08細マッチョ(驚愕)

 宙に投げ出された私に、なすすべはない。

 激しい衝撃が襲ってくるのを覚悟し、私は反射的に目を閉じた。


 しかし、直後にやってきたのは。

 冷たい床に叩きつけられる固い感触ではなく、鈍く温かい衝撃だった。


「何してんだよ、緋人あけひと!」


 耳元で、怒気の込もった聞き覚えのある声がする。

 目を開けると、視界に入ってきたのは、白いシャツと紺のだぼっとしたカーディガン。若林くんが、今日着ていた服だ。

 はっと目線を上げると、やはりそこには彼がいた。


 どうやら落下した私は、床に激突する寸前で、若林くんに受け止めてもらったようだった。私を抱きとめた後、その勢いで尻もちをつき、床に座り込んでいる。



 ……神か?

 シチュエーションといい、タイミングといい、神なのか?


 いや。神というより、天使?

 大天使コータ?

 降臨されたの???



「どうして紅太がここにいるのさ」


 呆然としたまま馬鹿なことを考えていた私の思考を、否応なしに現実に引き戻したのは、上の方から降ってきた冷たい声だった。

 悠々とエスカレーターから降り、私たちの前に立ちはだかったのは、奥村くんだ。

 けれど。私の知っている、優しく柔和な笑顔の彼ではなかった。


 その表情は真顔を通り越し、ひどく冷ややかだ。

 記憶の中にある奥村緋人の像と、にわかに結びつかない。

 まるで別人のようだった。



 私は、もしかして。

 ……奥村くんに、突き落とされたの?



 その考えに至って、遅ればせながら鳥肌が立ち、どっと冷や汗が吹き出る。

 若林くんが助けてくれたから、無事に済んだ。けれども、もし彼がここに居合わせていなかったら。私は今頃、意識がなかったかもしれない。


 若林くんは私を床におろした後で立ち上がり、奥村くんに向き直る。


「嫌な予感がしたからな」

「へえ。随分と新しいエサにご執心なんだね」

「お前が何をしでかすか分からないからだろ」


 私は剣呑な二人の表情を交互に見つめてから。

 まだ事態が飲み込めず、間の抜けた声でおずおずと尋ねる。


「ええと。……奥村、くん?」

「望月さん。サークルで見てるあいつだと思わないほうがいいよ」


 代わりに答えた若林くんは、奥村くんを油断なく睨めつけたまま言う。


「緋人の本性は、相当えげつない」

「ひどいな。はただ、この女の本性を暴こうとしただけなのに」


 俺?


 ……ええと。

 今、『俺』って言いました?


「あんな場所から蹴り飛ばすだなんて、何考えてんだよ。怪我どころじゃすまなかったかもしれないんだぞ」

「紅太こそ、何を考えてるの? 俺以外から、しかもどこの誰かも知れない奴から血をもらうだなんて。

 俺の見ていないところで、勝手なことをする紅太が悪いんだよ」


 俺ですね、俺って言いましたね。

 ええと、はい。

 奥村くん???


 何? 僕と俺の発露が、若林くんとは逆パターンな感じ?

 中身は『俺』で、外では『僕』で猫被ってるパターン?

 なにそれ!?

 初めてお目にかかった!


 だけど、なんだ。

 うん、そうだな。


 これは……これで……。



 アリだな……。



「……気付いてたのか」

「俺が紅太の変化に気付かないわけないだろ。

 まさか、こんな身近なところに犯人がいるとは思わなかったけど。おかげで一から近付く手間が省けたからよかったけどね」


 奥村くんは、まだ床に座り込んだままの私を見据える。



「それで望月さん。どういう了見なの?

 何の企みがあって紅太に近付いた?」



 性癖の健やかな体調と社会的立場を守るためです。



 とか言えるノリじゃない!

 口調こそ穏やかだけど、目がめっちゃ怖い!!!

 変なことを口走ったら何される分からないやーつ!!!!!


