世界を変える

 階段から落ちた。ディアナがそう気づいた時には、すべてが手遅れだった。周囲の怒号と悲鳴が遠ざかっていく。

 手をつく暇もなく、ぐるりと世界が回転する。気づくとディアナは。背骨までジンジンと衝撃が伝わる。


「痛っ!」


「きゃっ!」


 転んだ瞬間、どこかで聞いたような女性の悲鳴が聞こえた。

 もしかして、誰かを巻き込んじゃった?

 回転し続けるディアナの視界には、午後の日差しにあたたかく照らされた森が広がっているだけだった。

 どん、と強い衝撃。階段から落ち切った、とディアナは気付き、体を持ち上げた。


「いったあ……」


 幸いなことに、落ち葉の山に突っ込んだらしく、葉っぱまみれなのと軽い擦り傷をのぞけば異常はない。

 もそもそと、ディアナの近くで誰かが木の葉を払う音がする。


「いったい……どうしてあなた大事なときに転ぶのよ」


「えっ」


「あれっ」


目の前で、セリカが体を起こしていた。


「セリカ……生きてたの?」


「ディアナが私のことを感じられなくなってただけで、話せなくなってからも、ずっとディアナのこと、見守ってたわ。……ノーデンで、あなたに会った時から」


 そう言って、セリカはディアナの手を取った。


「今まで、よく頑張ったわね」


 細くて柔らかい、人間の指だった。


「……うん」


「ディアナ! 無事だったか、すぐ逃げるぞ!」


 レミーにいわれて、ディアナとセリカは馬車に駆け込んだ。

 馬車が走り出そうとしたその時、背後から聖職者の声が聞こえた。


「逃がしてなるものか! お願いウリエル! 門を閉じろ!」


『了解しました』


 地下で聞いた男の声がディアナの耳に届く。そして、聖職者が言ったとおりに門が閉じた。


「ウリエルって天使の名前じゃねえか……教会って本当に天使とやりとりできるのかよ」


 絶望の色がにじんだレミーに対し。


「なるほど、ここでもウリエルを使ってるのね?」


 セリカは面白そうに笑っていた。


「その物言いは不敬だぞ!」


 馬車のすぐ後ろまで追いついている聖職者からヤジが飛ぶ。


「ただのジンコウチノウを敬ってるあなたたちのほうが本物の天使に失礼だと思うんだけどねえ……まあいっか」


「セリカ?」


「ウリエル、神の御前に立つ四人の天使の一柱。神の光にして神の炎よ。裁きと預言の解説者よ。焔の剣を持ってエデンの園の門を守る智天使よ。懺悔の天使として現われ、神を冒瀆する者を永久の業火で焼き、不敬者を舌で吊り上げて火であぶり、地獄の罪人たちを苦しめる者よ。最後の審判の時には、地獄の門のかんぬきを折り、地上に投げつけて黄泉の国の門を開き、すべての魂を審判の席に座らせる者よ。我が声に答え給え」


 セリカが耳慣れない祭文を面白そうにとなえ上げる。

 なんで悪魔を自称していたセリカが、天使に祈るんだろうか。

 ディアナが不思議に思っていると、地下で聞いた男の声がした。


『キーワード、クリア。臨時監督者として認証します』


「お願い、ウリエル! 対応言語を日本語だけにして!」


『Ryoukaisimasita 』


「Onegai,urieru,mon wo akete!」


 セリカが呪文のような言葉を唱えたかと思うと、閉まっていた門が開いた。


「今だ! 走れ!」


 勢いよく馬車は走り出し、宝物庫はどんどん遠ざかる。


「ディアナ、私たちの味方が全員脱出したら教えて」


「味方って……」


 ディアナの召使いたちが乗っている馬車があと一台、まだ門の内側にいる。

 ならず者と教会側の戦いは、まだ続いていた。


「ディアナ、自分の馬車が全部脱出したらでいい。ここにいる連中に払うべきものは、もう払っている」


「でも……」


「ここで無事に逃げ切れば、世界が変わるんだぞ!」


 レミーの声。ディアナはこぶしを握り締めた。

 最後の馬車が門を通る。

 その後ろで、逃げるならず者が自分を追い詰める聖職者たちから逃げようとしていた。


「……ごめんね。全員、脱出したよ」


「Onegai,urieru,mon wo simete !」


 セリカの指示に、門が閉まる。

 門の隙間から、ならず者が聖職者に捕まったのがディアナにはみえた。


「正しかったんだろうか、私」


「……そもそもディアナの髪を切って皇太子にしたこの世界自体が正しいとは思えないわよ」


「それも、そっか」


 ディアナはやっとこぶしを開いた。

 世界を変えるんだ。私は。

 だから。

 ディアナの頭から、ディアナの指示で門が閉められたせいで逃げられなかったならず者の姿が離れない。

 知り合いでもないし、教会にやとわれたならディアナを襲っていただろう人間だ。

 それでも、ディアナは彼を見捨てたことが正しいとは思えなかった。

 何度でも、こんなことをすることになるんだろう。

 私がそうしたいってだけで。

 セリカに教えてもらったからではなくて。

 手のひらには、真っ赤に爪の食い込んだ跡がついていた。


 ノーデンから脱出し、王城について一日休憩を取った後、ディアナは養蚕仲間にセリカを紹介した。


「ちっちゃい! かわいい!」


「さすが……ミルキー姉……妹認定したらすぐ……かわいがる」


「ちっちゃくないもん! 155cmあるもん! あなたより年上だし!!」


 ミルキーやヒルダ、他の女性たちともと純粋にじゃれあうセリカを見て、ディアナは心の底から笑顔になれた。


「セリカ」


「なーに?」


「お帰り」


「……ただいま!」


 その頃には、活版印刷によって皇太子が絹づくりをしているということは世間に

広まっていた。

 裏社会で教会が出ところではない絹が流通したり、教会に多額の寄付をして絹を手に入れた貴族が、奥方が買ったちょっと高級なハンカチが絹だと気づいて大騒ぎするなどして、皇太子が絹を作っていることは裏付けはなくても常識になっていた。

 そして、ディアナのもとに国王アルスから一通の召喚状が届いた。

 そこには、皇太子と、皇太子に養蚕技術を教えた者は国王の前に参上し、どのように絹を作ったのか説明せよ、と書いてあった。

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