15相合い傘と名前呼び
その日の夜、私はほとんど眠れなかった。
環との会話を、抱きしめられたときの感触を思い返し。クッションを抱きかかえたまま、ぐるぐると、まとまらない思考を繰り返す。
環の言ったことの意味が分からないほど鈍感ではないし、分からないふりをしてやり過ごせるほど要領のいい人間ではない。何より、振り絞るようにして誠実な気持ちを伝えてくれた環に、そんなひどいことはできなかった。
だから私は。結論を、出さないといけない。
環のことは、好きだ。
だけど。そういう『好き』として考えたことは、一度もない。
そもそも久しく、私は恋愛感情というものを捨てて生きてきたのだ。
考えないように、過ごしてきたのだ。
これからも変わらず一緒に環と過ごしたいのなら。私は、環を選ぶべきなんだろう。
私がまだ恋愛をする気にはなれない、と言えば。きっと環は受け入れて、ゆっくり私のことを見守ってくれる。そして今まで通り、隣にいてくれるはずだ。
それはとてもずるい答えだった。だけど、紛れもない私の本音だ。環を選ぶとしても、現状、私はそう答えざるを得ないだろう。
私が自分に嘘をつくことだって、環は望んでいないだろうし。
たぶん環だって、それには気付いている。
けど、環を選ぶことは。
同時に、若林くんたちと、きっぱり
そればかりは、環は受け入れはしないだろうし。環が自分で納得するならともかく、私のわがままで曲げさせていいようなものではない。
彼らのことを、化物、と評したことは、嫌だったけれど。
環の立場からしたら、簡単に割り切れるものではないだろうことは、理解できる。
環の言うとおり。環と比べたら、まだ二人との付き合いは浅い。毎週サークルと血の提供とで顔をつき合わせてはいるが、言ってしまえば、それだけだ。
だけどもう、私は彼らの事情を知ってしまった。
彼らと出会ってしまった。
無関係じゃ、ない。
なにより。私が環を選ぶということは。
二人にとって、私が彼らを『化物』と見なした、ということを意味するのではないかと感じてしまって。
それが私には、とても恐ろしかった。
もし環を選べば。
奥村くんがどう出るのかは……検討がつかないけれども。
若林くんはきっと私を責めることは一切なく、静かに去っていくだろう。
ごめん、と申し訳なさそうな微笑を残して。
でも。
その想像の中の彼が、とてつもなく傷ついて哀しんでいるように思えて。
勝手な自分の想像なのに、私は無性に苦しくなった。
環のことは大切だ。
だけどそうすると、若林くんと、奥村くんとは。
もう、今までのように、話をすることはできない。
そう思うと、たまらない気持ちになり、じわりと涙が滲んだ。
だけどきっと、泣きたいのは、環の方だ。
私は、答えなくちゃいけない。
選ばなければ、いけない。
でも。
……選ばないと、いけないんだろうか。
ぐるぐる、ぐるぐると、似たような思考を繰り返す。
いつまでたっても、堂々巡りだった。
そうして、悶々と悩んだり、まどろんだりを繰り返すうち、気がついたら朝になっていた。
本日は木曜日。サークルの日だ。
だけど私は、答えの糸口すら見つけられずにいた。まだ三人の誰とも、合わせる顔がない。
正直、大学ごとサボろうかとも思ったけれど、折り悪く今日はサークルで私の班の発表日だった。休むわけにはいかない。仕方なしに、私は重い体を引きずるようにして大学に行った。
とはいえ。結果としてはむしろ、家にいるより相当ましだったといえる。
この日は結局、ずっとサークルの発表準備に追われていたからだ。やるべきことがたくさんあるのは、気が紛れて都合が良かった。
それに、三人と話をする機会も、この日は訪れなかったのだ。
いつも環と過ごしているサークル前の時間は、先輩たちとレジュメの印刷をしていたので、環とは会わず。
そして若林くんは、風邪を理由にサークルを休んでいた。あれから体調が悪化してしまったらしい。
同じ班の奥村くんとは当然、顔を合わせたけれども、お互いに発表だ。事務的な会話は多々交わしたが、込み入った話をする暇はなかった。
無事に発表が終わった後も、打ち上げと称して班員みんなで夕食に行ったので、二人で話をする時間は皆無だったのだ。
そのまま何事もなく帰宅し、その日の夜はもはや何も考えることができず、泥のように眠った。
そして、翌日の金曜日。
この日も私はまだ結論が出せないままに、独りぼっちに惰性で一日を過ごしていたが。
最後の授業が終わって講義室の外に出ると、そこには奥村くんがいた。
ぎくりとして、私は一瞬、立ち止まる。しかしすぐに、何食わぬ顔で私はまた歩き出した。
まだ目は合っていない。人混みに紛れて、逃げよう。
彼の姿に気付いていないふりをして、私はうつむき加減に通り過ぎようとしたが。
「シロ。ステイ」
すれ違いざまに呟かれたその号令で、私の足は、ぴたりと止まった。
なんで止まるんだよ私の足!?