「彼女にバレたのは、僕のミスだ。望月さんは、ただその場に居合わせただけだよ。応急処置で血を貰っただけだ」


 答えに窮した私の代わりに、若林くんがそう答えてくれた。けれど奥村くんは、すっと目を細めて、若林くんに一歩、近寄る。

 二人の間には、十五センチほどの距離しかない。その至近距離で、奥村くんは若林くんの顔をまじまじと見つめる。


「だけど、今日も飲んだだろ。顔に出てる」

「……確かに、今日も俺は望月さんから血をもらった。これからも血を提供してくれるって約束してくれてる。

 だけどお前が懸念してるようなことは何もない。変な勘ぐりをして手を出すな」

「そうは言っても、無理な話だよね」


 奥村くんは。ほとんど顔がくっつきそうな距離まで近付き、若林くんの耳元で囁く。


「俺という主食がいながら、そんな得体の知れない女の血を吸うなんて。味をしめちゃった?」

「緋人」

「そりゃ、人の血は美味いもんね。俺じゃ満足できないのも無理はない。そうやってたぶらかされたんだ」


 くすくすと微笑混じりにそう話す奥村くんは、なんだか無性に色気があった。



 待って。

 待って待って待って。


 これは、BでLなサムシングなの?

 私は、何を見せられているの?

 というか、私が見ていいものなの?


 どうしよう。

 私、壁とか床に同化する術とか使えない……。

 すげえ邪魔者だ……。

 溶けたい……。



 とは思いつつ、目はそらせないままガッツリ二人を観察していると。

 その目線に気付いたのか、それとも潮時だと思ったのか。奥村くんは半歩、身を引いた。


「話は後でゆっくり聞かせてもらうよ。

 それじゃあ望月さんも、また」


 今度は、私もよく知るいつもの笑顔を浮かべて、奥村くんは何事もなかったかのように図書館の方へと去っていった。

 彼の姿が見えなくなったところで、若林くんは緊張の糸が解けたように深く息を吐き出した。呼吸を整え、彼は私に向き直って、向かい合うような形で座り込む。


「望月さん、大丈夫だった?」

「うん、私は大丈夫。ありがとう若林く」


 言いながら、私は先ほど彼に受け止めてもらったことを思い出し。

 ひえっと声を上げて、青褪める。


「若林くん、大丈夫!? 私なんか受け止めて、どっか折れてない!?」


 ただでさえ、そんな華奢なお体だというのに!

 決してモデル体型とは言い難い中肉中背の女を! しかも結構な高さから落下して、重力加速度でだいぶ勢いづいた私なんかをキャッチして!!

 私はなんてことをさせてしまったんだ!!!

 どうしよう、これが原因で怪我でもさせてたら、責任とって切腹するしかない……!


「あのさ。俺をなんだと思ってるのか知らないけど」


 呆れたようすで、彼は自分の腹部に手を当ててみせる。



「見た目、細っちく映るかもしれないけど。それなりに筋肉はあるつもりなんだけど」



 えっ。

 筋肉?


「高校までは運動してたし、今も筋トレくらいはしてるから」


 細マッチョ!

 細マッチョ!?


 儚げ美青年でいて細マッチョっておま、なんていう贅沢仕様なの!?

 本当に君はどんだけ盛れば気が済むの!?!?!?


 とはいえ、見た目は本当に風が吹けば折れそうな体躯だ。

 細い身体を覆った布地の下に、たくましい筋肉が隠れているとは、すぐさま信じられず。じっと私は、彼の身体を凝視する。

 それが疑いの眼差しにでも見えたのか。


「触る?」


 と尋ね。

 しかし聞いておきながら返事は待たず、私の手を掴んで、そのまま自分の腹筋に運んだ。



 うわー!

 筋肉だーーー!!

 かたーい!!!


 過多ーーー属性過多ーーーーー!!!!!



