希望と不安

 セリカの存在をメリッサに気づかれてから、ちょうど一年がたった。

 幸い、人前に出たくない高貴な人間というディアナの言葉を彼女たちは信じているので、セリカが『私は子供でもちんちくりんでもないわよ!』とディアナに徹底抗議して数日間ディアナが睡眠不足になった以外は、ほとんど何もなく事業を続けていた。

 ディアナたちが売る絹や化粧品は、口コミで大好評になり、貴族どうしの贈答品としても使われるようになった。

 それによってディアナの共同事業者であるエドガー・キーツはその功績によって社交界でもてはやされるようになり、ちゃっかり自分の本業の売り込みをする彼の姿は舞踏会の風物詩になっている。

 だが、完全に何の波風も立っていないと言えば嘘になるな、とディアナは応接室で一人考える。

 ディアナには、今三つ気がかりなことがある。

 一つ目は、今日の来客。

 王都の舞踏会に顔を出したナオミがディアナの事業のことをたずねられて、不愉快極まりないと言い放ったのが、二つ。

 最後は。

 ディアナは不機嫌そうに中空へ浮かぶセリカを見上げた。


『遅いわね。向こうから時間を指定してきたくせに。名前も名乗ってこないし……』


「皇太子の秘密を知っている。バラされたくなければ会え、でしょ? ミルキーたちに危害が加わるのは嫌だから、会ってみるだけは……会ってみる」


『無理はしないでよ。ところで、活版印刷の進捗ってどうなってたかしら?』


「もうすぐ教科書ができるって、活版印刷の工房から連絡が届いたよ」


『まあ、私のおかげよねって痛ぁ!』


 ここ最近、セリカはよく自分の顔を押さえる。


「セリカ、傷が痛むならメリッサからハーブをもらった方がよかったかな?」


『実体のない悪魔に現実のハーブなんて効かないわよ』


「それなのに痛みはあるんだ」


『それが変なのよ。人間の体を通じてしか、私は触覚を感じることはできないはずなのに』


「どういうこと?」


『人間の体を操ってる時なら人間の感覚を共有したりはできたけど、それで人間が怪我しても痛いって思うだけで、私自身が怪我をしたわけじゃないんだけど……なんだか不思議ね。生きていた時みたいに、私の怪我が痛いだなんて』


「セリカがなんだか薄くなってるのも関係あるのかな?」


『えー? 薄くなんか……』


 セリカは自分の体を見下ろし、息を飲む。


『あっ待ってやだ確かに向こう側が見えてるちょっとなんなのよこれ?! 痛っ!』


「気づかなかったの?」


『鏡を通さずに自分の姿をじっくり見ることなんかあんまりないでしょ。お風呂にも入らなくていいし私は鏡に映らないし……悪魔だから』


「そっか」


 ちょうどその時、ブレナンが応接室に入ってきた。


「……ディアナ様。客人の馬車が来ました。そして……その客人なのですが……」


「どうしたの? ブレナン先生」


「ディアナ様を、レーン様と偽って王都に連れてくるようナオミ様に提案した、お方です」


「なんで……」


「ごきげんよう、皇太子レーン殿下……いえ、ディアナ」


 ディアナは、ブレナンの後から入ってきた化粧をした男の顔を見て凍り付いた。

 無残に切り落とされたポニーテール。

 【ディアナ】が死んだ日。


「あなたは……」


「おや、自己紹介がまだでしたね。わたくしめは侯爵の、パルタスと申します。皇太子様をお支えするしもべの一人にございます」


 パルタスは礼儀正しく頭を下げたが、口調は慇懃無礼いんぎんぶれいそのものだった。


「今まで何もしてこなかったのに、いまさら何の用なの」


「今まで何も? とんでもない」


 パルタスは大げさに肩をすくめた。セリカは気に入らない、とまゆをひそめる。


『つまらないピエロみたいな男……これから頼んでもいないおせっかいの話をする気ね』


「お体が弱い皇太子殿下のために、皇太子殿下が舞踏会やもろもろの公式行事にお出にならないことについてつじつまを合わせておりますよ。娼婦しょうふたちと酒池肉林の生活を送る、貴族のご令嬢とお見合いをするには不適切な人間だと」


「ブレナン先生、ほんとに?」


 あまりにひどい内容に、ディアナは黙っていられなかった。


「……その通りでございます。結果的にディアナ様が人前に出なくてよくなるので、放置しておりました」


 ブレナンの悲痛な表情は、言葉以上にパルタスは真実を言っていると告げていた。


「で、あなたは嘘を流す以外に、これから何をする気なの?」


「わたくしは皇太子殿下に奉公しております。かくなる上は、ご恩をいただいてもいいかと」


「騎士みたいなことを言うわね。騎士は武勲で仕えて、ご恩として領地をもらうんだったっけ。でも、私にあなたにあげられるような領地はないんだけど」


 ディアナの疑問に、パルタスはおおげさにうなずいた。


「もちろん承知しております。わたくしめが欲しいのは領地ではありません。皇太子殿下、あなたが現在エドガー・キーツに恵んでいらっしゃる、娼婦たちと行っている事業の権利なのです。皇太子殿下には、あのような下賤げせんなものより、わたくしめのような高貴な者こそが相棒としてふさわしいのです。わたくしに権利をくださったあかつきには、娼婦など雇わずとも、良家の子女を工女としていくらでも差し上げ――」


 ぺらぺらとパルタスは差別意識をむきだしにして話し続ける。

 セリカの眉間のしわは、地獄の奈落並みに深くなっていた。


『なにこいつ……女の子をものとしてしか見てない。最低』


「高貴な者には高貴な相棒がよいのです、よってわたくしに権利を皇太子殿下がお与えくださるのは必然――」


「黙れ」


 ディアナは、パルタスをにらみつける。

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