最終話

 相変わらず空は青い。自社ビルの玄関先から見上げる空は、京都の街で眺めていたほど広くはなく、背の高いビルディングに四角く区切られている。

「今日はお天気も崩れず、洗濯物がよく乾くでしょう」そんな、朝に見た天気予報を思い出しながら、明子は鞄につっこんだままの折りたたみ傘を広げる。あの街と同じように、夏を残しながらも、冷めたような生温い風が頬を撫でていくのを感じ、一歩を踏み出すとパツパツ、と雨粒が傘に弾む音がする。数片の雲しか浮かんでいない青い空から、痛みのないカーテンのような柔い雨が降り始めた。

 大通りに足を進めると、明子と同じくランチだろう会社員達が、足早に波となってすれ違っていく。会社の立地が商業区であるからか、お昼になると安い定食を求める 勤労者で、大通りは溢れかえっていくのも、明子には見慣れた光景だ。京都の街の観光客のような浮かれた表情は少ない。道行く傘を持っていないスーツ姿の男やタイトな服装をした女達が、困ったように空を見上げるのを横目にして、明子は大通りを少し進んでから、ビルディングの隙間を抜けるように路地へと曲がった。

 もう一つの通りに向かってゆっくりと歩いていく。室外機の音がごうんごうんと鳴り響き、路地を挟む大通りからは雑踏が漏れ出している。高いビルに挟まれた路地は、陽の光が届かないからか、いつもじめじめと湿気が高く、埃っぽい。整備されていない道を人は嫌うのか、大通りにはあんなに人間が闊歩しているのに、誰ひとりとして向こう側の通りに続く小道に入ってこようとはしなかった。

 明子はなんでもない顔をして、パンプスを汚す塵と埃の混ざった砂を気にすることもなく、肩にかけた鞄を探る。内側のポケットから取り出したのは、京都の街で奇人から預かった小さな鈴だ。結ばれた紐を持って小さく揺らすと、チリンチリン、と雑踏に負けない音が鳴る。明子は途端に上機嫌になって、鈴を鳴らしながらゆっくりと路地を抜けていく。

 目指しているのは、路地を一つ抜けた向こうの通りにある小さな定食屋だ。影の小道を抜けると、雨はまだ降り続いたままであるのに、降り注ぐ陽光に照らされる。眩しさに目を細めながら先を見つめると、黒いポロシャツで下駄を履き、蛇の目傘を持った男が、重苦しい木造りのドアの前に立っていた。道行く人が男を見ると、ぎょっとして、一度は必ず振り返る。顔半分を隠す不可思議なお面をつけた奇人は、それを面白そうに眺めながら、ぼんやりと立っていた。非日常で奇怪な姿は、京都でなくとも、人間を驚かせて、奇人の唇に笑みをもたらしているらしい。

「お待たせしました」と、明子は慣れた足取りで奇人に声をかける。

 ぼんやりとしていた狐面が、ほろほろと笑みを浮かべたまま、明子を見た。

「いいや、待ってはいないよ。今来たところだ」

「まさか、オサキさんが、ワープ能力の持ち主だったとは思いませんでした」

「わーぷ? 現代の言葉は難しいなあ」

「瞬間移動的な……」

「ああ、まあ、そういう者だからなあ。明子も、そのうち出来るようになる」

「五百年ぐらいかかりそうです」

 当然だ、と言わんばかりの奇人の言葉に、明子は肩を揺らして笑う。冗談のような会話が途切れそうになったところで、「行こうか」と目線だけで合図が飛んでくる。相変わらず隠れたままの奇人の瞳の色を想像しながら、明子は頷いて、会社から徒歩五分の定食屋の、重苦しいドアに手をかけた。

 明子の行きつけである定食屋は、昼時の会社員が行列を作ることはない。看板も暖簾も出ていない飲食店で、ぱっと見ただけでは開店しているかどうかも分からないからだ。この店が定食屋だと分かる根拠は、たまたまインターネットで見かけた店主のブログで、昼前に更新されるランチメニュウだけだった。一度見つけてから、明子は毎日チェックをしている。飲食店で集客を求めないのも不可思議な話ではあったけれど、忙しなく働きたくない、という店主の意向らしく、この定食屋もほとんど趣味のようなものであるらしい。

