第3話 萌愛の猫であるが所以

店で会う萌愛は妖艶な猫そのものだ。小さな物事には動じず、ボクが動くのを面白おかしく見ている。時折手を出してみては引っ込めて、ある時不意に抱きついて甘えてくる様は、妖艶な猫以外の何者でもない。

そして彼女が猫であること、ボクが犬であることを思い知らされる。

あるとき、こんな話を萌愛にしたことがあった。

ボクの子供時代に野良犬がまだそこ等辺にいた頃、ボクはほとんどの野良犬に好かれていた。ボクを攻撃してくる野良犬など一匹もいなかった。たくさんの野良犬と遊んだ記憶があった。きっとボクは犬の生まれ変わりなんだと子供心に思ったこと。

それを聞いた萌愛は、すかさずボクに向かい、手のひらを広げて、

「お手っ。おかわりっ。」

を要求してくる。

ボクもそういう遊びは嫌いじゃないので、

「あうっ。」

っていいながら、軽くグーの手をして萌愛の手の上にボクの手を重ねる。

すると萌愛はすこぶる喜んでくれた。

それこそお腹を抱えて笑うほどに。

そんなオーバーアクションの萌愛を見られるなんて素晴らしい。

こんな形でボクの犬であることと萌愛が猫であることが確認できるのである。


また、彼女は毎日出勤しているわけではない。なぜなら、彼女は昼間には別のアルバイトをしているらしいから。どんな仕事をしているのかは知らない。今はまだ知らなくてもいい。わかっているのは、彼女は週に四日しか店にいないということである。

しかも、猫である所以の彼女は、ホームページに記載されている『日、木、金、土曜日』などという、恐らくは自分で立てたであろうスケジュールのセオリーに翻弄されることなく、臨機応変に出勤しているようだ。

もしかして、これだけ妖艶で豊満な彼女がこの店で超人気嬢とならないのは、こういったところに原因があるのかもしれない。

店は嬢がPRと営業をするためのブログのコーナーを設置している。しかし、ここ何ヶ月か萌愛が自分のブログを更新しているのを見たことが無い。もうちょっとマメに更新すれば、見ている客もファンになるかもしれないと思うのに。萌愛はそんなことはお構いなしだ。いちいち更新するのが面倒臭いのだろう。

もう一つ面倒臭がりのエピソードをお話しすると、彼女の源氏名の話がある。嬢たちは一様に源氏名で店の看板となる。もしその名前がボードで示されるなら、それが彼女たちを示すメニューであり、そして源氏名は商品名ということになる。

その萌愛の名前の由来を聞いてみたことがある。

「萌愛ちゃんの名前はどうやって付けたの?どういう意味があるの?」

すると彼女はこう答えた。

「どうするって聞かれて、しばらく考えてたら、社長が『もえ』でどうだって言うから、それでいいって答えた。」

まあ、想像の範囲内として考えられることである。

こういった様々な理由や仕草などで、彼女が猫であるが所以のところを理解できないと、単なる面倒臭がりな女に見えてしまうかもしれない。でも萌愛の面倒臭がりは単なる面倒臭がりではないのである。

しかし、その面倒臭がりが素っ気ない様に見えるおかげで、彼女の人気があまり上昇していないならば、ボク個人にとってはその方がありがたいけどね。


やっぱりなんだかんだ言いながら、一度萌愛の匂いと唇を覚えてしまうと、もう一度あの妖艶な時間を味わいたくなってくる。

ある意味、若葉のしがらみからは既に抜け出せているのかもしれない。

それだけに少しずつ萌愛の魅力に引き寄せられている、手繰り寄せられている、そんな感覚に陥っている気がする。また、それが快感でもあったりする。

麻薬に陥る人の感覚ってこんなもんだったりするのだろうか。

また普通は、こういう店で若い女の子を相手にするときは、店外デートを想定したり、実際に食事に誘ってみたりするものだが、萌愛はあくまでも店の中の萌愛であり、今の段階で萌愛をデートに誘ったりというシチュエーションはボクの中にはない。