自分の行動に愕然としているうちに、肩にはぽんと手が乗せられる。
「望月さん、ちょっといいかな?」
白香は 逃げられない!
******
促されるままに大学を出て、駅までの短い道を歩く。
しばらく私は奥村くんの後ろを着いて、無言のまま歩き続けていたが。やがて沈黙に耐えかねて、尋ねる。
「どこ行くの?」
「紅太の家だよ」
彼の返答に、意外に思って私は瞬きする。
てっきりその辺のファミレスなりなんなりに行って、話をする流れかと思っていたのだ。
「お見舞い?」
「それだけなら、わざわざシロに紅太の家を教える真似なんかしないよ。
忘れてるかもしれないけど、今日は満月だ」
言われて、ようやく私はその事実を思いだした。
同時に、すっと背筋が寒くなる。
そういえば先日、私たちは満月の日にはどうしようか、という話もきちんとしていた。いつもの水曜日だけでなく、当日の金曜日にも血を提供しようかと私は申し出たが、その時は若林くんに断られた。週に二回ももらうのは申し訳ないし、水曜日に飲めばそれで問題ないだろうと言われたからだ。
だというのに。若林くんは一昨日すら、結局、私の血を飲んでいない。
「それってやばいんじゃないの!?」
「だからお前を連れてきたんだろ。馬鹿?」
呆れ顔で振り返り、奥村くんは立ち止まる。
「俺の血は飲ませた。けどまあ足りないだろうな。だから家から一歩も出るなって言ってある。そもそも風邪を引いてるから出られる状況じゃないけどね」
「風邪もひどいの?」
「三八度だ」
「ひえええええええええ!」
心の声が思わず口をついて出た。
さんじゅうはちど!?
結構な高熱ですけど!?
「薬は!? 病院には行ったの!?」
「行けるとでも思うの? あそここそ血を連想させるものばっかりだ。騒ぎになるのは目に見えてる」
「だけど昨日ならまだ」
「あのな。確かにピークは満月だけど、ピンポイントでその日だけ避ければいいってわけじゃないんだよ。満月の前後だって調子は崩す。そんなに都合良くできちゃいないんだ」
いつもの穏やかな口調ではなく、苛立ち混じりで奥村くんは言った。
申し訳なさに、私は小さくなる。
「ごめん。自分のことで、いっぱいいっぱいだった」
「仕方ない。シロのせいじゃない。一昨日はどのみち血をやるのは無理だったし、俺も油断してたからね。もっと早く気付くべきだった」
前髪をかきあげて、奥村くんは浮かない顔つきになった。
「俺たち末裔は、異質な存在だ。俺たちのことを面白く思わない奴らは、一定数いる。そういう俺たちにとって危険性の高い人物のことは、身内でリストアップされているんだ。
そのリストに、桜間環の名前があった。だけど俺たちに直接、危険が及ぶ相手じゃなかったから、頭から抜けてたんだ。もっと注意を払っておくべきだった」
何気なく告げられた内容に、少なからず動揺する。
奥村くんたちから、吸血鬼の末裔の立場について語られたのは初めてだった。
一度も想像しなかったわけじゃない。だけど私は、今まで考えないふりをしていた。
いくら、外見は人間とほとんど変わらないとはいっても。
人は、『普通』にまつろわないものに、ひどく厳しい。
彼らにとって。ここは、優しい世界じゃない。
「桜間からは。なんて言われた?」
奥村くんの静かな問いかけに、環の口走った『化物』という言い草が蘇った。
慌てて私は、その単語を思考の奥に押し込める。
「環には。もう、二人には関わるなって、言われた」
「そんなところだろうな」
驚くでもなく、奥村くんはその事実を受け入れる。
「きっと桜間から。眷属のことを聞いたんだろ」
無言で私は頷いた。
その話しぶりだと、奥村くんも環の事情をある程度、承知しているのだろう。
環のことはリストアップされているという話だった。きっと名前以外の情報も同時に共有されているはずだ。
だけど環の根幹に関わる事柄が、彼らの間で広く知られているというのは。
