入社二年目

 今日から、入社二年目に突入する。社会人として、会社の一員として、バタバタしている内にあっというまに一年が過ぎてしまった。今日からはもう「新人なんで」という言い訳も甘えも通用しなくなる。正直、この一年で立派な社会人に成れたのかと問われれば全く自信はない。いや、「自信がない」などと言うこと自体が甘えかもしれない。

 そんなことを思いつつ出社すると、休憩所の掲示板に張り紙がされていた。ちょうど同期の総務人事課の子がそれを眺めていたので、横から私も覗き込んだ。

「何の掲示?」

「人事異動の通達だって。」

「へえ…。」

 掲示物には、数名分の名前、現部署、異動先部署名が表になって記されている。そのうちの一人が「林原 修  本社総務部課長  大阪営業所」となっている。

「あれ、この総務部課長って、林原じゃなくて林でしょ?」

と私が言うと、同期は掲示物を見たまま言った。

「え、林原だよ。だれ、林って。」

「は?いや、林課長、でしょ?総務部のメンタルヘルス対策担当の・・・。」

「メンタル担当は畑中課長か吉田課長補佐だけど。…誰だよ、林って。」

 人事課に所属する子の言うことだから間違いないはずだ。私は当然のことながら、驚くしかほかにない。

「まさか。だって私、ずっと・・・」

 そう言いかけた時、後から出社してきた社員達が何人も掲示物を見に集まってきて、同期の子はその波に紛れて事務所へと行ってしまった。

 一年もの間、私はいったい誰にメールを送っていたのだろう?思い起こせば、使い方もよくわからないまま社内メールのアドレス帳にある課長を選んで送ったのが最初だったような気がする。でも翌日にはちゃんと返事がきていたから、すっかり安心してずっとそこに送っていた。原則として社内の人にも開示しないというから、あえてメールの内容云々についての話題を誰かとする機会もなかったから、正しいも間違いも確かめたことはなかった。それでも、もし間違った人に送っていたとしたら、正しい課長から「ちゃんと隔週でメールしろ」、と注意を受けるに違いない。一体どういうことなのだろう。

 私は自分のデスクに座るとすぐにPCの電源を入れた。早く起動してほしい。社内メールのアドレス帳を確認しなければ…。こんな時に限って、システムアップデートとかでなかなか起動しない。すると、始業の合図と同時に大会議室に集まる様にと放送が入った。辞令交付を行なうためだ。PCがログイン画面になる前に始業の合図が鳴った。仕方なく、大会議室へと向かった。

 この事業所内での大きな異動はなく、私の所属する製造技術課では去年までの課長が定年を迎えて嘱託となったため、先輩が課長になり、新人の男性社員が一人配属になった。所長から簡単な新年度に向けての話が終わると社員が一斉に事務所や現場へと動き出した。ちょうど事務所に戻る途中の廊下で元課長の中田さんが前を歩いていたので声をかけてみた。

「あの、突然ですけど、社内に林さんっていませんか?」

 すると、彼は左の眉を吊り上げて、私に視線を送った。

「…林?」

「ええ。林…課長、なんですけど。」

「林課長って、え、君なんで…。」

 事務所のドアを抜けたところで中田さん宛にかかってきた電話によって、私達の会話は中断させられてしまった。でも、中田さんは、林課長のことを知っているようだ。次の休憩の時に詳しく聞いてみよう。私は自分の席に座り、PCが再起動するよう求めるメッセージにOKをクリックした。そしていつものログイン画面になるのを待つ間に次々と持ち込まれた業務に対応しているうちに、結局、林課長のアドレス確認をするのをすっかり忘れていた。

 翌日になって、中田さんがお休みなのを知った時にようやく林課長のアドレスを確認すべきということを思い出した。さっそくメーラのアドレス帳を開く。林課長のプロパティには、名前も所属も何も登録されてはいなかったが、ドメインはちゃんと社員アドレスとなっていた。少なくとも、社外の全く知らない人に送っていたわけではなさそうだ。「林と言う人は居ない」と言った同期の子が間違ったのだろうか。まてよ、もしかしたら、すでに課長じゃなくて、部長とかそういう肩書が変わっているのかもしれない。もしくは結婚して旧姓が林という人がいるというのも考えられる。…そういえば、林課長は女性だろうか?男性だろうか?男性が奥さん側の姓になる場合だって当然あるのだから、旧姓林、と言っても性別の特定にはならない。よくよく考えると、林課長について何もわからないまま、結構いろいろなことをメールで打ち明けてきた。面と向かって会うことなど想定していなかったが故に、業務に関係ないことまで書いたこともある。それでも林課長はきっちりと返信してくれた。今になって考えると、目の前に林課長が現れたとしたら、かなり気恥ずかしいな…。そんなことを考えていると、隣の部署から仕事のことで声をかけられた。いけない、いけない。ちゃんと仕事に集中しないと、林課長に怒られる。

 そして、更に翌日。私はあえて林課長にメールをすることにした。知らぬ顔して「課長」としたまま送ってみよう。もし肩書が変わっているなら訂正してくるはずだし、担当が変わったとしたらもう返信も来ないか、それ以前に送信エラーとなるかもしれない。今まで疑いもしなかった相手に、何かしらの変化があったのではないかと思うと、何故か不安感に襲われた。何か変なことを書いたら、二度と返信が来なくなったりはしないだろうか。妙な詮索などせずに今まで通りにメールすれば、もし仮に間違った相手であってもそれをわかったうえでずっと丁寧な返信をし続けてくれるつもりなのではないだろうか。

一人でいろいろな状況を妄想し過ぎて疲れてしまった私は、結局、ものすごく無難な内容のメールを新年度一発目として送信した。翌日、林課長からは何の変化もなく返信されてきた。どういうことなのだろう。相談できる相手がいることの安心感も手放したくはなかった私は、あえてそれ以上誰に確認するでもなく、メールを送り続けることとしたのだった。 

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