うわごと

織部泰助

因果不明

第1話 パパのうわごと


 ────ゥ。

 

 深閑として音の途絶えた夜更け。

 僕は重々しい目蓋を開けた。

 ゆっくり寝返りを打つ。段々と意識が戻ってくると身体がずんと重く感じる。

 今日の昼頃、何の前触れもなく急に降った雨は、僕を身体の芯まで凍えさせた。夜になると寒さはじっとりと不快な悪寒に変わって、頭を重くする。

 額に手を当ててみれば、じんわりと発熱していた。

 

 ──────てえ。

 

 声が聞こえた。

 短く、言葉というより咄嗟に出たような。

 酔っ払いの呻き。しゃっくりの拍子に洩れた声。

 そんな声が、仕切りを挟んだ向こう側から聞こえてきた。


 僕は眉根をよせた。

 その声はパパでもママでも、ましてコウくんでもなかった。

 聞き覚えのない第三者の声。それが家の中からする。

 隣室だろうか。少し考えてすぐに首を振る。僕たちが生活しているアパートは角部屋の一〇五号室だ。隣りの一〇四号室と上の二○五号室に入居者はいない。

 寝ぼけていたのだろうか。それとも熱による一時的な幻聴か。

 若しかすると、遠く路上で響いた声が反響したのかもしれない。

 そんな風におもって、僕はまた目蓋をおろす。


 ───げてえ。

 

 ここまでハッキリ聞こえてしまうと、聞き間違えと思い込むには無理があった。

 慥かに誰かが言っている。僕が寝ている居間のとなり、仏間からだ。

 そこでは十畳ほどの和室で、パパとママが寝室として使っている。

 僕はゆっくり起き上がった。板敷きに触れた素足がひんやりとして冷たい。軋ませないように足音を忍ばせながら、仏間のほうに向かう。

 そしてわずかに開いている隙間に顔を近づけてみた。

 

 さっと室内に目を配る。

 簡素な柊の仏壇と衣装ダンス。それと布団をしまう納戸。

 中央には布団が二組。掛け布団の上にかけられているのは、昨日の夜から底冷えするからとママが仏間の納戸の奥から引き出してきた花模様の毛布。

 布団はどちらもこんもりと膨らみ、男女の顔がひょっこりと出ている。

 長い髪を頭の上にあげて枕の向こうに垂らしているのが、ママだ。夢見が悪いのか、わずかに眉間に皺を寄せて、時折小さく呻っている。

 その隣で横向きになり、寒そうに掛け布団を首下まで引き上げているのが、パパ。

 僕は二人を確認したあと、見える範囲で周囲に目を走らせてみた。

 誰も居ない。不審な影はもちろん、音の出そうなモノは見当たらない。

 けれど慥かに声がしたのだ。聞き覚えのない、どこか躁めいた声が。

 それから数分間、じっと覗いていた。

 だけど不審な声は聞こえなかった。時間が経つにつれて、あの声は本当に仏間から聞こえた声だったのかと疑わしく思えてくる。次第に冒険心めいた緊張感も薄れていき、はふ、と欠伸が洩れた。

 その時だった。


 にげてえ。


 僕はふたたび仏間を覗いた。

 ようやくハッキリと聴き取れた。声はひどく嗄れた老婆のものだ。

 老婆が誰かにずっと呼び掛けている。

 そしてその気味の悪い声がどこからしているのかも、ようやく見て取れた。だが見たからと言って、すべてに納得がいく訳じゃない。

 まして目を疑うものなら尚更に。

 

 その声は、うわごとだった。

 ゆっくり寝返りをしたパパの口元から洩れた、老婆のうわごとだった。





 チィン────。

 

 耳朶に心地よく響く金音だった。

 ふたたび仏間からチィンと金音が響き渡り、ついで鼻の奥に抜けるような線香の香りがした。鼓膜に反響したお鈴の音が抜けるまで少しの静寂が広がり、仏壇で誰かが立ち上がった。

 面白いもので、足音は特徴がでる。体重や歩幅、重心の差異が、そのひとの歩き方を変え、地を踏む音もそれに応じて千差万別の特徴をもつのだ。

 どす、どすと間隔が長く、一歩一歩重い足音はパパだろう。仏間からすっと襖をあけて、雑多な生活音がするキッチンに歩いていく。

 僕は目を擦り、大きく身体を反らして欠伸をした。

 僕はどうやら気づかないうちに寝ていたらしい。僕もパパと同じようにキッチンのほうに向かうと、二人に朝の挨拶した。

「コウはまだか?」

 パパはざっざと焼き上げたトーストの表面にバターナイフを走らせながら訊く。

「そうみたい。あの子の分のパンが焼けたら声をかけるわ」

「ん」

 そういって、サクッと噛む。トーストの芳ばしい匂いが、その音と共にふんわりと食卓に香った。


「そういえば貴方」

 ジジジジジとトースタータイマーをひねっていたママが、ふと思い出したことに腹をたてたように、非難がましい声でいう。

「診察に行って」

「診察?」

 パパは上の空の返事をする。テレビに気を取られているのだろう。本日の空模様を教えてくれるのは、どこか尻上がりで媚びを感じる声のお天気アナウンサーだ。男性と女性で人気の隔たりが大きい彼女の魅力は、その小動物のような丸い童顔と顔に不釣り合いな豊満な身体だ。

