第2話

「ほんなら、東京から? そりゃあ、ようおいでやす」

 カウンターの向こう側で黒いTシャツのマスターが親しげな笑みを浮かべている。moonのマスターは、唐突に現れた客にも驚かず、引き戸を開いたままおそるおそる店内を見回す明子を柔和な笑みで迎えた。カウンターの端の席を明子にすすめ、そうして彼女がバーに行ったら必ず一杯目はコレ、と決めているソルティードッグを作っている。

「そうなんです。今日が日曜だって忘れてて、ここが見つかって助かりました」と、明子は注文した一杯目の酒を待ちながら頷いた。

 moonの店内は、ほどよい間接照明がぼんやりと灯る薄暗い空間だった。これぞバーという雰囲気を醸し出し、京町家の長細い作りが妙にマッチしている。不思議な空間だ、と明子はチラチラと店内を見渡す。

 日曜日だからか、店内には明子以外の客はいないようだった。八席あるカウンターも、一席だけのテーブルも空席だ。もしかしたら、このマスターはお客を待っていたのかもしれない。明子が営業しているバーを探していたように、マスターもまた日曜の夜更けに酒を飲む客を待っていたのかもしれない。そう思うと、一見さん計画は正解だった、となんだか満足感が押し寄せてくる。

 持っていた傘や鞄を隣の席に置き、煙草に火をつける。すると同時に灰皿と、頼んだばかりのソルティードッグか明子の前に差し出される。

「日曜はこのへん、みいんな閉まってしまいますから。うちも常連さんが来てくれるぐらいやしねえ」マスターは間延びした京都特有の話し方で、明子に声をかけ、「京都ははじめてですか?」と続けた。

「いえ、何度か遊びに来てます。といっても、東京なので、そんなに多くないですけど」

「一人旅ですか?」

「はい。たまたま、休みが上手く取れたので、何処かに旅行に行きたくて」

 煙草の灰を落としながら、ソルティードッグに口をつける。ほどよいアルコールと果実の香りを舌で転がしていると、妙に饒舌になれる気がした。ざらつく塩が溶けていき、先に夕飯と一緒に呑み込んだ胃の中のアルコールと混ざっていく。冷めたと思っていた火照りが徐々に返ってくる。美味しい、と素直に思える酒に出会ったことを確信して、明子は心の中で小さくガッツポーズをする。町家造りのバーなんて、東京ではなかなか見つからない。存在するかも不明だ。何気なく差し出されたコースターも小さな着物の形をしていて、京都を感じることが出来る。

 この旅に出る前、明子は漠然と「旅行がしたい」と思っただけだった。職場がお盆休みの代わりに、秋のこの季節に少し長い休みをくれたのがきっかけで、京都を選んだのは見知った知らない土地だからだ。何度か訪れたことがある土地は、新しく訪れる場所よりも緊張しないだろうと思ったからだ。

 明子は自分の選択が間違っていなかったことに安堵する。そうだ、間違っていない。今、すごく楽しい。口の中に残るアルコールと煙草の匂いを感じながら、明子は薄く笑った。

 マスターは、いつの間にか洗ったばかりのコップを長い布巾で拭き始めている。明子の心中までは察していないだろうが、相変わらず柔和な笑みを浮かべたまま、小さく彼女の言葉に頷いていた。

「でも、今日は雨すごかったでしょ。観光には災難な日やったんと……」そうマスターが言いかけたかと思えば、彼は視線をmoonの入口である引き戸に向ける。明子もつられるように、紫煙を吐き出しながら、そちらへと視線を流してみる。

 すると唐突に、チリン、と一つの音がした。

 まるで鈴のような可憐な音で、しかし間延びするように脳に響く。古都の夏に広がっていく、特有の風鈴のような音だ。ガラスに打ち付けられカンカンと鳴るのではなく、陶器を優しく叩いたような耳心地の良さが充満する。

