12 やることはひとつ

 少年が悲鳴を上げそうになったのは、仕方のないことだろう。

 余程、魔術に親しんでいる者でもない限り、平然となどはしていられない。

 ましてやクレスはもいいところだ。前日その言葉を聞いたばかりで、その片鱗に触れたばかり。

 片鱗にも触れたことのない人間は多い。だがそれにしたって何となくの知識くらいはあるものだ。しかしクレスには、一昨日までそれすら欠けていた。「魔法」と言われるものの存在を知らず、それへの曖昧な印象も抱いたことがなかったくらい、それはもう、徹底的なまでに初心者なのである。

 見えぬ先行きに絶望を感じはじめていた少年は、しかしそんなものを吹き飛ばされてしまった。

 一辺三ラクト、大人ひとりと子供ひとりの身長を合わせたくらい長さにも満たない狭い留置場の片隅、もやもやと何かが漂ったときは、疲労で目が霞んでいるのかとも思った。

 しかしそうではないことは、何トーアも経たない内に判った。

 だが同時に、判らなかった。

 これは、何だ?

 集まりだした白い煙はゆっくりと動き、完全に身を固くしている少年の前で、人のような形を取った。ただ、人間にしてはずいぶんと大きい。天井まで届くかのようだ。

 もしも少年の知識の中に幽霊ベットルの怪談やら〈霧の妖怪〉ボンタットンの物語やらがあったら、彼はそれを思い浮かべただろう。ただ幸か不幸か、彼はそんな寝物語を聞かせてもらったことはなかった。

「な」

 何なのだろう。いったい、これは。

 悪夢のなかでだって見たことはない。いや、不思議なことだが、怖いという感じはしなかった。悪夢と言うよりは、整合性のない理不尽な夢。

 煙は、両手に当たる部分をクレスに差し伸べた。クレスは、思わず身を引く。

 だが少年の様子にはかまわないといった感じで、手はそのままぐいんと伸ばされた。

「なっ」

 白っぽい、実体のなさそうなものにというのは、ものすごく奇妙な感覚だった。

「なっなななっ、何っすんだっ、放せよっ」

 反射的に叫ぶものの、言葉が通じるような気は、全くしない。煙はくるくると腕を巻き込むようにし、一緒に少年を巻き込んだ。

「やややややめろっ」

 不思議と、怖くはない。

 だが、不気味だ。

 何だかさっぱり判らない――モノ。

(さっぱり判らない)

(これって)

(……リン?)

 〈失せ物探しの鏡〉や何とかの粉、といった「さっぱり判らない」もののことが少年の脳裏をよぎった。

「リンの仕業、なのか?」

 煙は答えない。だが、他に考えようがない気がした。一昨日から聞かされている不可思議な話は、芸人一座の公演を別として、どれもリンから聞いたものだ。

(それなら……たぶん、だけど)

(悪いもんじゃ、ないよな)

 ふっと強張っていた身体が緩まった。と、「煙」がうなずいたような感じがした。

 次の瞬間、クレスは今度こそ悲鳴を上げたとつもりだったが、実際には声にはなっていなかった。

 身体がまるで雑巾のように絞られたのかと思った。とんでもない激痛が少年を襲っていたのである。昨夜に殴られた現実の痛みも、この比ではない。

 少年は大声で喚き続けたつもりでいたが、煙と一体になった身体からは、どんな声も出ていなかった。

 どさり、と身体が投げ出された感覚がある。と、悲鳴が口からようやく発せられて、次には口を塞がれた。

「しいっ。町憲兵を呼びたいのか。黙れ」

「リ……リン」

 案の定と言うべきなのだろうか。倒れた彼の上にかがみ込むようにして少年の口を塞いでいるのは、リンであった。

「巧く行った。サリーズ町憲兵に感謝だな。彼なら必ずお前に接触して道筋を作ってくれると思った。でもこれで、〈煙出しの香炉〉は五年はお預けか。商品を自分で使ったりするつもりはなかったのに」

