背を向けて遠くの席に座ってしまった。
もう一度、手元にある日本語訳を読んでみる。
(あー……心不全の運動療法だから――デコンディショニングって過剰な安静の弊害ってことだったの、か。なんだ、こういう内容だったんだ。一割も理解できていなかったや、ぼく)
すごいなあ。海外の医学論文を、こんな風にすらすら読むことができたら、世界に通じる立派な医者になれるだろうな。
南は改めて畏敬の意を込めて雪野の姿を見つめた。神経質そうな華奢な身体が小刻みに揺れ、また何かを熱心に書き連ねているようだった。彼に話しかける者は人っ子一人なく、彼自身もそれを喜んでいるようだった。
(けど、チームワーク、かあ)
南はそんなことで悩んだことなど今までなかったが、ここに来て、とても難しい課題に思えた。
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