 でも、一体何処からだろう。明子は毒素の篭る煙を吐き出しながら、ぼんやりと考える。店内の軒に、風鈴が吊り下がっている様子はなく、そんな音が出るようなものも見当たらない。それでも確かに聞こえた音に、明子は不思議な感覚を覚える。しかし、その疑問は次の瞬間には、特に気にならないものとして、彼女の中で処理される。それは、もっと可笑しなものがmoonの引き戸を開いたからだ。

「マスター。こんばんは」

「よう、おいでやす」

 訛りのあるドラマのような台詞は、どうやらマスターが客を迎える時の常套句らしい。しかし、それよりも明子は目を瞬かせて、引き戸から店内へ足を進める彼を見つめた。

 おそらく、moonの新たな客であるのだろう。マスターに親しげな声をかけているあたり、常連客なのかもしれない。しかし、彼は実に珍妙な格好をしていた。

 黒いジーンズに灰色のポロシャツ、一見にして身長は高いように見える。黒い髪の天辺が戸の上部にぶつかりそうだ。ジーンズから伸びる足先は下駄に乗っかっている。男物の大きな下駄だったけれど、特に不思議なことなく、それだけなら明子は驚いたりしなかった。いかにも日曜を安息に使い果たした一般的な男性が、夜な夜な気まぐれに酒を煽りにきたのだろう、と世間的な思考で気にも留めなかった。しかし、男の顔が問題だった。いや、顔というよりは、顔の上に乗っかる面が群を抜いて男の奇抜さを引き立ていた。

 それは京都のお土産屋で、よく見かける狐面だ。紙よりも厚さがあって、狐を模した真っ白な面に、細いツリ目とにんまりと笑みを浮かべる唇に、朱い隈取が描かれている。少し不気味な様子が、日本の妖怪文化を示しているような、何処か神がかった神秘的な雰囲気を持ち合わせているような、そういう印象を抱かせる。明子はよく土産屋で壁にかけられた、そういう類のお面を眺めては「外国人が買っていくのだろうか」と首を傾げた。そういったお面の類は、美術館や能舞台で見るならともかく、社会人である明子の日常には縁遠いものだったからだ。一般的に、世間的に、お面をつけて外を闊歩する人間は、現代社会では奇妙だ。

 マスターと二、三の言葉を交わしながら、店内をずんずんと進む男は、まさしく奇妙で奇抜な男だった。彼はmoonに入ったからといって、お面を取ることもなく、さも当たり前のような動作で明子の隣に腰を下ろす。そうして、「竹鶴をロックで」と簡潔な注文をしてから、驚いたまま目を丸くする明子を見下ろした。

「こんばんは。初めて見る顔だ」と、まるで親しげに明子に声をかける。

「……、あ。こんばんは?」

 数秒の思考停止の後、明子はつられるように会釈をした。

 しかし、饒舌になっていたはずの舌はこれといって動かずに、明子は狐面の男を凝視したままだ。煙草が火に焼けて、ゆっくりと短くなっていく。

「そんなお面をつけるから、お客さんが驚いてしまうんですよ」まるで会話に困る明子を助けるように、マスターがウイスキーのグラスを差し出しながら苦笑する。

 丸いロックグラスを受け取った男は、「ああ」と短く納得したように呟いてから、困ったように後頭部をかいた。そうして、もう一度停止したままの明子を見る。

「驚かせて申し訳ない」狐面の奥から、そんな声が届いてきた。

「あ、いえ。こちらこそ、ジロジロ見てしまってすみません」

「いえいえ。ちょっとばかり変に見えるかもしれないけど、こうやって言葉が通じるのでご安心を」

 そう冗談めいた口調で告げるもので、明子はくすりと笑ってしまった。おそろく、目の前の奇人は自分を安心させようとしているのだ、と気づいたからだ。そうなれば、これは東京でもよくあるバーでの出会いというやつだ。こうして旅先でまで、酒を求めてふらつくぐらいには、明子は酒を好む。どこでもこうしてバーに足を向ける。そうして、何故かこういったお酒の席というのは偶発的な出会いをすることがある。初対面の人間と会話をするということに、明子は全くストレスを感じない性質だった。