 それでもドアを開けると、店内にはまばらに客がいる。ドアベルが、僅かなお喋りの声をかき消すと、カウンターの中にいる店主が視線を寄越してくる。

「ランチ二つ」と、明子は慣れた口調で言い、入口に設置されたウォーターサーバーで勝手に水を汲んでから、空いているテーブル席に奇人と共に腰を下ろした。そうして、二人揃って煙草に火とつけてから、深く呼吸をする。

「オサキさん」

「うん?」

「ああいうのは良くないです」

「ああ、どうにも困っていたように見えたから。まずかったのか」

 ほう、と紫煙を吐き出して、明子がピシャリと言いのけると、奇人は笑みを浮かべたまま、特に悪びれた様子もなく謝罪を述べた。

 東京に帰ってきてから、明子の身の回りには不可思議な出来事がついて回るようになった。一つは、奇人に与えられた鈴を鳴らすと、唐突に柔い天気雨に降られること。もう一つは、明子が気落ちするような、多少理不尽な出来事が起きると、物が勝手に動いたり、電話が突然切れてしまったりすることだ。

 先ほどのミーティングルームでの、不可思議な出来事の犯人を明子は知っていた。目の前の奇人が、千里を見渡すその双眼で、ぼんやりと明子を眺めては、時々手を貸してくれている。

「ああいうのは駄目です。驚きを通り越して、ちょっとしたホラーです」

「涙目になって喚く姿も面白い」

「あの人に限っては同意ですが、続いてしまうと変な噂が立ちかねません」

「なるほど。分かった。ああいうのは堪えることにしよう。明子の日常が壊れてしまっては、大変だ」

 聞き分けの良い子供のような返事をしながら、奇人の唇が煙草を吸い上げる。灰皿に燃え尽きた煙草を落とし、感心したような口調だった。明子は汗のかいたグラスの水を飲みながら、これもまたちぐはぐの一つだ、と苦笑する。

 京都の街で、奇人と沢山話をした。それはどれも明子には想像も出来ないような時間の中の、不可思議なものばかりで、根本的に奇人は人間を眺めていながらも、通り過ぎていく社会を知らない。思えば、あの夜のバーで、天狗と化猫がつかみ合いの喧嘩をするような世界が、奇人の世界だ。人間同士でさえ、馬の合う合わないがあり、経験と体験の差違があり、些細な常識の行き違いが存在する。立っていた領分が違っていた奇人と明子では、異なることが普通であるのかもしれない。

 その証拠に、価値観をすり合わせるように声に出せば、奇人は必ず耳を寄せ、納得したように頷いてくれる。そうして、やり方の違いがあったとしても、奇人の大抵の行動は明子の為であるらしかった。明子の全てを奪える男が、明子の全てを瓦解させないようにと妥協してくれる。明子が気落ちをして、あの怪物に会いたくなってしまったら、きっと京都に足を向けるはずなのに、奇人はそれすらも踏み止ませるように振舞ってくれる。

 自覚をするたびに浮ついてしまう。

 恋情や、愛情を、はじめてだと真摯に語った奇人の器用さと心遣いが、明子をどうしようもなく喜ばせる。全てを無くしてしまえるはずなのに、全てを大事にされているような、ちぐはぐさを噛み締めて、明子の頬は勝手に緩んでいく。アルコールと煙草をふんだんに体内に取り入れた時のように、面白くて可笑しくて、ふわふわとした心地よさに酔っているのかもしれない。

「でも、ありがとうございます。あの人は、ままに嫌な人なんです」

「見ていれば分かるよ。明子とは合わなさそうだ」

「そうなんです。だから、助かりました」

 明子が小さく会釈をすると、奇人は満足そうに笑みを深くする。お面の下で、目尻が下がっているのを想像して、明子の唇も弧を描く。

「まあ、あと少なくとも五十年程は、雨は勘弁してやってくれ。こればかりは俺の性質故だから、ままならない」

 喜ばしいと柔い雨が降る。

 少し照れたように肺に溜めた煙を吐き出して、奇人は言った。相変わらず顔半分が隠れていても、唇は素直だ。冗談のようなことばかりを言いながらも、真意は分かりやすく伝わってくる。それもまた、ちぐはぐだ。

