03 調子には乗るなよ

「ちいと唐突だったか。少し考えるといい。もちろん、金を出した分は働いて返せなんてケチ臭いことを言うつもりはないし――」

「バルキー! 俺、すげえ、嬉しい。有難う!」

 クレスは飛び上がらんばかりにしてバルキーに向き直り、ばっとその手を取った。

「俺、やる。料理人テイリーになる!」

「そう言うんじゃないかとは、思ってたんだ」

 彼の父親ほどの年齢の料理人は、嬉しそうに目を細めた。

「お前の食材を見る目は確かだと思ってる。料理に対する勘もいい。やる気があるなら、いい料理人になるだろう」

 見込みがある、と彼は続けて、それから真顔になった。

「だが、あまり調子には乗るなよ」

「判ってる」

 クレスはにやっとした。

「〈初心者を脱したつもりの初心者がもっとも大きな失態を犯しやすい〉、だろ?」

その通りアレイス

 片手を上げ、まるで誓うような仕草をしながら、クレスはバルキーの台詞を先取った。またもバルキーは満足そうにうなずく。

「料理の勘と言えばなあ、お前、〈黒革篭手〉亭を知ってるか?」

「前を通ったことはあるけど」

 それは中心街区クェントルにある、ちょっと値段の張る食事処だ。高級だと言い立てるほどではないが、入るには少し気合いがいる。

「あの店にな、若いながら腕のいい料理人がいるんだ。あれも、いい勘をしている。城へ上がるなんて話も出てるらしい」

「へえ」

 この街は〈王城都市〉であるからして、中心には王城がある。城勤めをする平民もいたが、たいていの街びとにとって「城」というのは街から見える景観のひとつと言ったところであり、城内に入るだとか城に上がるだとか言ってもぴんとこないものだった。

 もとより、クレスはこの街にきて半年。街にだって詳しいとは言えないのに、城などますます別世界である。「へえ」くらいしか感想を述べることはできなかった。

「彼が行っちまう前に一度、彼の飯を食いに行くか。機会があれば話でもできるといいな」

「話? 俺が?」

「ああ。お前とふたつ三つしか変わらないくらいなんだ」

 へえ、とまたクレスが感心したように言えば、確か名前はミーリと言ったかな、とバルキーは呟いた。

「それから、麺麭ホーロ職人なんかと仲良くなっておくのもいい」

「麺麭?」

そうアレイス。飯にゃだが、あれまで自家製にするのは大きな店でもなけりゃ難しいからな。いい職人と親しければいい品が手に入る。ラセルド爺の作る麺麭は絶品だが、息子は正直、頼りない。爺が引退を考えるようになったら、こちらもどこか余所を考えないといけないかもしれないと思ってるんだ」

 バルキーはわずかに息を吐いた。

「お前、気に入りの麺麭屋なんてないか」

「俺?」

 まさか意見を求められるとは思わず、少年は瞬きをした。

「ええと……ティクスの町で一度、すごく美味いのに会った」

 それはこの王城都市から北西、湾沿いに徒歩で幾日かという距離にある町だった。

 少年は記憶を呼び起こす。

 もう何年も前。彼ですら「まだ子供の頃」と言えるほど小さな頃だった。それでも鮮烈に覚えている。店の前で麺麭の焼けるいい匂いにうっとりと足をとめた彼が余程腹を空かせているように見えたのか――実際、その通りであったが――主人の奥方らしき女性が、残り物だけれどと言って分けてくれた丸い麺麭のこと。

 〈腹を空かせれば腐りかけでもご馳走〉などとも言うけれど、空腹のためだけではないように思っている。真偽はともかく、とにかくクレスの脳裏には、それが最高の一品として刻みつけられていた。

 ほとんど飾り気のなかった店先は、店主の人となりを表していたのかもしれない。店名も何とも簡潔だった。「クレス」と似ていたので記憶にある。確か、〈ソレスの麺麭屋〉と言った。

 そのあと戻った隊商では、帰りが遅いと殴られたが、満たされた腹が苦痛を和らげてくれた。嫌なことばかりだった彼の過去の内、それは数少ない、幸せな思い出だった。

「ティクスか。近いが、麺麭を仕入れられるほど近くはないな」

 バルキーは残念そうな顔をした。

「だが何にせよ、美味いもんのことを覚えてるのはいいことだ。麺麭じゃ、そっちの道に進むのでもない限り『技を盗む』ようなこともできんが、美味いもんに会えりゃ勉強にもなる。〈兎を仕留めた狐を捕まえる〉ようなもんだ」

 男は、少ない労苦で多くを得られる例えを使ったあと、料理人テイリーってのは運がいいな、と笑った。

「よし、それじゃまずはサトスのところへ行こう。彼はいい鍛冶師ボルスだからな。お前の手に合いそうな品があればよし、なければ新しいものを頼もう」

 それから朝飯にしよう、と言って男は少年の肩をぽんと叩いた。クレスは、どこかくすぐったいような気持ちになる。

(……違うかな)

(これ、何て言うんだろう)