 狐面の男は、明子が笑ったことに安堵したのか満足げに頷く。彼はようやくカウンターに向き直り、小さくお面をずらしてから、コースターの上に乗るウイスキーを一気に飲み干した。「もう一杯」と、特にアルコールの回った様子もなく、グラスをマスターに返すのを皮切りに、カウンター越しの会話は始まった。

 つまるところ、狐面の奇人はmoonの常連のようだった。くだんない話をつらつらと繰り広げる二人の声をBGMにしながら、明子はソルティードッグを飲み干して、ジン・バックを注文する。会話を中断したマスターに辛さを聞かれ、「辛めの薄め」と答えてから、また煙草に火をつけた。moonの中にいると、時間が酷くゆったり流れているような気がする。実際には、不変的に時は刻み続けているのだろうけれど、これは体感時間の問題だ。

 美味しいお酒を飲みながら、煙草を吸う。店が薄暗くて、あまり騒がしくない。それだけで、明子の体はリラックスして、なんだか心地良いような、それでも高揚感のあるような、そんな気分になる。

 東京にいると、ずっと働き詰めで忙しないからか。バーで酒を飲む時間、というものが一種のストレスの解消法なのだと、明子は自分で知っていた。

 ほう、と煙を吐き出しながら、ゆっくりと深呼吸をする。指に挟んだ煙草の灰を灰皿に落とし、呼吸を繰り返す。ぼんやりと視線を定めるわけでもなく、カウンターの木目を眺めていると、隣にいる奇人に肩を叩かれた。

「あの、申し訳ない。煙草を一本分けてもらないだろうか」と、狐面の奇人は本当に申し訳なさそうに言う。

 どうやら煙草を忘れてきたらしい、というのが雰囲気でなんとなく伝わってきて、明子は考える前にカウンターの上に置いていたタバコケースを持ち上げる。

「どうぞ。もし良かったら、好きなだけ吸ってください。ここに置いておきますから」

 先に取り出した一本を狐面の奇人に手渡しながら、煙草を挟んだ手で、丁度彼との真ん中あたりにタバコケースを置く。すると、お面を被っているにも関わらず、些か奇人が喜んだように見えた。

「有難い。どうにも酒を飲むと吸ってしまいたくなる性分で」

「ああ、わかります。私もそっちのタイプです」

 短く乾いた音を立てるライターで火をつける奇人に軽やかに答え、明子は微笑する。アルコールが良い具合に脳を溶かしているようで、舌は滑らかに回った。喫煙者特有の感覚を隣の席の男という共有していることが、単純に小さな嬉しさに繋がっている。

 狐面の奇人は紫煙をぷかぷかと吐き出しながら、明子の荷物を盗み見た。大きなバッグと濡れそぼった傘は、旅行者特有の荷物といえるだろう。

「京都には観光に?」

「はい。東京から。ちょっと長いお休みを頂いたので」

「今日は大変だっただろうに。ずっと大雨が降っていたから」

「そうなんです。ついた途端に大雨で。まあ、台風が近づいてるらしいから、当然なのかもしれないですけど」

 大袈裟に明子を憐れむ奇人にくすくすと笑ってしまう。

 京都旅行の始まりは、天気だけを捉えるなら最悪だったと言わざる得ない。新幹線が京都駅に近づくにつれ、窓に打ち付ける雨が酷くなっていき、まず嫌な予感がした。東京から約二時間の移動を終えてみれば、京都駅は観光客でごった返し、外はバケツをひっくり返したような大雨だった。旅行には向かない天気であることは、一目瞭然で、しかし踵を返すには遠い距離で、明子は京都駅に降り立った瞬間に、自分の不幸を嘆いた。

