(3)一か八か
落ちる!
体が空中を飛んでいるのを感じる。
今、私に見えているのは、秋の日差しが翳り始めたくすんだ青い空と、手の先にある冷たい風ばかりだ。
「アンジィ!」
名前を呼んだレオスが、手の先で目を開いているのが見える。そして、咄嗟に私の方向に馬首を返している姿も。
だけど間に合わない。今、私の体があるのは既に虚空だ。
このまま投げ出されれば、私の体は、間違いなく斜面を崖の下まで落ちていくだろう。いや、辿り着くのは、奈落かもしれない。
――それは嫌だ!
まだマリエルを助けていない!
騎士として、守ると決めた主君を助けることもできないまま死んでいくなんて、こんな屈辱的なことがあるか!?
だから、私はがむしゃらに手を伸ばした。
だけど、届かない。
「くそっ!」
僅かだが伸ばした手は崖に遠い。
「アンジィ!」
必死に叫ぶレオスの声が聞こえる。
焦りながら私の方へ近づこうとしている藍色の瞳は、今までに見た中で一番切羽詰まっている。追いすがる敵と戦いながら、私を見つめてくるレオスの心臓を掴むほど苦しげな眼差しに、咄嗟に剣を振り上げていた。
くそっ! 頼むから、これで届いてくれよ!?
でないと、あいつを殴るより先に死んで、死体検めで女と知られるという最大級の屈辱が待っているからな?
脳裏で暗い部屋に横たえられた私の体を取り囲み、騎士隊のみんなが沈鬱な表情をしている光景を想像する。中央にあるのは、私の亡骸だ。
みんなが私の死に顔を見ながら、口々に呟く。
「まさか、女だったなんて……」
「かわいそうに。埋葬用の服に着替えさせる為に、裸に剥くまで気づかれなかったとは……」
「二度と誤解されないように、せめて、墓には、きちんと女だと彫ってやろうぜ」
「ああ、墓碑銘は『男にしか見えない女のアンジィここに眠る』だな……」
――それは、嫌だ!
何が悲しゅうて、死んだ瞬間屈辱まっしぐらにならねばならん。しかも、レオスが私の死よりも、女だったことにショックを受けそうなのが更に嫌だ!
思い切り振り上げたお蔭で、ざくっと音をたてて、剣は崖の縁に刺さった。
よし!
剣が届いてくれたから、なんとか地獄までまっしぐらコースは回避することができた。
後は、なんとか、もう片手も使ってよじ登ることができれば――と、私は必死に道端に生えている草に空いている左手を伸ばす。
少し遠い。
けれど、死に物狂いで伸ばした指先が、崖から伸びていた草にどうにか届く。半分枯れかけて緑に茶色が混ざっているが、今掴んでいる草が、間違いなく私の命綱だ。
だから、かさかさという葉を掴み、細い茎を束にして懸命に握った。
両手が崖にかかったことで、私の体は辛うじて死の淵に落ちずにすんだ。思わずほっとため息が出てしまう。
けれど、息をつく暇はなかった。
崖にぶら下がる私の上を黒い影が覆うと、見上げた先で、オーレリアンが私に銀色の刃を振り上げようとしているではないか。
まずい! この姿勢では逃げ場がない!
ぎらりとオーレリアンの銀色の刃が、私の上に振り上げられる。
「死になさい。貴方がたの姫君も間もなく同じところに送って差し上げますから」
冗談じゃない!
歯噛みするのに、逃げることもできない!
「アンジィ!」
けれど、振り下ろされてくるオーレリアンの剣と私の間に、素早く黒い影が走って来た。
激しい蹄の音が近づくのに、私へ剣を向けていたオーレリアンも気づいた。急いで後ろに下がるのと同時に、荒い馬の鼻息が私の前で聞こえる。
ぶるると汗を払うように首を振りながら蹄を鳴らしているのは、レオスの愛馬だ。
そして、上に乗っていたレオスが手綱を放すと、急いで降りてくる。
「大丈夫か、アンジィ!? 今、助けてやるから――」
「レオス……」
お前、二人を相手にして囲まれていたのに、一瞬で切り抜けて助けに来てくれたの?
