第23話 左肘の場所

 圭が学校の図書室から出て来たのは夕方だった。

 莉緒に案内された時から期待は持てていたが、予想通り高校の図書室とは思えないほどに有意義な時間を過ごすことができた。

 勿論、『只人』から見ればただの図書室という様相を呈してはいるのだが、魔術師視点で見ると物理法則、物体の構成、生物学、歴史、伝承などについて「なぜこの本がここにあるのか」を違った視点から推当可能で、それらが、ある知識欲を持った人にとっては数珠つなぎとなって知識系統を形作っていることが数時間の滞在でも伺い見ることができた。検索タブレットで閲覧専用図書の目録も確認してみたが、題名だけで興味が引かれるようなものがそちらにも相当数見つかっている。


(しかし、貸出履歴、か……。悩ましいな)


 もしも図書委員に魔女がいると、圭の嗜好、というよりも魔法に関わる者としての知識欲が一目瞭然となってしまう可能性がある。それをケアするためには面倒だが、迷彩となる本にも色々と手を出しておくしかなさそうだった。



 圭は下駄箱で革靴に履き替えて校舎を出る。

 そのまま中庭を通り過ぎてグラウンドの前へ差し掛かると、そこかしこから運動部の掛け声が響いてきた。

 そして、圭の聴覚の識別能力はその中から一人の声を聞き分ける。


「せーーいっそぉーーーっ」


 何の略だかよく分からない、乱暴に張り上げた大声。

 そういえば週末に試合があるって言っていたな、と圭は立ち止まり、グラウンドを隔てるフェンスの向こうへと目を向けた。

 グラウンドは広く、野球部は、陸上部、サッカー部の向こうの一番奥側で練習しているのが小さく見える。ネット用の鉄柱には貧弱ながらも数台のハロゲンライトが設置されていて、それが既にグラウンドに無機質な明かりを投げかけていた。野球部と他の部との間には目の細かな可動式ネットが置かれていて、結局四方を緑色の檻で囲われた単一種の群れのようになってユニフォームの一群が微妙な規則性を持って蠢いていた。


 圭は校内の道路とグラウンドとの間にある、観覧席も兼ねてるだろう幅の大きな石段に腰かけ、遠くの練習風景をしばらく眺めることにした。距離があるため自然と【五感強化ハイアイント】を起動する。



 一気に強化された視界。グラウンドではたくさんの少年少女が身体を動かしていた。

 別段笑顔に溢れている訳ではない。むしろ当人達は苦しそうに汗をかき、圭の殆ど耳元で息を切らし、練習着を汚しながら、自分の心身をいじめ、反復し、新たな記録へと挑戦していっていた。

 目の前で同世代が行ってることなのに、そして【五感強化ハイアイント】であらゆるものが近くなったのに、圭は遠い風景のようにそれを眺める。


(スポーツどころか、団体競技自体ほとんどやったことがないな)


 情操教育としてはどうなんだ、と我ながら思う。

 いま、顎の先から汗を垂らした誠司がチームメイトとハイタッチをしたのが見えた。元気よく、ではない。随分しんどそうだった。外周を終えて来たらしい陸上部員が次々と一か所に集合していき、遅れてゴールする後輩部員達を労う拍手がまばらに、しかし人数が増えるにつれ徐々に大きくなっていく。たまたま遠慮深い観客しかチケットを手に入れなかったクラシック・コンサートの様だ。

 圭は何とはなしにスマホを取り出し、ロックを解除してから画面を見つめ、しかしアプリを開くことなくもう一度鞄のポケットへとしまった。


 教室のさざめきを思い出す。

 小休みや昼休み、放課後に必ず訪れる、小さな声の、溜息や笑い声の積み重なりだ。別段裏を読まずとも見えてしまう、個人個人が抱える様々なストレス、だからこその仲間意識。時々過剰ともなりがちな上辺の連帯。年齢も相まって上擦り気味の昇華や、または他の誰かの更なるストレス。

 それらがうねる様な音となり光景となって、結局教室を、いつも静かに平らかに形成していた。

 出歯亀で全てを見張っていようとしてる訳ではないが、初心者向けのミュージカルの様にそれぞれが勝手に自己紹介や感情発露を常時行っているのだ。それは自然と入って来て、自然と気付けることだった。


 圭には自分で為さなくてはならないことがあったが、それは周りの同世代に対して自慢できるようなことではなく、大きな瑕瑾とも言える属性を持ってしまっていることによる、至極個人的な義務だった。

 しかしこうして他人事じみたスタンスで教室を眺め、グラウンドを眺めているのは、それは達観ではなく参加資格のない試合を眺める傍観者であるように感じられた。


 陸上部が円になって礼を終えた後、一日の疲労とそれが終わった弛緩とが混ざり合った談笑を交わしながらハードルなどを片付け始める。

 サッカー部と野球部はまだしばらく練習を続けるようだ。


 ティーバッティングを数人と一列に並んで続けていた誠司が、一息を付いてバットを手首で回しながら可動式ネットの方へと移動してきた。その時に石段に座る制服姿の生徒のことに気付いた様子を見せる。そのままネットのところまで歩いて指を掛け、起源でも悪いかのように目を細める。圭は軽く片手を上げた。


