第13話

 誰かを歩く夜道は、恐怖を何処かへ逃がしてしまうらしい。そういうことに気づいて、ようやく明子は自身が心細かったことに思い当たる。砂利を払った手のひらは、未だにチリチリとした痛みを残しているけれど、心持ちは随分と楽になった。

 隣を歩く赤いパーカーの青年は、背中に烏のような黒羽を生やしていながら、「天狗である」と名乗った。奇妙な仮面の奇人や、雨を降らせる龍と出会っていた明子の感覚は麻痺していて、天狗だとしても鬼だとしても、とにかくなんでも良かった。そういう者もいるんだ、という奇人の言葉が耳を掠めていく。突然を消えてしまったり、突然雨を降らせたり、突然真っ黒な空から大きな羽ばたきで舞い降りてきたりするのを目の前にしてしまったら、もう疑うことすら馬鹿らしくなってくる。多少のアルコールを体内に流し込んでいたおかげかもしれないし、これが旅行だからかもしれない。正誤の問題に謎を深めるよりも、ああそうなんだ、と納得する方が、目の前の現象については簡単だ。目の前で起きているというのは、考えるよりも明白な答えを持っている。

「おい、人間」と、天狗と名乗る青年が明子を呼ぶ。人間、という呼び方が一層に不可思議さを増している。違う領分にいる者だという、狐の言葉がまた脳内を駆けていく。

「遅れるなよ。お前みたいな人間がいて良い場所じゃねえからな。迷ったら、永遠に彷徨う羽目になるぞ」

 数歩先を行く天狗が呆れた口調で言った。

 明子は相変わらず二条の路地を進んでいるはずだった。しかし、今は現代社会とは思えないほどの暗がりを、まるでそれが当然のような顔をした天狗の後ろを歩いている。いつの間にか、住宅を囲むコンクリートの塀や、街灯をつけた電信柱でさえ見えなくなってしまった。変わらないのは敷かれた真っ黒なコンクリートだけで、あとは霧に包まれたように先が見えず、静かに空気が濁っている。まるで昼間の産寧坂のような雰囲気が立ち込めていて、明子は自身の踏んでいる道が本当に二条なのかすら分からなくなっていた。

「まるで童話の世界だなぁ……」途方に暮れかけて明子は呟いてみる。

 そうして童話とは言い難い暗闇に、明子は苦笑する。案内してくれるのはフワフワとした兎でもなく、目指しているのはお茶会でもない。それでも、見知った身近な童話に置き換えてみれば、苦笑出来るぐらいには夢が広がるような気がした。

「はあ?」

 明子の呟きを、天狗が忌々しそうに蹴っ飛ばす。

「あ、いえ。知らないところに迷い込んで右往左往しているので、なんだか童話のようだと思って……」

「おめでたい小娘だな。狐の阿呆が感染でもしたか?」

 呆れた口調と溜息に、出会ってからずっと眉を寄せたままの天狗は、不機嫌の権化のように睨みを鋭くさせた。余すことなく伝わってくる機嫌の悪さは、言葉を交わすたびに明子を恐縮させた。それでも、二条の不思議なバーを探している、という明子に「ついてこい」と、言ってくれた天狗を悪い人格の持ち主だとは思えなかった。

 通り抜けていきそうになる言葉を、なんか頭に留めて反芻すると、明子は不意に不思議なことに気づく。

「……ん? 今、狐って言いました?」

 その単語に思い浮かぶ人物は、今の明子には一人しかいない。

 言葉と一緒にへんてこなお面が脳裏に浮かび、明子は目を瞬かせた。

 隣を歩く天狗には、今日のことは何も話していない。ただ猫に鈴を取られて途方に暮れていて、二条にある京都弁のマスターのバーを探している、と伝えただけだった。奇人のことは一言も声にしていないはずなのに、天狗はまるで何もかもを知っているような口調だ。もしかしたら別人であるのかもしれないけれど、明子には天狗の言う「狐」と脳裏に浮かぶ奇人が直結している。

「あ? お前はオサキの客だろ?」

「……今日、何処かでお会いしましたか?」

「京都じゃ、既に話題になってる。あの性悪狐が珍しく人間の小娘を連れている。天気雨まで降らせる浮かれようだ、ってな」

 どうして、そんなことに? 言葉にしようと思ったけれど、困惑が先にやってきて喉に引っかかってしまった。そんな明子の様子を見ていたのか、天狗はまた溜息を吐き出している。

「アレはクソ狐だが、伏見で隠居するほどの狐となりゃあ、クソなりに名うての獣になる」

「クソ、なんですか?」

「クソだな。なにせ性根が悪い」

 表情も、言葉にも棘が突き出ているのに、口調だけは忌々しいという印象はなかった。それはまるで、長い時間を一緒に過ごしてきた友人を紹介するような口ぶりだ。裏腹さの滲み出る天狗に明子は唇の端を持ち上げる。そういえば、昼間に出会った龍神も奇人のことを悪く言いながら、親しげに話してくれていた。この街には、奇人の周囲がある。明子にとっては、ただの旅行先だとしても、この街には奇人の根付かせたものが存在する。