とにかく今は店の中で彼女との時間を過ごしたい。逢瀬を重ねたい。純粋にそう思う自分がいる。ボクの中でそういう彼女の偶像ができつつある。

「動かざること山の如し」

そんなフレーズが頭をよぎる。本来の意味や使い方は違うのかもしれないが、ボクの意図に応じて動く彼女ではない。そういうイメージなのである。



そんなボクは萌愛に対する想像を充分すぎるほど膨らませた後に、三度目の逢瀬に臨む。

その日は日曜日だった。


ボクはとある食品加工会社の営業マンであり、すでに三十の坂を中間点まで登っている。

趣味はプランターで野菜を作ったり、草野球を楽しんだりと、比較的健全である。

ヒデさんとは三つ違いの後輩で、とあるイベントをきっかけにコンビを組むことが多くなり、さらに意気投合して飲み仲間となった。

そんなゆるい中年連中がつるんでいるのである。遊びに行ったりすると、まあろくなことはあるまい。特に最近は行動範囲が広がっているような気もする。

つまり、普通のサラリーマンなので普通に土日が休みであるということ。さらには月曜日には仕事があるということ。従って、日曜日の晩にかような店に出動することは比較的イレギュラーな設定である。


この日は、親戚の中では最も仲がよい従兄弟がボクの部屋に遊びに来ていた。しかも可愛い彼女を連れて。

しかもその彼女が夕飯を作ってくれるというのだ。ようは可愛くて料理が上手な彼女を従兄弟が自慢しに来たみたいなもんだ。

「キョウちゃんも早く彼女を見つけなよ。」だってさ。

大きなお世話だ。ボクだって彼女が欲しくないわけじゃないんだから。

みんなで夕食を食べた後は、ボクがクルマで送っていくことになっている。

そして、その後に「ムーンライトセブン」に立ち寄って、萌愛の温もりに浸ってから帰宅しようという目論見だった。

やがて午後九時。従兄弟たちが帰り支度を始め、同時にボクは店に行く支度を始める。ボクがそんな店に行きたがっていることを誰も知るよしはなく。

アパートから従兄弟の住まいまで車で約一時間。そこから店までは約三十分。従って店の前に到着したのは二十二時三十分頃ということになる。


日曜日に店を訪れるのは初めてだった。ちょっとした緊張感を持ちながら、いつもの階段を下り、店のドアを開ける。

「いらっしゃいませ、ご指名は。」

いつもの黒服ボーイがメモを片手にボクに問いかける。

「萌愛さんいますか。」

一瞬黒服ボーイの顔に少し蔭が走った。

「今日はとってもヒマだったので、萌愛さん帰っちゃいました。」

ああ、彼女が猫である所以の出来事である。もっと早い時間に来なければいけなかった。しかし、それは後の祭りである。帰ってしまった以上、もうどうしようもない。

ボーイがフリーででも寄っていかないかと言うのを断り、ボクは即座に踵を返す。

フリーというのは、女の子を指名せずに指名のない女の子を短い時間で何人かを順繰りに廻す方法なのだが、普通はお気に入りの女の子のいる客がフリーで入店することはないだろう。