 誇らしいのだ、というような表現に思い当たるのは、彼がもう少し大人になってからだった。

「だがな、クレス。ひとつだけ、言っておく」

 すっとバルキーは、声を低くした。

「何?」

 不安になって少年はそっと尋ねた。バルキーは実に真剣な声音で続ける。

「先からお前を認めるようなことを言っているが……ウィンディアに近づく許可までは、与えていないからな」

 了解、とばかりに少年は敬礼の真似をした。

 ウィンディアというのはバルキーのひとり娘で、今年十七になる。なかなかの美人で、〈赤い柱〉亭の看板娘でもあり、寄ってくる男はひっきりなしだ。

 だが父親はどれもこれも蹴飛ばして、妻の忘れ形見でもある可愛い娘をディランたちの手から守った。

 バルキーの主張としては、真剣に彼女を愛するならばともかく、お手軽な遊び相手扱いなどととんでもないと言うところだ。だが、きちんとした恋人ができればむしろいま以上に大騒ぎするのではないか、というのが雇われ人たちの見解だった。

 当のウィンディアは父親の手出しをどう思うのか、少なくとも反発して親子喧嘩などはしないようである。

 年頃の美人なんだし、もしかしたらどこかに上手に恋人を隠してるんじゃないか、という推測だか邪推だかもあったが、現実的に考えれば彼女は毎晩給仕の仕事で忙しく、逢い引きラウンの暇などはなさそうだった。


 鍛冶師サトスの店はまだ開いていなかったが、店主は店主を見つけて無理に店を開けさせると、少年を紹介した。ちょうどぴったりの品はこの場にはなかったが、鍛冶場にいいのがあると言われ、改めて明日見せてもらう約束をした。

 そこを出てしばらく歩くと、整然と店が続いていた景色がふっと変わる。通りに屋台が出はじめ、猥雑とした雰囲気になっていくのだ。

 東区の屋台も、北のものとそう変わらなかった。立ち並ぶものは西とは異なるが、港に近い向こうがむしろ特殊だった。

 日の差さない南の街区は貧しい場所で、積極的に出向く商人トラオンはいない。よって、主な市場はだいたい北東西に存在し、市場の売り手買い手をともに客にしたい屋台の主も、その辺りに出没する。

 バルキーは、何か北の屋台で見られないものを買ってこいと少年に命じると席を取りに行ってしまった。保守的な人間であればいつも同じようなものばかり食べたりするが、バルキーは珍しいものを食べたがる。これは料理人テイリーの習性みたいなものだ。

 クレスはラル銀貨を預かり、きょろきょろと屋台群を見回した。

 串焼きの匂いがする。蒸し饅頭の湯気が見える。鉄板で麺が焼かれる気持ちのいい音もする。クレスはいつもに増してわくわくしていた。

 少年自身にはまだそういった自覚がなかったが、バルキーに認めてもらえたのだ、ということは、とても彼の心を弾ませていた。

 ただこき使われるだけの子供時代を送った彼は、「彼のもの」など持ったことがなかったし、言葉で褒めてもらうことすらもなかった。

 バルキーが買ってくれると言うのは、世の子供がもらえるような遊び道具ではなく、仕事の道具だ。

 だが、それはつまり、クレスへの期待の現われ。

 「いい料理人になる」というのは世辞ではあるまい。店主が拾った子供におべっかを使う必要などないのだから、きっと本当に、クレスには見込みがあるのだ。

 そんな気持ちがあったため、それは仕方のないことだと言えたかもしれない。このときのクレスには、ちょっと浮ついた気持ちがあった。

 いざ、少し変わった麺物ウルを見つけた少年は、それをふたり分注文しようとしたそのときになって――ラル銀貨を入れて腰に吊してあった小さな袋がないことに気づいたのである。

「あああああっ!」

 大声を上げたクレスは瞬時に周辺の注目を浴びたが、一気に血の気を引かせたクレスは何事かという人々の目線に全く気づかなかった。

 ない。

 ここにあるべきはずのものが。

「ど」

(どうしよう)

 自分の金も少しはある。でも大半は、バルキーから買い物用にと預かっている分なのだ。

(落とした?――それとも、盗られた)

 ろくに注意もせず、人混みを歩いていた。られたことも十二分に考えられる。

(どっちにしろ、バルキーは怒る)

(せっかく……小刀を買ってくれるなんて話になったのに)

 盗まれたのであれば、戻らない。落としたのだとしても、いつまでも財布がそのまま同じ場所に落ちているはずもない。

 クレスは頭のなかをすっかり真っ白にして、その場で呆然とした。屋台の親父が不審な顔をして、買わないのならそこをどけと言ってくるのに、彼はただぼんやりとうなずいて、ほとんど無意識の内にふらりと移動をする。

(どうしよう)

 バルキーに正直に話すか? もちろん、それしかない。飯を買って戻れない理由が「金をなくした」以外に何がある?

 少年は、膨らんだ気持ちが音をたててしぼむのを感じていた。

 バルキーはこれくらいでクレスを見捨てたり、放り出したりはしないかもしれない。殴ったりもしないだろう。

 でも、小刀は当分お預けになること、想像に難くない。当分どころか、もしかしたらずっと。

 そんなふうにすっかり落ち込んでしまった少年は、気づかなかった。

 何かに反射した太陽リィキアの光が、きらりと彼の頬を撫でたこと。

「浮かない顔の坊や。財布でも落とした?」

 背後からかけられた声に、クレスはものすごい勢いで振り返った。

 いま、声は何と言った?

 、と。

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