「そういう無防備なの、よくないと思う……」

「いや筋肉あるのは無防備じゃないだろ」

「そういうことではなく……」



 本当、良くないよ。

 そんなことすると、こういう変態に鼻血を出されてしまうよ。

 いずれ、我慢たまらず鼻血を出してしまいそうな気がするので、今のうちから自分の意思で鼻血を止められるように修行した方がいいかもしれない。




 細マッチョショックが落ち着いたところで、ようやく私は立ち上がろうとした。だが、まだ足に力が入らず、そのまま床にへたりこむ。

 仕方なしに座ったまま、私は奥村くんの消えていった方角をぼんやり眺める。


「奥村くんは……」


 もはや同一人物とは思えなかった、奥村くんの豹変ぶりと。

 そして、若林くんとのやり取りが蘇る。


「奥村くんは、彼氏?」

「何言ってるの? 頭打った?」


 混乱しすぎて聞くべきことを盛大に間違えた。

 ごめん頭は打ってません、おかしいのはいつものことです。


 そろそろ私の変な言動に慣れたのか、深くは突っ込まずに、若林くんは話を進める。


「ごめん。あいつのことは最初に話しておくべきだった。けど、こんなに早く動くなんて思わなくて」

「血のことを言ってたけど。もしかして」

「うん。緋人は、俺と同じ吸血鬼の末裔だよ」


 予想通りの返答がきて、私は口を引きつらせる。薄々そんな気はしていたけど、それでも動揺がはしった。

 末裔って、そんなにホイホイいるもんなの。なんでサークル内に二人もいるの。

 私が知らないだけでメジャーな存在なの? ホットワードなの?


「俺たちは安定して血を得るために、できるだけ末裔同士で助け合って生きてるんだよ。

 大学生になってから、俺の被血者は緋人だ。反対に、俺も緋人に血をやってる」


 なるほど。そういうことか。

 彼らは事情のある存在だからこそ、同じコミュニティに所属しているのだ。すぐ近くにいた方が、いざという時にも都合がいい。


「だけど。緋人だけじゃ、足りなかった。前にも言ったけど、同族だと人間より効果は薄い。四月の満月では一旦、実家に帰ったんだけど。先週はその暇もなくて、あのザマだ。

 本当は、誰か他にも被血者を探そうって話をしてたんだ。だけど、あいつは他の被血者を引き入れることに否定的だったから、そのままになってて。

 だから正直、望月さんが提供してくれるって言ってくれて、物凄く助かったんだよ」


 顔を曇らせて、若林くんは奥村くんの立ち去った方角を睨んだ。


「あいつには後で事情を説明しておく。望月さんには危害を加えないように説得するから。本当にごめん」

「ううん、若林くんのせいじゃないでしょ」

「いや。俺のミスだよ。段階を追って話そうと思ってたんだけど、緋人が早すぎた」


 一瞬、若林くんは言葉を切り。

 まるで独り言のような、聞き取りづらい小声で呟く。


「もしかしたら。今日で断られるかもしれないと思ってたから」


 私は、はっとして若林くんを見つめた。

 だが彼は視線を遠くにやったまま、すかさず話題を変える。


「どうする。こんなことがあった後だし、夕飯は食べないで帰る?」

「いや。むしろ今日は何が何でも行かないと、余計に目立っちゃうかなって」

「それもそうか」


 先週、私たちは食事会をドタキャンしている。一回だけならそれで済むだろうが、連続ともなると、誰かに何か勘ぐられては厄介だ。

 二週連続、直前でキャンセルじゃあ、先輩たちに申し訳なさすぎるし。


「まあ、いくらなんでも、他の人がいる前で緋人も手は出してこないだろ」


 自分でそう言って納得し、若林くんは立ち上がった。私も気の抜けた足を叱咤し、今度はどうにか立ち上がる。




 店に行く時間を少しずらしつつ、私たちは他のサークル員と合流した。皆と雑談しながら、私は奥村くんが来るかどうか、ずっとそわそわしていたのだけれど。


 幸か不幸か、彼はこの日、ついぞ夕食には現れなかった。

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