 彼女の声には満足の響きも不満の響きもなく、クレスはただ目をぱちぱちとさせた。痛みは、幻であったかのように消えている。

「脱出成功。外の空気の感想は?」

「え」

 そこでクレスはようやく気づいた。ここはもう、ひんやりとした留置場ではない。陽射しがさんさんと降り注ぐ、屋外である。

「リン! 無事だったのか!」

「無事って、何がだ」

「だってあのとき……って、リンっ、まさかっ」

「何がまさかなんだ?」

 リンは眉根をひそめて繰り返し尋ねた。混乱しながらクレスは呆然とする。

「俺……留置場を抜け出したのか」

「抜け出したくなかったとでも?」

 皮肉っぽくリンが返す。クレスはふるふると首を振った。

 あのままでは彼は殺害犯確定だった。彼自身が怖れたように処刑というようなことこそなかったが、ろくな裁きもないまま、どこかの強制労働所に放り込まれたことになっただろう。

「できれば〈満月影〉でも使ってお前とよく似た姿を留置場に残しておきたかったけれど、あれにはかなりの準備が要るし、何よりお前が要るんだから、この場合は実際的じゃない」

「……はあ」

 相変わらず、クレスにはさっぱり判らないことをリンはとうとうと語った。

「呑気にしてるが、とりあえずこれでお前は犯罪者だって判ってるか?」

「なななな何で」

 突然の弾劾に少年は泡を食った。

 リンは冷静に言い放つ。

「ちょ、ちょいっ、そりゃないだろうっ」

「勝手に犯罪歴を作って悪かったが、これは仕方がない。無実の罪で裁かれたくなければ、自分の手で冤罪を晴らし、真犯人を突き出す。そうなれば改めて捕まり直すことはないだろう。ただ、それまでは追われる」

 何とも淡々と、リンは言ってくれた。

「ただ最悪、アーレイドを遠く離れれば、そこまでは町憲兵も追ってこないだろうな」

「かっ、勝手に決めんなよっ」

「決めてなどない。提案のひとつ。お前が逃げたければ逃げてもいいと言ったんだ。私は、犯人を追うが」

 リンはまた、微妙に判らないことを言い出した。

 どうやら昨夜、彼女には何も問題は起こらず、それどころかいまは彼を助けてくれたらしい。

 だが、それでおしまいではないようだ。

 クレスだって、このままおしまいにして逃亡生活になど入りたくはない。しかし、クレスが真犯人を追うのに協力をしてくれるというのではなく、クレスが逃げ去ろうと犯人を捜すなど――。

 これは、最初の日と同じだ、とクレスは思った。彼の財布に、彼以上にこだわった。

「じゃ、今度は何の効用を試してる訳」

「何?」

「〈失せ物探しの鏡〉が本物かどうか知りたくて、俺の財布捜しを手伝ってくれただろ。今日は、何」

 質問の意味が判った、と言うようにリンはうなずいた。

「知りたいと言う訳でもない。判りきってることだ」

「何が」

「もしかしたら、ヴァンタンのような節介。或いは、〈断ち切れぬ絆〉」

「は?」

 例によってさっぱり判らない。

「いったい、何のことを」

「本当に成功したのか」

 呆れ声を出したのは、追いついてきたヴァンタンだった。

「まじで無茶苦茶、やりやがる。嘘みたいだが、巧くいっちまったんだなあ」

「失敗した方がよかったと思うのか」

「まあ、留置場から犯罪者が忽然と消えたなんてのは町憲兵隊レドキアータより魔術師協会リート・ディルの領分だろうから、そこに話が行くことになるだろう。話がまとまるまで、かかるだろうな。逃亡生活の準備をする時間くらいなら稼げるかも」

「俺はそんな暮らしをする気はないよっ」

 どうしてここが仲良く――と言うのかは、微妙だが――なっているのか判らないまま、クレスは返した。

「当然だろうなあ。なら、やることはひとつか」

「真犯人探し」

 渋々とクレスは言った。もちろん、嫌なのではない。彼自身の容疑を晴らすために必要なことだし、もしそうでなかったとしても、人殺しをした何者かが平然とアーレイドのどこかで過ごしているなどというのは、気分が悪い。

 仏頂面になってしまったのは、全てリンの思う通りにことが運んでいるような気がするからだ。

 負けている、という気持ちだった。

その通りアレイス

 少年の複雑な胸の内など知らず、リンは同意した。

「一座のいる広場に行こう。そこでお前に起きたことを聞かせてくれ」

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