 途端に誠司は破顔して、圭の方へ手をぶんぶんと振ってきた。

 圭は苦笑しつつ、先程と同じ小ささでもう一度手を上げ合図を返す。


 誠司はグラウンドの時計を指さした後、圭の方を向いて左手を真上に、右手を真下にした。その後に手の平をこちらに向けて『待ってて』というジェスチャーをする。

 圭も時計の方を見てみると、あと十五分で六時になる頃だった。向こうの練習が終わる時間なのだろう。

 美織は腹を空かせてるだろうが、昨日の残りを温めて冷凍したご飯をチンするだけだ。もう少しいるぐらい構わないか、と、圭は指先で丸印を返した。



 それから、練習に戻った誠司の姿を頬杖をついて眺めながら圭はまた考え事を続けた。

 圭自身が部活に入るようなイメージは持てなかった。個人として学ばねばならないこと、やらねばならないことはとても多い。魔士とバレないようにスポーツするなんて真っ平だ。

 しかし――魔女との関わり方、か、と圭は鼻から小さく息をつく。

 『断崖』に言われた、『圭が未熟なのは力だけではない』という言葉が耳に残っていた。

 魔女と関われば何が解決するのかも実のところはっきりしていないし、何処か派閥に入ればいいというものでもないはずだ。組織的な力比べが自分の為になるとは思えず、気苦労も多いことは分かり切っている。

 でも個人の鍛錬となるような競い合いならいいのかもしれない。例えばりょうとやった昨晩の仕合は悪くなかった。

 

(そういえば、今日の休み時間――)


 昼休みの終わり頃に圭が学食から教室に戻ると、教室の真ん中辺りに座っていたりょうが声を掛けて来たのだ。


「あ、おい。圭さー。もし昨日みたいな飯を……いってっ!」


 そちらを見ると三人で机をくっつけて弁当を食べていたらしいりょうと沙雪と莉緒が居たのだが、その内のりょうが自分の上履きを押さえているところだった。

 沙雪が顔をこちらに向けてにっこりと笑った。


「昨日も、今日も圭君は学食なの?」

「ん、ああ」

「そっか。学食、あまりバリエーションがないのよね。飽きない?」

「いや、まだ三日だしな」

「ああ、そうね。それはそうね」


 圭は首を捻る。

 りょうが唇を尖らせながら足を撫でていて、莉緒はちらちらと目線を圭や沙雪に移してる様子が見えた。

 ああ、とそこで圭は思い至った。昨晩の話をしようとして、沙雪が止めたのか。

 圭の家で皆で夕食を共にしたということを大声で吹聴しても、確かにお互いにとって良いものでもないのかもしれない。『モテグループ』というのも大変だな、と思いつつ、何となく思い出して圭が保坂の方を見ると、ばっちりと目が合ってしまったのだった。



 あの晩の仕合の後には、りょうは「またやろう」と何の衒いもなく言ってくれていたな、と圭は思い出す。しかし実際そうなるには向こうの『お山』の都合や、本人たちの目的など、色々と障害はあるのかもしれない。どんなものだろう、その話ぐらいは少ししたかったな、と圭は、練習を終えた誠司がこちらに歩いてくるのを見ながら、ぼんやりと考えていた。



「18時ってさあー、終わんの早くね? 中学かよなー」


 誠司は少しも疲れてないような笑顔で石段の下に立ち止まり、圭のことを見上げた。


「お疲れ」

「おう。まあ、こんぐらいじゃあ全然疲れてないけどね。こっから20時までは自主練してもオーケーだから、今日もそこまでやってくつもり」

「へえ。偉いんだな」

「いやいや野球部っつったら、そんぐらいが普通だよ? うちのガッコは半分くらいが帰っちゃうけどな。毎日居残りしてる一年て俺ぐらいだから、そんで練習試合に選ばれたってのも、まああるのかもねえー」


 誠司はその場で緩く素振りを始める。


「練習試合は土曜だったっけ。あと三日か」

「ん、む。うん」

「活躍できるといいな」

「なー、ほんと。ほんとにそれだわ。まあ、守備は何とかなるかなってとこなんだけど、野球で活躍って言うとやっぱバッティングが、デカいじゃん? そうすっと向こうのピッチャーの実力とか、相性とかもなー。俺もミートはそんなに得意な方じゃねえし…」

「そう、か」

「響かせてえよなあー。快、音っ」


 ブンとバットを力強く振る。


「そんでアノコの濃ゆーい両目をハートにさせちゃったりしちゃったり、なんちゃったりね」と、誠司は振り終わったバットを手の中で回しながら、お道化た様にくしゃりと笑った。