どうにも、複雑な気分だった。
「弁解しておくけど。普通の末裔は、決してそんなことはしない。人間から血をもらう際にはあくまで合意が基本。強制力を伴う眷属にすることは禁じられている。ま、そもそも眷属を作る能力のある奴がまず少ないんだけどさ。
桜間の敵は、俺たちの中でも犯罪者だ。だけど」
ぽたり、と奥村くんの頬に雫が落ちた。
厚い雲に覆われた灰色の空から、雨が落ちてくる。少し遅れて私の頬にも、はたりと雨粒が伝った。
「それでも俺たちは、普通の人間にとっては化物だ」
頬をつたった雨が、レンガの敷かれた地面に落ち、黒い点を作る。それに追従するように、ぱたぱたと音を立てて黒いシミは増え、雨はすぐ本降りになった。
黙って奥村くんは、手にしていた黒い傘を広げる。私の腕を引き寄せて一緒に傘の中に入れると、彼は再び駅に向け歩き出した。
「シロ。お前は、紅太が命を狙われていると聞いたら、どうする」
抑えた声で告げられた、あまりに非日常な仮定に、私は目を見開いた。
「どうして。なんで若林くんが」
「命、というと大げさかもしれない。この現代社会だ。そこまで派手なことはそう奴らもしないはずだ。
だけど、お前と違って。あいつが健やかに生きていることを、快く思わない奴らがいるんだよ」
傘で周りとの視界を少し遮断しながら。
私にしか聞こえないよう、やはり抑えた声で奥村くんは聞く。
「なあシロ。お前は水曜日の一件まで、桜間に俺たちとの関係性は話してなかっただろ」
「話してないよ。若林くんのことは環も知ってたから、前にサークルでの当たり障りない話はしたことはあったけど。奥村くんのことは、名前も出してなかったと思う」
その返事に、奥村くんは頷く。
「だろうな。お前は話さない。
けど桜間にお前の動きを感づかれた、って線も薄いはずだ。俺たちと会ってるのは水曜日のあの時間とサークルの時だけ。水曜は桜間は授業中な上、人目につかないサークル部屋でやってたし、サークルでの絡みはそれこそ怪しまれる理由がない」
数十メートル先の信号機が、激しく点滅する。
やがて交差点の信号が赤に変わったのを見ると、人の往来が多い横断歩道の少し手前で、奥村くんは足を止めた。
「じゃあ。どうして桜間はあの時、サークル部屋で張ってたんだ?」
はっとして、私は奥村くんを見上げた。
彼もまた固い表情で私を見下ろす。
「誰かが。桜間に、俺たちのことを吹き込んだんだ。俺らが吸血鬼の末裔であることと、俺たちにお前が血を提供していることの二つをね。
そもそも考えてみろ。サークル部屋には、サークル員しか入れない」
ぞわりと、鳥肌が立った。
そうだ。言われてみれば、そうなのだ。
通常、サークル部屋は施錠されている。
サークル部屋に入るには、ドアに設置されたカードリーダーへサークル員の学生証を通す必要がある。図書館のゲートと同じ仕組みだ。サークルに加入した旨を学生部に申請することで、学生証がサークル部屋の鍵代わりになるのだ。
だからサークル部屋には、国際法研究会に所属した学生しか入室することができない。
つまり環は、サークル員の誰かから手引きされないと、部屋に入ることはできないのだ。
「薄々そんな予感はしていたが、これで確定した。
サークル内に、紅太の敵がいる」
ぎり、と奥村くんは私の腕を掴む力を強めた。
彼は一見、ただ無表情なだけだった。だけど今までの彼を見てきて察するに。多分、内心で渦巻く感情を必死に押し殺しているのだろうことは想像できた。
「奥村くん。どうして話してくれたの?」
ふと、不思議に思って尋ねた。
今まで肝心なことは、聞いても何一つ教えてくれなかった。本当に私は、ただ血を与えるだけの立ち位置だったのだ。
「俺はね。最初にお前のことを、直接の加害者かと思って警戒したんだ」
奥村くんは、ようやく気が付いたように私の腕から手を離す。
