余談として

幻の卒園式

 ここから数話分は、リハビリテーション入院の様子を記す前に、あくまでも余談として書き残していこうと思います。


 おそらく、まだ書いてはいないとは思いますが、悪性リンパ腫が見つかり、緊急入院、化学療法が始まった時点で、息子は通っていた保育園を退園していました。息子の病院へ通う日々の中で時間を作り、保育園へ訪問したのはまだ12月になってはいなかったと記憶しています。担任の先生方に状況を説明し、これから市役所に退園の届けを提出にいく旨を説明しました。先生方は一様に号泣し、同席した妻も号泣し、わたしも連れて状況を説明する言葉に、何度となく詰まって、気をしっかり持たねば、と言い聞かせた事を覚えています。


 その時、本当に勝手な物言いで、いま思えば、何故そのような話をしたのか、不思議に思うのですが、どんなタイミングでもいいので、息子を同級生と会わせる機会を設けることは出来ないだろうか、とお願いをしました。勿論、その時には、本当に回復するのかどうかも分からず、そんな機会は永遠に来ないかもしれない、と思ってもいました。おそらくは、そんな状況だからこそ『明日の約束』が息子には必要だと思ったのだろう、と思います。どんなに小さな約束でも、それを楽しみにする気持ちが僅かにでもあれば、人は生きたいと強く思うのだそうです。これはわたしの先輩に当たる方で、自殺未遂経験者の方の受け売りですが、そんな楽しみに出来る『約束』を、息子の為に用意したいと思ったのだろうと思います。


 もうひとつには、これは先生方にも説明した所ではありますが、息子と接していた、同じ部屋の子ども達に、気持ちの整理を付ける機会は必要ではないか、と考えたからでもありました。ある日突然、ひとりの同級生が来なくなった。先生に聞いても、何も答えて貰えない。そんな状況では、それまで6年近くの時間を共に過ごしてきた子どもたちの気持ちに、整理が付かないのではないか。それは今後の成長の中で、何らかの影を落とす結果になるのではないか。妻と話し合い、そんな言葉をわたしは形にしました。息子が保育園と深く関わっていない子どもであれば、こんな事までは考えなかったと思います。しかし、『息子がいるおかげで、うちの子も保育園に通う事が出来るようになりました』という親御さんが少なからずいる状況では、そこまで考える必要もあるのではないか、そんな風に思っての発言でした。


 おそらく、そんな事があったからだとは思いますが、わたしが保育園に、息子の治療終了と退院を報告し、下肢の状況やリハビリの必要がある為、転院する旨を説明すると、言葉を用意していた様に、保育園の卒園式に招待されました。勿論、様々な制約のある保育園での事ですので、書類上正式に退園している息子が、本当に卒園式に出る事が出来る訳はありませんでした。その為、卒園式後の午後、同じく保育園内で催される食事会に、可能であれば出席して頂きたい、との申し出でした。わたしは二つ返事で了承し、当日を迎えたのでした。


 我が家では息子を迎えに行くのはわたしの役目でした。息子と家に帰り、夕食を作り、食べ、風呂に入る。6年間、ほぼ毎日通った道を車で走りながら、いろいろな事を思い出しました。息子は死の縁から生還し、代償の様に下肢機能の全てを失った。こんな形で卒園式を迎えるという事を、想像していた筈もなく、喜びと哀しみと、それ以外にも様々な感情が入り乱れていました。どんな顔で出席するべきなのか決めかね、保育園に到着しましたが、そんな心配は直ぐになくなりました。玄関先で担任の先生方、その他、保育園の全ての先生方に迎えられた息子が、余りにも息子の、そのままだったからです。車椅子に乗っている、身体はコルセットで固定され、不自由な様子、それでも息子は、病気になる前の息子のまま、久しぶりに会えた先生方を前に、少し恥ずかしそうにしながらも、元気な声を上げて笑いました。


 通いなれた自分のクラスの部屋に通されると、そこでは同級生達が待っていました。あっという間に取り囲まれ、いろんな話をしている様子が余りにも日常でありすぎて、先生方の、子ども逹への配慮が感じられました。おそらく、子ども逹へ、息子がどんな状況にいるのか、しっかりと話を重ねて来て下さったのだろうと思います。正しい知識を、例え難しい内容だとしても、ちゃんと伝える事。全てが分からなくても、子どもはちゃんと理解をし、その過程が信頼を生むのだ、という事は、息子が闘病中、主治医や看護師の方々から教わった事ですが、それと同じ事が、息子の同級生にも起きている様に感じました。


 園長先生の計らいで、他の子ども逹と同じように、息子の分の保育証書を用意して頂いていました。園長先生が涙ながらに読み上げ、息子は証書をしっかりと受け取りました。自分の子どものように心配してくれた同級生の親御さん逹、保育園の先生方々と一緒に、殆どを全ての人々が涙を流しながら喜びました。この時ばかりは、わたしもそうでした。


 証書授与後、一言を先生から求められた息子は、しっかりと前を向き、50人からいたであろう人々を前に、その時の思いを述べました。


「急に病気になって、手術や治療はすごく辛くて、大変だったけれど、今日、皆にまた会えて良かった。足はまだ動かないけれど、皆にまた会えて、おれは運がいいと思う。今日は本当にありがとうございました」


 息子が話した言葉を、なるべく忠実に書き記すと、この様な内容を、懸命に自分自身で言葉を探しながら、しっかりと口にしました。まさか言葉を求められるとは思ってはいなかったし、当然ながら、言葉を用意していた訳ではありませんでした。一体、誰の子かと思いました。その堂々たる態度。病気の経験が、息子を急速に大人にしてしまったのだろう、と思いました。頼もしい、喜ばしい、と思う反面、これからまだまだ親と子として向き合っていく時間のあるわたしは、より一層、性格の良いところを伸ばし、指摘すべきを指摘していかなければならない、と考えた瞬間でもありました。


 兎に角にも、こうして息子は幻の卒園式を迎え、その後の食事会にも楽しく出席しました。この時はまだまだ身体に制約があり、短時間の出席でしたが、それでも息子は心から楽しそうに笑ったのでした。何処かの項で、わたしは「闘病は当たり前の日常を取り戻す為の闘い」と書きましたが、息子は確実に、息子の日常を取り戻そうとしていました。

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