死神の足跡

井澤文明

第一話 失われた都と青い恐怖


 街は腐敗していた。


 すべては大英帝国がもたらした機械のせいだと、人々は酒を飲みながら異口同音に不満を垂れ流した。

 街は貧しく見窄らしい人で溢れていた。

 労働者たちの獣のような体臭、糞尿と吐瀉物の匂いは貧民街だけでなく、繁華街までに充満し、更に港の魚独特の生臭い香りが風に乗ってやってくる。そして工場や家々から吐き出される石炭の煙で帝都は覆われている。

 かつて『黄金の都』と謳われていた美しいエルコム帝国の帝都の輝かしい姿は、綺麗さっぱり消え去っている。過去の栄光が失われた帝都の道では、病める者が横たわり、また人知れず息を引き取った死体が路地のそこかしこで見られた。

 そんな荒れ果てた道を、カソックに身を包んだ一人の若い男が、大きな革の鞄を大事そうに抱えながら、足早に歩いていた。

 辺りに立ち込める海から香る磯の匂い、そして道に撒かれた人の糞尿や吐瀉物の臭いが立ち込め、匂いに酔った男は夏の日照りによる汗と共に、額から冷や汗をかいた。


 そして古びた病院の前で立ち止まる。


 病院の入り口には掲示板が掲げられており、そこには前日に病院で亡くなった人々の生涯に関する紙が貼られていた。男は掲示板に貼られていた紙を一枚一枚、丁寧に剥がし、それを鞄の中にしまった。そして鞄の中に入っていた新たな紙を何枚も貼り出していく。

 一枚の紙ごとに、死者の生涯が語られている。近頃の死者のほとんどが流行り病に罹り、亡くなっている。

 恐ろしい流行り病は患者に激しい腹痛と下痢、嘔吐という苦しみを与え、顔を青白く変色させ、生きた屍のような姿にしてしまう。今でも、病院の奥から患者たちの呻き声が響いていた。


 一昨日は三十人、死んだ。昨日は三十五。今日は何人、死ぬだろうか。


 男はシワのない顔を歪め、掲示板の紙を睨みつけた。この掲示板に入りきらないほど人が死んでしまう日も、そう遠くない。


「キラール神父、まだそんな無意味なことをしているのか」


 隣からかけられた声に驚いて男が横を向くと、そこには鋭い目付きをした小汚い初老の男が一人、立っていた。神父は老人の姿を見て、にこやかに微笑んだ。


「こんにちは、シリウス先生。休憩ですか?」


 老医師は神父に病院へ入るよう促し、


「お前さんを待っていたんだ」


 と短く答えた。

 神父は目を見開き、鞄を抱える手を強めた。


「何かあったのですか?」

「客人だ」

「客人? 私に?」


 老医師は頷き、病人で溢れた廊下に一つだけ置かれた中古のソファーに腰掛ける若い男女を指差した。神父は老医師から指差された先にいる客人を見て、女性の美しさに息を飲んだ。

 

 地上に舞い降りた、天使のようだった。


 白い柔い肌にほんのり赤みを帯びた頬と唇。女性の理想だとされる、金色のうねった長い髪を緑色の布製の髪飾りで留め、青い双眼は宝石のようだった。

 華奢な体を包む緑色の、羊の足のような形状をした大きな袖が特徴的なドレスは、普段では絶対に会うことのない富裕層が着るようなデザインをしていた。

 病院にいた目の見える者たちは皆、彼女の姿に見惚れていた。


 対して、彼女の横には若い男が静かに座っている。

 キラール神父とさほど変わらない二十代後半ほどの男で、服装こそ西洋人のものであったが、顔つきを東洋人のようだった。黒い髪に黒い瞳。黒い服とも相まって、まるで死神のようだった。

 だが所々、ゲルマン民族とも見える、色白な肌などの特徴があり、遠巻きに見ていた者は、彼はいわゆる『混血児』なのだろうと推測した。


 ソファーに座っていた二人はほぼ同時に立ち上がり、英語訛りのエルコム語で軽く挨拶をし、握手を求めた。


「イギリスから来た、医師のモーガン・デューイと申します」


 男がシリウス医師と握手をしながら名乗った。老医師は何も言わずに頷き、横に立つ女性を見やった。彼女は朗らかに笑みを浮かべ、


「妻のアグネスです」


 とだけ名乗った。


「儂はシリウスだ。姓は長ったらしいんで、呼び捨てで構わない。この神父は儂のことを『先生』と呼ぶがね」


 老医師はそう言うと、横に立っていた神父を指さした。神父はぎこちなくイギリス人夫婦の握手をし、自己紹介をした。


「帝都の東部地区を任されている、ヘンリーク・キラール神父です」


 神父の自己紹介に疑問を感じたのか、女───アグネスが右手を上げ、問いかけた。


「この国では、国が病院の管理を? それとも、個人が経営されてるのですか?」


 アグネスの疑問は当然のことであり、イギリスはエルコムとは違い、チャールズ一世により病院は個人が持ち、富裕層や貴族が寄付をする体制を主としていた。

 そのことを知っていた神父は、にこやかに微笑み答える。


「教会です。エルコムはブリテンとは違って、カソリック教会が福祉をするという制度がまだ生きています」


 二人は納得したように頷き、真剣な面持ちで静かに見つめ合った。そんな二人の様子を見て、老医師は大きく咳払いをし、話を戻した。


「それで、お二人は一体なんの御用でこちらに? こんなオンボロ病院に見学へ来た訳ではないのでしょう?」


 自分が来た用件を思い出した風に、モーガン医師は真っ直ぐ神父と老医師に向かい合って言い放った。


「僕は、この国で流行している疫病───コレラを治すために来ました」

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