ただ、やっぱり萌愛は猫だった。

ある意味、納得して踵を返したのだった。



一旦行く気になったボクは次の週末までのんびり待つことはできなかった。

彼女の次の出勤は早くても木曜日、しかし、少しボクなりの目論見があって翌日の金曜日に行く算段をしていた。

さて、その金曜日の晩は仕事から一旦帰宅した後に車で出かけることとする。

若葉がまだいた頃、この店の土曜日のラストタイムに張り付いたことがあった。

土曜日にもかかわらず、意外とラストタイムは空いていた。結局は電車で来る客が多く、最終電車に間に合うように店を出るからである。

ちなみにこの店のラストタイムは深夜の一時三十分。零時を過ぎる頃には店の客はまばらになる。

つまり、その時間帯まで粘れたら、萌愛を独占できるかもと思っての目論見だ。


到着したのは、二十三時三十分。ワンセット四十分だから、ラストタイムまでは丁度二時間、スリーセットとなる。

さすがに前回の事もあるので、黒服ボーイのおにいさんに、

「今日は萌愛さんいます?」と聞いた。

「萌愛さんですね。いますよ。」

先ずはホッとする。最終までいるつもりなので、スリーセット分を先払い。

いつものシートで待っていると、しなしなと足音も立てずに萌愛がやってきた。

「うふふ。今日は遅いのね。」

「どうしてもキミに会いたくて来たのさ。」

「この間も遅い時間に来てくれていたみたいネ。」

「帰ってしまったと聞いてがっかりだったよ。ファンレター送ってたの見てくれた?」

この店ではホームページから嬢あてにファンレターを送れるシステムがあり、先日の空振りのあと、帰宅後にそのシステムから萌愛あてにファンレターを送っておいたのだ。

「見たよ。ありがとう。」

「誰からだってすぐにわかった?」

そういって萌愛の体を抱き寄せる。

いつものとおり、彼女のいい匂いがボクの鼻腔に侵入してくる。

「もちろんわかったよ。ピーマンの苗のことが書いてあったから。」

「で、買ったの?」

萌愛の顔を下から覗く。

「まだよ。忙しいもの。」

この返事はボクの期待通りだった。面倒臭がりの猫ちゃんが、そうやすやすと面倒臭いプランターの作業なんてするはずもない。そんなことより、今夜は先日の空振りを取り戻すべく、彼女の匂いを堪能しに来たのである。

萌愛はボクが要求する前に、唇を提供してくれる。余計なおしゃべりよりも、お得意のキスで相手を黙らせてしまう方が簡単だ。そしてそれが彼女の最大の攻撃だったりするのである。


いつにも増して萌愛のくちづけは熱くて甘い。その甘い芳香に堪らなくエクスタシーを覚えるのである。これを夢心地と言うのだろうか。

それとなく彼女に落ちていく自分がわかる。若葉のときとは少し感覚が違っている。若葉のときはいつの間にかほのかに恋していた。今、萌愛の場合は自ら恋に落ちようとしている。萌愛の唇が、萌愛の胸の膨らみが、萌愛の香しい芳香がボクを誘うのである。

この夜も前回と同じように、熱いくちづけと抱擁による萌愛の匂いを約一時間にわたり充分に堪能できた。一つだけ不満があったとすれば、萌愛の指名がもう一人あったため、ボクの時間が半分に削られてしまったことである。

やはり叶うならば、単独指名の時間の中でまったりした時間が欲しい。しかしこればかりは仕方ないよね。かといってボクだけの指名じゃ萌愛の給料が淋しくなっちゃうから。それは可哀想。

そして、くちづけは甘いのだが、今回だけは少しよろしくない事情が判明する。

このお店は着席と同時にフリードリンクの注文を尋ねられる。ボクはビールを頼んだり、ウーロン茶を所望したり、そのときの気分で注文を変えるのだが、今日はラストまではびこるつもりなので、ここへはクルマで来ている。だから、今日のボクのドリンクはウーロン茶である。

しかし、萌愛との甘いくちづけのとき、彼女の所望しているドリンクを見て少し驚いた。

彼女はレモン酎ハイを飲んでいるのだ。

理由を聞くと、「飲みたいから」とか「これが好きだから」と言う答えが返ってくる。

そう、つまり彼女は一種の飲んべなのである。そこそこ飲んでも酔わないらしい。

ヘルプも含めて、今まで何人かの嬢を見てきたが、アルコールを飲んでいるのは萌愛ただ一人だった。

それはそれでいいんだけどね。

ただ、クルマで来ていたので、アルコールが伝染するのだけはヤバかったかも。

結果的には何もなかったから大丈夫だよ。


思えば彼女たちも、好きでもない男に唇や体を提供するのである。最終的な操は守るとしてもだ。行為そのものは痴漢と同じ。普通に考えれば気持ちいいわけなんてないのだ。それでも彼女たちは笑顔で接してくれる。

だから、できるだけいい給料をあげたいよね。ボクが直接あげるわけじゃないけれど。

萌愛の場合、それを紛らわせるために飲んでるのかなと思ったりする。

もしそうだとしたら、ちょっとブルーになるかな。いろんな意味で。


ところで、前回も今回もそうだったが、萌愛との時間は割りと無口だ。萌愛の面倒臭がりのおかげである。ボクはそこを理解しているつもりなので、彼女が面倒臭そうな会話はなるべくしない。それよりも、まったりとしたくちづけとまったりとした抱擁を楽しめばいいのである。ただし、ボクは匂いフェチなので時折彼女の首筋の匂いと胸元の匂いを求める。ちょっと面倒臭そうな顔をするが、所望している相手が匂いフェチだとわかってくれているボクなので致し方なしとあきらめてくれたようだ。