「その疑いが晴れてからも、シロが本人も自覚していないところで、奴らの手駒として使われている可能性があったから、ずっとグレーと見なしていたんだよ。
けど今回の件ではっきりした。あいつらの狙いは、むしろお前を紅太から遠ざけることだ。その為に桜間をけしかけたんだろう。
お前は白が確定した。だから話した。それに多分、今後はお前も無関係じゃいられない」
信号が青に変わる。
人の流れに沿って、私たちも歩き始めた。
「お前がこれからどうするかは、お前が決めることだ。
だけど敵の狙いが、お前を紅太から引き離すことだと分かった以上。俺個人としては、こっちに残って欲しいと思っている」
歩きながら、少し身を屈めるようにして私の耳元に口を寄せると。
奥村くんは今までよりも一層、小さな声で告げる。
「気をつけろ。多分、お前が残ろうと離れようと。どちらにせよ、相手が接触してくる可能性は高い」
「残ろうと離れようと?」
残った時に、相手が近付いてきそうなことは分かる。
だけど、離れたとしても、とは。
心なしか不快そうに目を細めて。
奥村くんは、やはり小声で答える。
「相手はね、狡猾な奴らなんだ。残った場合は言わずもがな。離れた場合も、きっと巧みな口車で惑わして、今度こそ手駒としてお前を使うよ。いくらシロが用心していたとしてもね。
だから。もしお前が俺たちから離れたら、俺はもう二度とお前とは接触しない。紅太とも接触させない。そこは、分かって欲しい」
そこまで話すと、奥村くんは傘を畳んだ。駅に着いたのだ。
私は左右に目を配らせて、誰も私たちに注目していないことを確認してから、たまらず尋ねる。
「奥村くん。それは、どんな相手なの」
「もしお前が残るなら、いずれ話すよ。離れるなら、何も知らないほうがいい」
そこまで神妙な口調で言ってから。
にわかに奥村くんは、私のおでこに人差し指を押し当てる。
「ところで。ずっと思ってたけど、呼び方」
「え」
「名前で呼ぶようにって、言っただろ」
合宿でのやり取りを思い出して、私は苦笑いした。
「さすがに人前で、様付けは」
「誰が様付けで呼べなんて言ったの? 俺は、名前で呼んでって言ったんだよ」
「名前?」
「リピートアフターミー。緋人くん」
「緋人くん」
「よしよし。よくできました」
満足気に私を撫でてから、奥村くんは改札を通り抜ける。
突然のことに混乱したまま、私も急いでPASMOをタッチし、小走りで彼に追いついた。
「だけど、なんでまた名前で?」
「距離を縮めるには、手っ取り早くて簡単な方法だからね」
奥村くんは爽やかに笑って、ふに、と軽く私の頬をつねった。
「ちゃあんとシロが俺の言うことを聞いてくれるように。こういう細かいところから洗脳していかないとね」
また怖いこと言ってる人がいるうー!
「言っただろ。俺はお前に残って欲しいんだ。対抗馬も出て来ちゃったし、早いところシロを手玉に取っておかないとね」
「対抗馬?」
「桜間だよ。お前のしょぼくれた様子だと、眷属の話を聞いただけって訳じゃないだろ。もののついでに告白でもされたんじゃないの?」
「……何故、それを」
本当に。この人エスパーなのかな?
「見ていればなんとなく察しはつくよ。
まあ。それでお前が桜間を選ぶなら、俺にはどうしようもできないけどね。人の恋愛に口出しするほどは野暮じゃない」
その発言に、私は拍子抜けする。奥村くんなら、手段を選ばずに何が何でも私を引き入れる、とでも言うような気がしていたのだ。
だけど。彼もまた、道ならぬ恋に身をやつしているからこそ、こちらの方面に関しては寛容なのかもしれない。
世間的には、表向きにすることのできない思い……。
道ならぬ……恋……。
そしてもちろん、例によって私の表情でいろいろ察したようで。
奥村くんは、にっこりと微笑むと。
無言で私の脳天にチョップを叩き込んだ。
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