 奇妙な仮面で観光客を驚かせながら、我が物顔でこの街を闊歩する奇人を思い浮かべると、不可思議に違いないはずなのに、なんだかしっくりときてしまう。東京に戻れば、明子の日常があるように、この街には奇人の営みがあるのかもしれない。そんな想像を巡らせると、不思議と奇人に抱いていた妙な親近感が戻ってくる。

「天狗さんは、オサキさんと友人なんですか?」

 暗い道を歩いているはずなのに、想像すると目の前に昼間の京都が浮かび上がる気がして、明子は思わず気軽に話しかけていた。それが恐怖を誤魔化すための手段だったのか、ただの好奇心だったのか、明子自身にも分からない。

 しかし、何気なく発した言葉で、途端に天狗の眉間の皺が増えた。

「気色悪いことを言うな。領分が同じってだけだ。あいつも、俺も、過ぎてく者を眺めるしかねえから、たまに暇つぶしの相手が必要になるんだよ」

「……終わりのない領分、というやつですね」

「始まりもねえよ。そういうのは生きてる奴の特権だしな。お前は人間だろう? 安易な選択はするなよ」

 明子には見向きもせず、前だけを見て歩いていく天狗の嘆息に、明子は少しだけ動揺した。見透かされたような気分になるのも、今日だけで何度目かは分からない。人智を超えて、領分が違うと言い張る者の全てが、明子を丸裸にしてしまうような気がした。忠告めいた言葉は、明子の中に正誤の問題を生み出してしまう。選択は正しいのか。今から起こす行動は、間違ったときに取り返せるものなのか。考えてしまえば、泥濘の底なし沼にハマっていくことを知りながら、明子はぐるぐると思考を回す。

「天狗さんは人間のお友達っていますか?」手がかりを得ようとして、明子は口を開く。何の手がかりが欲しいのかさえも分かっていないのに、判断基準を探そうとしていた。

「あぁ!?」

「え、あ、すみません」

 酷い剣幕だった。今までトボトボと歩いていた天狗が振り返り、歯噛みしそうなほどに顔を顰めている。突然の大声に明子が驚くと、今度は舌打ちが降ってきた。

「俺は天狗だぞ。世の中で一等偉い俺に、地べたを這いずるだけのお友達なんか居るわけねえだろ」

「……スミマセン」

「お前らは、ただ悪知恵だけこさえて過ぎ去っていく者だ。生から始まり、死に向かう者だ。在るべき領分に納まってりゃいいんだよ。それなのに、お前らときたら、天狗である俺を目に留めたりしやがって……頭が高いんだよ。身の程を知れ」

 火のついた導火線のように天狗は饒舌だった。しかし、天狗の恨み節は明子に向けられたものではないようで、一体誰のことを言っているのかは見当もつかない。天狗の瞳はもう明子を見てはおらず、何処か遠い場所へ向けられていた。まるで、故人を懐かしむ親類のような表情になっていく天狗に、明子は喫茶店で目の前に座る奇人を思い出す。見送りたくないから明子の死を預かる、と言った奇人も、仮面の下の双眼にこんな色を灯していたのだろうか。過ぎ去っていくだけの人間を、もしかしたら彼らはいつも見送っているのかもしれない。

 そんな想像をしてみると、目の前の傲慢不遜な態度の天狗も、奇人と同じく親しみがあった。少しだけ畏怖を抱いてしまうのに、この街のような懐かしさがある。

 天狗の怒髪天を踏み抜いてしまったらしい明子は、正誤問題の手がかりを口ずさむことは出来なかった。まるで導火線に火とつけたように、降り続ける天狗の文句に耳を傾けていると「ゴミの始末がなってない」だとか、「お節介の割に短慮だ」だとか、「そういや最近も……」だとか、まるで思春期の青年か若輩者を叱る老人のようなことばかりを言い始める。ぷすぷすと燻る火種のように、天狗はひとしきり文句を言い募ってから、また明子へと視線を寄越した。

「いいか。俺達とお前らは、友人なんかになれはしない。あのクソ狐は、そこだけはきっちりしてる奴だ。元々過ぎ去る奴に興味を持った試しもなかった。狐の鈴には意思があるんだろう。だから、俺はお前を案内してやるだけだ。人間の為じゃない」

 まるで言い聞かせるように、ハッキリとした口調だった。真っ直ぐと明子を見定める視線が突き刺さり、なんだか背筋が伸びてしまう。明瞭な言葉が途切れそうになると、暗い道の先にぼう、と光が見えた。それは確かに昨晩と同じバーの看板で、足元のコンクリートだけが伸びる夜道では、どこをどう歩いてきたのかも明子には分からない。

「お前も短慮を起こさず、考えろ」

 それだけ言って、天狗がまた前を見て歩いていく。ハキハキとした声が、まるで霧を晴らすように、バーの扉の前に辿り着くと、いつの間にか明子は二条の景色の中にいた。

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