こうしたやり取りがボクと萌愛のこの店でのデートだった。

それはそれで楽しかった。ボクも料金を払って店の中で行うデートだと徐々に割り切れるようになってきた。

それでも萌愛が店を辞めるときには、以前の若葉との間で感じた様なやりきれない衝動がボクを襲うのだろうなと思う。

それはそれで今のうちにあきらめておこう。少しは傷心も小さなもので済むだろう。

この時分のボクは萌愛との逢瀬をこのように考えていた。これからやってくる運命の扉が開かれるとも知らずに。

終電の時間が迫るころ、やはり電車族はすごすごと店を去り始める。二十三時四十分あたりを過ぎると、日曜日の夜は思った以上に静まり返る。

ふとして辺りを見回すと。客は誰もいない。フロアはボクと萌愛との二人だけの世界になっていた。久しぶりにまったりと過ごす時間、薄紫色のライトとBGMだけがボクたちを包んでいる。

やがて流れるスタンド&バイのコールまで一時間三十分、萌愛の匂いを体中に充満させる。

そんな時間だった。



まんじりともせず五月の夜は幾度となく萌愛の温もりが思い出された。

一人でベッドに横たわっていても、ときおり彼女の匂いと甘いくちづけがボクの妄想として目の前に映し出されていた。

本来ならば月に二回。それがボクの小遣いで許される範囲なのだが、五月の夜はとても淋しかったので、どうしても三回目の逢瀬に挑むのである。

まもなく五月の日めくりが、そのほとんどを消化しているころ。

ボクは忽然と『ムーンライトセブン』の前に立っていた。

もちろん、ヒデさんには内緒である。

いつもの通り黒服ボーイに萌愛の指名を告げる。今日は出勤しているはずだ。

やがていつもの見慣れたシートで待っていると、笑顔の萌愛が現れる。

「こんばんは。また来てくれたのね。」

そう言って隣に座ると、間髪いれずに唇を重ねてくる。

いつものとおり余計なおしゃべりは多くない方がいい。それが彼女の主張なのである。

「毎日夜になると、キミの顔とキミの匂いを思い出すんだ。そうすると、キミのやわらかな皮膚の感覚まで思い出して、眠れなくなるときがあるんだよ。」

とはいえ、彼女からは「うふふ」という返事が返ってくるだけ。

前回のラストタイム訪問デーからわずか一週間しかガマンできなかった。それだけ萌愛に溺れかけている証拠だ。狂おしいほど愛おしい。この夜は彼女の匂いとやわらかい唇を堪能できればよかった。

何度か萌愛を尋ねて来たが、この夜ほど口数も少なく、言葉を交わさずにじっと抱き合っていたことはなかった。二度ほど場内コールで呼ばれて席を離れたときも、

「ちょっと待っててね。」と言って出て行き、「ただいま。」と言って帰って来る。

ボクも「行ってらっしゃい。」と言って見送り、「おかえり。」と言って迎える。

ただそれだけである。あとはまったりとした静寂と彼女のほんのりとした匂いを楽しむだけの時間である。

「今日はどうしたの?あんまりお話しないね。」

と萌愛が心配そうに尋ねると、

「今日は、これでいいんだ。急に会いたくなっただけだから。」

「うふふ。」

それだけ聞いて、やはり萌愛はボクの唇を塞ぎにかかる。

ボクと萌愛の最後の五月の夜は、本来なら騒がしいはずのBGMさえも耳に入らないほどに集中して抱き合っていた。

今回はイレギュラーの訪問である。萌愛は「もう帰るの?」と引き止めたが、十分に匂いを堪能できた今宵はワンセットで満足して帰る。

「またすぐに来るよ。いつものパターンで。」と言い残して店を後にした。

萌愛の匂いを堪能して安心できる今夜のボク。

これで今夜はぐっすり眠れそうだ。



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