 秋の中盤である季節は雨が多い。気候の変動で、空に秋雨前線がやってくるからだ。今年は特に、本来なら八月にやってくるはずだった台風が、何故か九月にずれ込んで猛威を奮っている。旅行には全く適していないのだけれど、今度いつ休みが取れるかも分からず、いつ京都に行きたいと自分が思うのかも分からないのだから仕方ない。

 雨を垂らす分厚い灰色の雲を見上げながら、京都駅で明子が思ったのは、軽い失望と「何がなんでも決めたスケジュールをこなしてやろう」という決意だった。

 結果的に、昼のうちに訪れた鞍馬山は大雨の勝ちだった。降り続ける雨の中で、明子はバスを乗り継ぎ、歴史深い鞍馬を歩き回ったけれど、大雨の前では駅で買ったビニール傘は役に立たず、途中で突風に煽られて骨折した。おかげでサンダルも、ズボンも、見事にずぶ濡れだ。それでもなんとか、堪能し尽くした頃には雷まで鳴り出して、仕方なく予約していたホテルに早々と引っ込んだ。本来であれば、ホテルからほど近い、二条城や神泉苑といった観光地も回るはずだったのだけれど、チェックインした時の明子は、濡れ鼠で化粧は落ち、浮浪者のような姿だったに違いない。

「それで、夜の予定ぐらいはこなそうと思って、バーを探し回ってたんです」

「それは大変だったね」

 京都観光の思い出を語る明子に奇人は同情したような口調で言い、新しいウイスキーの入ったグラスに口をつけ「全く龍にも困ったものだ」と、小さな溜息を吐き出す。

「龍?」

 アルコールを喉に通した奇人の、聞きなれない言葉に明子は瞬いた。

「そう。龍だ。今日の大雨の奴の仕業だ。奴ときたら、気に入らないことがあると、すぐに雨を降らすものだから」

 うんうん、と一人納得する狐面の奇人を、明子はぽかんと口を半開きで見上げている。言っている意味がよくわからない。

「ああ、そうか。今ではそういう風には言わないんだったね。いいかい、この古都には色んなモノがいるんだ。人にはちょっと難しいかもしれないけど、鞍馬山には未だにいけ好かない天狗が住んでいるし、嵐山には龍が我が物顔で居座っているし、伏見には聡明な狐がいる」

「そう、なんですか?」

「ああ。そういうモノは大抵、人との領分を違えているから目には見えないものだ。だがまあ、こうしてなんなりと影響というものは出てくる」

 狐面の奇人はやけに自慢げにそう語る。明子はなんとなく「なるほど」と納得した。

 東京に比べて、京都は不思議な土地だ。歴史的に見ても、国内の古都というものは、大抵焼かれて終わってしまう。都市や都が移るたびに、日本人は何故か町を抹消する。だからこそ、京都は貴重な遺産であり、こうして観光の目玉となっているのだと明子は考える。

 社寺が多いだけでなく、街全体が古い。現代人は過去の唯一残ったともいえる遺産を大事に残そうとし、そこには伝承や伝説が幾つも残っている。だから、人間ではないものが闊歩しているという可笑しな話も、相応しい町のように思えてしまうのだ。古い町並みは何処か懐かしくもあり、今では感じることの出来ない雅を残し、しかし不気味でもある。そういう違和感が確かに京都にはあるのだから、そういったオカルトな存在がいても、不思議ではない気がした。

 普段の明子であれば、きっとそんなふうには思わなかっただろう。ただ、今は旅行中で、しかもアルコールが入っている。機械的なビルが立ち並ぶわけでもなく、決まった時間に満員電車に乗るような忙しない日常とは、切り離された空間だ。アルコールの熱に浮かされるように、静かに興奮している明子の脳は、日常の考え方なら淘汰してしまうだろう妄言ですら、受け入れてしまうように痺れている。