「肘」

「ん?」

「誠司左の肘、さ。スイング開始してすぐ落ちてないか」

「へ?」

「いや……何というか、そう、見えるんだが」

「何? 圭。もしかして野球詳しいの」

「あー……。バッティングフォームだけは、そうかも、知れない。見てて気になったんだ」

「えーウソ、左肘? 落ちてる?」


 誠司が構えて振ってみる。


「今のもまだ落ちてるな。あと、腰はいいんだが……右肩から腕にかけても、力が流れてる」

「流れてる? って? 一応、これ昔に監督や先輩に矯正された後のフォームなんだけど」

「……」

「まあ俺個人として、あとは辻選手リスペクトをちょっぴり入れてる感じ。え、でもこれ、どっか変かな」

「誰かには正しいのかも知れないけど、その体に合ってないんだ。その…、俺が思った印象、もう少し言ってみてもいいか?」

「え? もちろんもちろん。超聞きたい」

「…じゃあ、もう一回構えてみてくれるか」


 圭は腰を上げて石段を下りる。

 触るぞ、と言って誠司の左右の腕の位置を調整し、胸を開かせて前傾を少し戻させる。


「ゆっくり」


 後ろから包むようにしたままそこから四回、スローな素振りで誠司の各支点の動きを直していく。


「じゃあ、早く振ってみるか」と言って圭は三歩下がった。

「お、うん」


「お、おお?」「お。おお……?」「お!」「……お?」


 違和感と実感とを行ったり来たりしながらバットを振るたびに声を発している誠司に、圭は「左肘だけ、まだ力入れると少し下がる。結構癖になってるな」と忠告を加えた。


 そして更に二回素振りを見て、「そんな感じだ」と頷いた。


「今のは微修正だけど、スイングのスピードとパワーに有効だとは思うんだが。軌道も安定するんじゃないかな」

「お……? おお」

「試合が三日後となると、今から本気で直すか微妙なんだが、興味あったらやってみてくれ」

「……お? お!」


 後は黙って見ていたが、誠司は何か感じるところがあるのか夢中になってバットを振っている。

 その両足の動きをじっと見ていると、暫くして誠司がやっとスイングを止めた。


「え、何か、何かいいかも。分からんけど良さげかもしんない。あと下半身の方は? 何かある?」

「いや、そっちはやめとこう。土曜がぐちゃぐちゃになる可能性がある。それより誠司、息」

「息?」

「を、止めてないか?」

「え? 今止めてた?」

「まあ、今というか……。ボール前にすると、振り出しから止めてたりしないか」

「分からん。あれ、俺どうしてるんだろ」


 もう一度誠司がバットを構えて、びゅんと振る。今は止めてないから、ボールが飛んできたときの気負いが由来で付いてしまった癖なのかもしれない。修正フォームの方は既に圭から見てもいい形を捉えてるように見えた。やはり筋がわるくないんだろうな、と圭は思う。


「バットに当てるの、ミートって言うんだっけ。そのミートの瞬間だけなら止めてもいいけど、それ以外は静かに息をしたままの方がいいと思う」

「へえー、へえー。そうなん?」

「出来たらだが、投手が振りかぶったあたりからゆっくり吐いてるといいかもな。混乱するようなら『振るときに止めない』だけ癖にしとけばいいよ」

「えーマジか。息って大事なもんなの? 何で?」

 圭は身体部位ごとの脱力と緊張の話を返そうとしたが、すぐに思い直して口を噤む。スイングだったら例えば、と細かく伝えたところで、無駄に意識してしまって失敗する可能性の方が高そうだったのだ。


「まあ、どの生き物にしたって息を止めた状態ってのは不自然だからな。吐くのはほら、刀とかでも『どりゃあ!』って言ったりするだろ。あれも吐いてるから、多分、随分昔からそう決まってるんじゃないかな」

「ああ、なるほどなー、知らんかった。サンキュ!」


 誠司は笑うと、ゲーム機を手に入れた子供の様に急いでまたバットを構えて、繰り返し振り始める。


「……」

「あー、後でボールじゃんじゃん打って来てみよ。楽しみだわ」

「その……でも、大丈夫か」

「ん? 今んとこ、ちょっと調子良さそうよ。そういえば今までの監督は選手みんなに大体一緒のこと言ってたし、俺、しっかりアドバイスされたのって初めてかも」

「しっかり、というか、俺野球をやってる人間じゃないだろ。そんなにあっさり直していいのか」


 誠司は今構えていたスイングを振り切ってから、こちらを向く。


「て、え、嘘なの? なんか適当って感じでもなさそうだったけど」


 そして圭の答えも待たず、またバットを構えた。


「まあ勿論、本気では言ってるよ」

「じゃあ俺が振ってみて良さそうなんだから、いいじゃん。てかさ、下半身!」


 ビュン


「土曜の試合のことを考えると、直さない方がいいんだ」

「うん、だからさ、来週とか!」


 ビュン


「今度またやってよ!」


 少しだけ速くなった誠司のスイングの、仄かな風圧が頬に触れる。

 圭はそれを感じながら、つい昨日小柄なクラスメートが言っていた言葉を再び思い出した。自然と口元に微かな笑みが浮かぶ。


 そして、「ああ」と、邪魔をしないように小さく答えた。


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