自分だって危ないのに――。
なぜか、崖の上で自分に向かって手を伸ばしているレオスの姿から目が離せない。
けれど、私を助ける為に馬を下りたのがまずかった。
レオスの馬が、背後の主人を守ろうと動きながら威嚇しているが、残った三人の敵に周りを囲まれては、とても私を助けているどころではない!
「危ない、レオス!」
私を助けようとしている隙にと狙ってきた敵の一人が、レオスの背後から剣を振り上げている。レオスの愛馬は、もう一人の男を威嚇するので精一杯だ。
足を踏み鳴らして、いつでも突進できる姿勢を示しているため、肝心のオーレリアンは少し離れているが、背後からレオスを狙っている男のために、明らかに馬の気をひいて男に近づけさせまいとしている。
だから、今レオスを守るものは何もない!
私の声で気がついたのだろう。素早くレオスが振り返ると、急いで敵の剣を受け止めた。
がきんという鈍い音が山中に響く。
「自分で、のぼってこられるか!? ここは、なんとか食い止めるから!」
相手の男も相当な手練だ。しかも馬に乗っているから、小回りこそきかないが、高さと速さの面でレオスの方が不利だ!
「やってみる!」
私のために、レオスが戦ってくれている――私を守る為に。
なぜか、心の中に、感じたことのない熱いものがこみあげてきた。心が痺れているのか、泣き出したいのか。それすらもわからない。
ただ、私のために、敵に囲まれて苦戦しているレオスの背中を見るのが辛くて――少しでも、早く助けになりたくて、必死に上の草に手を伸ばした。
けれど、今度掴んだ草は、最初のよりも枯れていたらしい。
掴んだと思って力をいれた途端、ぶちぶちと引きちぎれて行く。
「あっ!」
体が、半分空中に投げ出された。
「アンジィ!?」
私の声に、レオスが切羽詰まった声で振り返る。
「大丈夫――」
まだ、剣は刺さっている。やり直しさえすれば――と思ったのに、体が落ちかけた反動で、刺さっていた剣の切っ先も土の中で斜めになっていた。
剣の先端が、斜めになったまま、私の体重にどんどんと湿った土を抉って上がっていく。
剣の先で土の塊が盛り上がっていくのに従い、手にした柄の角度が下がっていく。
「くっ……!」
だめだ。このままでは、もうすぐ落ちる……!
「アンジィ!?」
「だめだ! レオス、戦い続けろ!」
私の方を気にするな! 今、私の方を振り向いて、手を差し伸べれば、お前がやられてしまう!
けれど、きっともう剣での支えはもたないだろう。
私の体が前より下がっていることに、振り返って気がついてしまったレオスが、藍色の瞳を見張ると、固く唇を噛んでいる。
「一か八か――」
え? なんのことだ?
けれど、見上げた私の視線の先で、レオスは戦っていた相手の剣を鋭く払うと、そのまま腕の付け根を切りつけた。
腱をやられたのだろう。男が、剣を取り落として悶絶している。
その隙に、レオスは私の方を向き直った。
「アンジィ! 歯を食いしばれ!」
え!? 何をする気だ!?
けれど、叫び声が聞こえた瞬間、レオスの体が崖から飛び降りた。そのまま崖でぶら下がっている私の体を胸の中に、抱え込む。
お前、実は胸板が広かったんだな! 胸毛には恵まれなかったくせに、こんなに逞しい胸と腕を持っているなんて反則だぞ!?
だけど、私の体は抱えられたまま、レオスと一緒に斜面の藪の中へと飛び込んでいく。急な斜面を転がる凄まじい感覚と、私を抱きしめているレオスの腕の強さだけが、目を閉じた中でも伝わってきた。
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