 それに、なんだか台風のせいだ、と言ってしまうよりは、龍の仕業だ、とのたまわった方が、何倍にもロマンが溢れているように感じた。目の前にいるのが、絶対に出会えない狐面の奇人というのも、要素としては面白い。現実離れした男が、現実離れしたことを言う。そこに違和感はない。

「じゃあ、その龍さんは、今日はきっと凄く腹の立つことがあったんですね」

「そうに違いない。アレはへそを曲げると、いつもああだ。きっと想い人と何かあったんだろう」

 気を悪くしないでやってくれ、と奇人は旧友を庇うような口調で言った。それがなんだか可笑しくて、ジン・バックで喉を潤していた明子は肩を揺らして笑う。アルコールが回っていると、箸が転げるだけでも面白いと感じてしまう明子を、奇人は不思議だと思ったのだろう。隈取の描かれた狐面が、素っ頓狂な顔をしているように見えた。奇怪な奇人に可笑しなものでも見るような視線を向けられていることが、更に面白くて、明子はついにケラケラと声を上げて笑う。

「ああ、ごめんなさい。私、笑い上戸なので。今日は美味しいお酒と面白い人に出会えたから、なんだか楽しくなっちゃってます」

 アルコールが回っているのだとアピールする明子の口調は、酔っているとは思えないほどにハッキリとしていて饒舌だ。頬は少しも桃色に浮き上がっていない。まるで素面のような表情であったけれど、明子は確かにほろほろと酔っ払っていた。

「今日の大雨をそんなふうに言われると、もう文句は言えないですね。あのざざ降りが、誰かの恋愛模様の表現方法だとするなら、旅先でそういう現象に出会えたことに感謝しなくちゃ」

「ほう。君は俺の話を信じるのか」

「お酒入ってますからねえ。でも、そう思うと、今日の雨も無駄じゃなかったと思えます。迷惑だって顔を顰めるよりは、後味がよっぽど良い」

 また新しいジン・バックをマスターに頼みながら、煙草を吸う。泥酔するわけでもなく、かといって素面というわけでもなく、ほどよく胃の中を温めるアルコールに酔っ払う。今朝の不幸と災難の先にたどり着いたのが、雰囲気の良い面白可笑しな奇人つきのバーというのなら、この旅行の初日は成功だ、と確信する。大雨の中で、鞍馬山の突風に傘を壊されずぶ濡れになったことも、二条の下りてきてから雷の伴う豪雨で歩道が陥没してサンダルが泥だらけになったことも、やむなく予定を変更してホテルで早々にシャワーを浴びる羽目になったのも、気にならなくなる。

 ああ、今日が日曜日だと失念していた失敗もあったな、とつい数時間前までの出来事でさえ、なんだか遠くに感じてしまう。

 ふむ、と何から考え込むような狐面に見下ろされながら、明子は滑りの良い口を動かす。

「何事も後味が良い方が好きなんです。自分の選択が間違ってなかったって思いたいじゃないですか。だから、貴方のおかげで、私の京都旅行の一日目は大成功になりました」

 ありがとうございます、と付け加えて、明子は屈託なく笑う。

 天候には恵まれなかったけれど、それでも十分に鞍馬山は堪能出来たのだし、スケジュールの変更もあったけれど、京都の町並み散策はなんとなく完遂した。バーを探し回って歩く間に、長屋や町家と現代造りの民家が混在する京都を練り歩くことが出来た。そうして可笑しな狐面の奇人が現れて、面白いことを言うのだから、土産話もまた増えた。

「君は随分と変わった娘だ。夢想家のようなこと言う」

「夢みたい年頃なんです。子供の頃より、現実ばっかり見えるようになったからかもですけど」

「現実は辛いのか?」

「辛い、とは断言出来ないですけど。辛いこと六割、良いこと四割ぐらい」

「半々じゃないのか」

「世知辛いって言いますから」

 奇人はまた、興味深げにほう、と呟いてから、ウイスキーを煽る。日本製のウイスキーばかり飲んでいる狐面の下が、酔っ払って頬を赤くしているのか、それとも素面のままなのか。はたまたどんな表情をしているのかすら、明子には分からなかったけれど、それでも特に気にすることはなかった。

