第11話

 春海は元より人でない者を見分ける眼を持っていたそうだ。奇人や泰貴のような、人のようでいて、人でない者を判別出来る。だから、最初に夫になる龍を見た時は、観光客のフリをしてぜんざいを啜る顔が、美しいと思ったのだそうだ。視線が合ったから、反射的な愛想笑いを浮かべたら、ぜんざいを頬張る龍に気に入られて嫁になった、というのが春海の不可思議な事実であるらしかった。

 泰貴は泰貴で、人間の世の中が気に入ってるらしい。奇人のように人間を驚かすわけでもなく、ただ車輪のように転がりながら回り続ける人間の領分が好ましいそうだ。だから、人間の嫁を取った。春海と視線を交じらせた瞬間に「この女性だ」と、瞬間的な判断をした。それは人の真似事ではなく、人と同等の一目惚れだったという。泰貴は、明子と視線を合わせないようにしながら「心が動いた」と、恥じ入る気配も見せずに言った。その表情は、長年連れ添った夫婦の顔だった。

 それは明子が思っていたよりも、純粋な鮮度のある恋愛で、例えば懐かしい学校生活で、スポーツの上手な先輩に恋をしてしまうような甘酸っぱさもあった。だから途端に、体験に基づいた親近感が沸く。とんでもなく現実味が欠けているはずなのに、共感してしまう。

「だから、私は老いることがなくなりました。結婚してから、皺一つ増えてないですよ」

「そういうものなのですか?」

「先生の言う領分を、夫に合わせたものですから。龍神は人に合わせることが出来ないので、強制的に私が夫に合わせる形になりました。まあ、選択肢はなかったわけですけど」

「……まだ怒ってるのか?」

「冗談よ」

 春海の語気にトゲが出てくると、泰貴は少しばかり怯んだ表情になる。昔話だという馴れ初めを聞いていても、それはちょくちょくと割り込んでくるやりとりで、夫婦らしい会話の応酬が、一度は失いかけた明子の余裕を連れ戻してくれた。本来なら春海の話も、突拍子もない物語のような恋愛模様のはずなのに、からかうような口調の春海に、くすりと肩を揺らしてしまう。目の前にいる夫婦は、酷く現実味があるからだ。

「大変なことは多々ありますけど、私はなんとか上手くやっています。働くことも出来るし、人間だった頃と同じように暮らしています。それは勿論、夫の理解があるからかもしれないですけれど」

 紅茶を飲みながら語る春海に、泰貴は頬を染める。それは妻に褒められて照れる夫そのもので、初々しい反応を目の前にして、明子は微笑ましい気分になってくる。本当は、もっと困ったことがあるのかもしれない。春海の言うとおり、言葉以上の「大変」が見えないところで、あるのかもしれない。奇人や、泰貴の言葉に端に漏れ出しているちぐはぐさに、苛立ちを覚えることもあるかもしれない。

 それでも、目の前に同じ境遇の人間がいて、なんとかなると言ってくれている。そこにある日常が愛おしいとカミサマが言う。

 奇人もそんな気持ちだったのだろうか。こんなふうになれると心に描いて、明子に言葉を向けたのだろうか。

 煙に巻いたような、遠まわしな口調の中にある奇人の親しげな音吐を思い出す。災難の先にたどり着いたバーで、楽しく酔っ払ったのは誰のおかげだったのか。一人だった旅行が、楽しかったのは奇人が隣にいたからだ。喜ばしい時に降るという、天気雨にも見舞われた。

 ソファに埋めた体を起こして、明子は春海と泰貴を交互に見つめる。

「私、きっとオサキさんを、信じたいのだと思うんです」

 どう見ても、人間にしか見えない夫婦に向かって、失礼を承知で明子は言った。

「だけど、私はカミサマに会ったことがないんです。千里を見通すと言われても、秘密を言い当てられても、半信半疑でしかないんです。私は、きっと確信が欲しいのだと思うんです」

 好意を寄せてくれていることを知ってしまった。それでも信じられないのは、この出会いあまりにも突飛で、嘘のような夢想に似ているからだ。顔も知らない人間の好意を素直に受け取れないのは、明子の人間としての警戒心のせいなのかもしれない。好奇心の先にある想いを自覚しているのに、ブレーキがかかる。間違っていないのか、と不安になる。

 誰かのことでこんなに悩むのは、一体いつぶりなのだろう。いつもは仕事ばかりで回転させている頭が沸騰しそうだった。奇人のカミサマ説を否定することは、目の前の夫婦を否定すると同義だと分かっている。親身になってくれている春海や泰貴に嘘がないとも思っている。落ち着こう、と自身に言い聞かせて、明子がカップに口をつけると、あまり饒舌ではなかった泰貴がなんでもない口調で言った。

「なんだ。あいつ、何も見せていないのか」

「えっ?」

「堪え性がないくせに、臆病だなあ」

「狐は警戒心が強いのよ」

 夫婦が顔を見合わせて、分かりあっている。羨ましいと思うと同時に、明子は理解が追いつかない。

「なあ、ちょっとならいいか?」泰貴は春海を見つめて、「流石に嫁殿の前以外で姿を晒すのは、俺にも抵抗がある」と、なんだか恥じ入るような口調で言う。

 それだけなのに、なんだか随分と愛情の篭っているように、明子には見えた。

「ううん……でも、先生のためってことにしてしまいましょう」

「そうだな。悪いのはあいつだ」

 今度はしたり顔で頷いて、泰貴はソファから立ち上がる。そうして、明子をじっくりと見下ろした。話の途中で、何度か目を合わせたはずなのに、明子は泰貴の存在をようやく認識出来たような気分になった。不可思議な感覚は奇人の隣を歩いていた時によく似ている。それなのにまじまじと見つめた泰貴の瞳は、どうしてだか春海にそっくりだった。

「雨森明子」

「は、はい!」

 突然に名前を呼ばれると、背が伸びる気がする。瞬間的な緊張が体中を巡った。

「カミサマの証明は、俺が見せてやろう」

「あんまり降らせちゃ駄目よ」

「大丈夫。三十分ぐらいにする」

 明子の耳に、夫婦の会話が届くのと同時に雨が降り出した。

 気づけば、ぱち、ぱち、と窓の外から音がして、次第に風景を濡らしていくのが見える。薄紫の広野の空が、どこからか浮かんだ雲に黒く覆われていき、夜が早くやってきたような錯覚を起こす。強まっていき、速度を増して地面を叩く水滴が跳ねて、ベランダの窓を鳴らしている。晴れていた空が重苦しい灰色の雲に染められて、晴れやかだった京都の街が、洪水のような雨に襲われていた。

「癇癪じゃなくても、雨なら俺の領分だ」

 突きつけられるような一言が、雨と一緒に明子に降り注いだ。

 龍が癇癪を起こすと雨が降る。奇人の言葉を思い出しながら、まるで全てを洗い流すような雨が、明子の疑心までも流してしまう。



   ※島原ふぶきさん宅の龍神夫婦をお借りしています!ありがとうございます!

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