「五十年は要らない気がします」

「うん?」

「だって、多分このままだったら、二十年ぐらいしか誤魔化せないでしょうから」

 明子は、簡素なテーブルの上で手のひらを握ったり開いたりしながら、苦笑する。

 あの京都旅行から、明子は人ではなくなった。厳密には、人としての機能を持ち合わせているのに、歩いていく領分を飛び越えてしまった。それは京都の街で出会った龍神の奥さんのように、皺も増えず、身体も萎まず、白髪が増えたり、筋力が衰えたりすることがない、ということだ。明子にもう生命はない。肉体は死への歩みを止め、現状維持のまま長い時間を留まり続けるのだろう。

 老けない、という現象を、誤魔化せる期間はきっと長くない。人は死へと歩む分だけ成長し、そうしてじんわりと衰えていく。どれだけ身体に気を遣っても、どれだけ健康の維持に努めても、相応の歳の取り方をしていくものだ。

 実年齢を逸脱した若さを明子が手にした時、きっと現在の日常は瓦解していく。

「それは……」

「あ、違うんです。恨み節なわけではないんです」

 弓なりになっていた奇人の唇が、きゅっと結ばれたのを見て、明子は慌てて首を振った。煙草を灰皿に押し付けていた手を取って、真っ直ぐにお面の下の双眼へと視線を向ける。

「それで、かまわないんです。思っていたほど堪えてはいませんし、実は嫌な気分になると、本当にすぐに京都に帰りたくなってしまうんです。悪い癖がつきました」

 明子が冗談にように笑って見せると、コロコロと気分の変わる唇は、また蜜のような笑みを浮かべる。

「俺はかまわないよ」

「すぐそうやって甘やかすのは、オサキさんの悪い癖ですよ。でもこうやって、時々昼休みにご飯をご一緒出来るのは嬉しいです」

「それは僥倖。俺も、こちらのことを知る良い機会になっている」

 奇人がそんなことを言うと、上機嫌に比例するように外の雨が少し強さを増す。音のなかった雨粒が、窓に張り付いて流星のような線を描いていく。乾いていたコンクリートが、弾ける水滴に駁模様になり、道行く会社員達が駆け足になっていた。

 明子と奇人は、横目でそんな外の様子を眺めてから、顔を見合わせた。どうしようもない奇人の性質に、くすくすと小さな笑みが溢れる。京都旅行で出会った堪え性のない雨にさえ、もう不機嫌にはならなかった。

 言葉を交わすわけでなく、可笑しさを共有していると、愛想のない店主が出来上がったばかりのランチを運んできてくれた。湯気の上がる皿に乗っているのは、今日のランチメニュウであるオムライスだ。定番のケチャップが色合いを引き立てていて、朝から多忙だった明子の腹を刺激する。食べる必要のないと豪語していた奇人も、食を嗜むことは出来る。人間社会について、何も知らない奇人は、変なところで人間に興味を持っている。

 歩いていく領分が変わった。歩み寄ったのは明子の方だったのかもしれないけれど、その分だけ奇人もまた明子の隣を歩いてくれようとしている。

 何もかもがちぐはぐだけれど、それもこれからの長い時間の中で、普遍になるのだろう。オムライスをスプーンでつつきながら、明子は夢想して、だんだんと訪れてくるだろう変化に少しだけ足が竦んだ。

 それでも今は、卵と一緒にケチャップライスをスプーンに乗せ、口内に放り込むと、こんなにも美味しい。

「オサキさん」

「うん?」

 もぐもぐ、と口を動かしながら、昼食を楽しむ奇人を眺めて、明子は確信する。

「私、大丈夫です」

 正誤の問題は、きっともう必要ない。明子の正しさも、間違いも、横に佇む怪物も、全ては目の前でオムライスを頬張る奇人が持って行ってしまった。立ち竦んだ恐怖は、既に愛おしさに変わっている。日常を踏み外してしまっても、ただ奇人の元へ帰るだけだ。

「そうか。良いことだ」

 何をとは言わなくても、きっと奇人は全てを見通している。

 柔い雨のように降り注ぐ不可思議な言葉が、ゆっくりと明子の背中を押していた。

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