 アルコールのおかげで増える煙草の本数のように、舌も言葉もすんなりと喉元を通り過ぎてくる。少し冷静になると喋りすぎかとも思ったけれど、気分は随分と良い。だから、何杯目かのジン・バックのグラスに口をつけた時、狐面の奇人の唐突な質問にも軽快に答えてしまう。

「君は明日も、この古都にいるのか」と、奇人は妙に真剣な口調で言った。

「あ、はい。三泊四日のつもりなので、明日も京都見物です」

「明日は何処へ行くんだ?」

「清水の方に。祇園を抜けて、町を見ながらゆっくり産寧坂を登るのが目標です」

 ハキハキと明子が頭の中の予定を伝えると、奇人は「なるほど」と呟く。そうして何かを考えるような仕草をしてから、奇人は顔を上げる。ウイスキーが半分ほどなくなっていた。

「なら、俺が案内をしよう」

 それは唐突な申し出で、明子はまた目を丸くする。言葉の意味を理解するのに時間がかかったのは、動くはずのない狐面の口が動いたように見えたからだ。細い目と同じく朱色の隈取の描かれた唇が、人のように動いてにんまりと笑った気がした。二つの驚きが同時にやってきて、明子はなんだか末恐ろしいものを目の前にしているような気分を味わうけれど、冷静になってみれば、お面の口が動くことなどありえない。

 そんなに酔っ払っているのだろうか。バーに来る前の夕食と、moonで飲んだ酒を咄嗟に勘定してみても、東京でお酒を飲みに行く時よりも、量はずっと少ない。

 ならば、楽しい時間に浮かれているのだろう。明子は、そう思い直してみる。龍の話なんてものを聞いたから、きっとアルコールで麻痺した脳が、いつも以上に震えているのだろう。夢を見たい年頃なんて言葉に出してしまったから、きっとそういう都合の良いように酒が回っているのだろう。そう確信するほどに、明子は自分がこの瞬間を楽しんでいることに気づく。

 奇人は「君が迷惑でないのならだが……」と明子が答えないことに不安になったのか「俺はまあ、ずっとここに在るのだから、旅人の君の案内ぐらいならお安い御用だ」控えめな口調で告げる。

 そこでようやく、明子は自分の答えるべき質問の意味を理解した。奇人の申し出は、明子にとって酷く重大な意味を持つような気がして、思わず言葉が飛び出す前に煙草を吸う。先ほどまで「龍と大雨の夢のようなおはなし」の中にいた明子は、アルコールの熱に浮かされながら、現実に引き戻されるような奇妙な感覚に足がむず痒くなった。

 それは、見知った知らない土地で奇人に一日を預けるという行為が、世間一般から見て、正しいのか、正しくないのかというせめぎ合いだ。イエス、と答えることが、一人旅をする成人女性のしてもいい判断なのか。人として正常なのか。それは正解なのか。明子は紫煙を深呼吸の要領で吐き出しながら考える。そうして、自分の中にイエスと答える可能性があることに気づいて、今日何度目かの驚きに出会う。

 普通なら、考えられないことだ。知り合ったばかりの男性と何処かに出掛けるという行為が、そもそも明子の中ではありえないはずのものだった。自身の中のそういった行為は、軽はずみで慎重ではなく、失敗を招くことが多いのだと判断される。例えば、こうしてバーで知り合った男と、明子は出掛けたことはなかったし、連絡先の交換をしたこともない。清潔な女を演じるつもりなどなかったけれど、それは後々のことを考えれば酷く面倒だったのだ。連絡先を交換したり、個人的な関係を持つということは、その人と一夜の談笑の先に、友達だとか、恋人だとか、知人だとか、そういった関係性が待っているということだ。酒の席でそういった人間関係を構築することが、明子には大きな冒険に感じられ、正しいとは思えなかった。誰の基準なのか分からない明子の常識は、彼女の中であまりにも不変的に行われてきた選択だった。

 それなのに、明子は今、迷っている。それは何処かで自分が興味を持っているということだ。面白可笑しな奇人と話していることを楽しんでいるということだ。もっといえば、明子は奇人と離れがたくなっているのかもしれなかった。たったひと時のバーでの出会いは、飲み終えれば終わってしまう。相手のことなど知らずに、次はもうやってこない。通い慣れた飲み屋であれば、いつかまた出会うこともあるかもしれないけれど、ここは京都だ。三日後に東京へ帰る明子は、おそらく二度とmoonに足を踏み入れることはないだろう。元々そういうスケジュールを組んでいる。

 そう思うと、明子は途端に寂しさを覚えた。奇人のことを知りたいと好奇心が疼きだし、それが不思議でたまらないのに、すんなりと受け入れてしまう。面白いのだ。この狐面の奇人は、まるでこの古都のように、何処か懐かしくもあり、不気味でもある。その感覚を手放してしまうのが惜しいと思っていた。

「じゃあ、お願いしてもいいですか」

 明子は、何度目かの深呼吸と共に煙を吐き出してから言った。なんだかものすごく恥ずかしいことを口走ったような気分になって、無闇にジン・バックを煽る。アルコールが回っても体温の上がらない頬が、にわかに赤みを帯びていないか心配になる。

 明子が考えている間に、奇人は既にウイスキーを飲み干していた。空になったグラスに氷だけが残り、何本目かの明子から貰った煙草を灰皿に押し付けている。マスターが甲斐甲斐しく灰皿を交換してくれるから、一体何本吸ったのかは分からない。明子の明確な答えが出てきて、奇人は立ち上がる。そうして、ジーンズのポケットから小さな鈴を取り出した。鉛色の小さな鈴には、橙と朱で編まれた紐が伸びている。奇人が紐の部分を持ち直して、明子に差し出すと、中空を飛び跳ねる小さな玉がシャン、と小さく音を鳴らした。

「これを差し上げる。明日も、君の旅が後味の良いものなるように尽力しよう」

 そう言って、半ば明子に押し付けるような形で奇人は鈴を白い手に握らせる。突然の贈り物に、明子は口を半開きにして奇人を見上げたが、それが可笑しかったのか彼は小さく喉元で笑い、体を反転させる。「ご馳走様」カウンターに向けて奇人が言えば、全てを見越していたようにマスターが「またお越しやす」とさり気なく挨拶を交わしている。

 手元にある鉛の鈴と奇人の背中を交互に見てから、ようやく明子が口を開こうとする。「あの……」と声に出した時、また間延びした鈴の音が店全体に響き渡った。明子の持っている鈴ではない。澄んだ風鈴のような音。余韻の残る美しい鈴の音に、瞬間的に明子の脳はアルコール以上の麻痺を覚えたような気がした。

 それでも、奇人は真っ直ぐにmoonの出口へと足を進め、頭をぶつけそうな引き戸の前にたどり着いてようやく立ち止まる。白い狐を模した朱色の隈取の面が、薄暗い出入り口に浮かび上がる。ぐるり、と首だけで振り返る奇人の姿に、明子はどことなく奇妙な感覚を知覚する。けれど、それがなんであるのか正体は分からない。ただ、体中の神経が一つに凝縮してしまったような、不可解な緊張だった。

「帰るなら、もう少し時間を置くといい。また雨が降るだろうから」

 言い残して、狐面の奇人が夜の京都へと消えていく。引き戸が閉められても、磨硝子の向こうに、ぼんやりと奇人の影が遠ざかっていくのが映っていた。その影が消えるまで、明子は何故かその背中から目が離せなかった。

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