「睡眠外来」

 パパはママの声が更に刺々しさを増したのに気づかない。僕は肩をすくめながら、淹れ立ての珈琲の匂いを胸いっぱいに嗅いだ。

「ああ、うん」

「聞いてる?」

「・・・・・・ああ」

「貴方!」

「──え!? ああ。どうした。朝だぞ。急に大きな声をだすな」

 パパは家長として威厳のある声を出してみるが、言葉尻は誰が聞いても及び腰だった。パパの低姿勢は、ママのヒステリックな声の高さで更に低くなる。

「ええ、そうね。貴方にとっては清々しい朝ね。でも私にとってはそうでもないの。誰のせいか分かる?」

「・・・・・・オレかい?」

「そう! あなたの寝言のせいでね」

 ドン、とママはのんでいたカップを当てつけのように置く。

「それは・・・・・・、しょうがないだろ。寝言なんだから。君だって時折言ってる」

 パパは不満を述べるが、どうやらママの怒りは収まりがついてないようで、パパの言い分を聞き流して過失を並べたてる。

「結婚する前から、折に触れて診察を受けてって言ってたわよね。凄いいびきよ。今度録音してあげる。まあね。それは良いの。もう慣れたから。だけど流石に奇声まであげられるなんて、たまったものじゃないわ」

「奇声?」

「そう。気持ち悪い嗄れ声で」

「なんて言ってた?」

「忘れた。でもそのせいで私、何度も起こされたのよ。貴方は授業の間に職員室で寝られるでしょうけど、保育士は一瞬でも気が抜けないのよ。分かる?」

「ああ。ごめん、ごめん」

「ごめんって。貴方ちゃんと人の話を聞いてるの? 昔から話半ばに││」

「分かった! 分かったから。診察にはいく」

「いつ?」

「・・・・・・今週の土曜日は部活が休みだから、その日の午前中にでも」

「ちゃんと予約してよ。良いわね」

 ママに押し切られる形で、パパは渋々了承した。それから何ともいえない居心地の悪い静かさがリビングを支配する。黙々と食器がこすれる音がする。

 そんな空気の悪さを変えるべく、パパは話題を提供した。

 だけど、パパのチョイスは気分転換には好ましいものじゃなかった。


「多分、殺人だよ。殺人」

「・・・・・・・・・・・・」

 ママはコトリとマグカップを置く。そこに怒りはない。パパと同じようにテレビから流れてくるニュースに注目しているのだ。

 僕も口に物をいれながら、素知らぬ顔でニュースの内容に耳を欹てた。

 テレビは阿るようなお天気お姉さんから、理知的なキャスターのものに変わっていた。彼女は硬質な声のトーンで次のトピックスを語る。


『── 一週間が経った今も進展は芳しくありません。

 皆川市ひろむ町で起きた古懸家一家惨殺事件で、皆川署は市民に広く目撃情報を募ることを決定しました。今回の事件は十月二十日の昼頃、被害者の古懸孝さん(42)と連絡が取れないことを不審に思った会社の同僚が古懸さんの家に訪れ、リビングで倒れていた孝さんを見つけたことで判明。通報をうけた警察官が大家立ち会いのもと家に入ると、寝室で古懸孝さんの妻麻美さん(43)が、自室で娘の美月ちゃん(16)がそれぞれの寝室で胸を一突きされているのを発見。被害者が抵抗した様子もなく、また家に侵入された痕跡もないため、いまだ犯人につながる証拠が欠けており、捜査当局は他殺と心中の両線で捜査を進めているとのことです。

 

 次のニュースです』


「心中であって欲しいわね」

 ママがぽつりと漏らした。

「不謹慎だな君は。そもそも君も昔から──」

 さっきの意趣返しのようにママの粗を語ろうとするが、ママはそんなパパのささやかな抵抗に気を留めることもなく、コッとマグカップを持ち上げる。

「だって隣町じゃない」

 矢継ぎ早にママの欠点を話だそうとしていたパパも、その不安げな声に言葉を呑んだ。ひろむ町はここから十分ほど歩いて、芦が繁茂した小さな二級河川を渡った先にある。一週間前に起きた惨殺の舞台はあまりにも近い。

「ふわああ」

 重々しい空気は、不意に聞こえた幼い欠伸で破られた。

 とことことリビングに歩いてくる足音がひとつ。

「おはよう」

 と、まだ覚醒しきれていない甘い滑舌で、コウくんはリビングにやって来た。

 僕等は口々にコウくんに挨拶を返す。ふたたびリビングに賑わいが返ってきた。朝の清涼とした生活感があふれ、空気がたちまち華やぐ。

 コウくんはこの家のアイドルだ。

 そんなアイドルはトーストをちいさく囓ったあと、思い出したように声をあげた。

「そういえば僕のアポロチョコ、誰か食べたでしょ!」

 変声期を迎えていない愛らしい声が盗人をとがめる。さっきのパパとママの非難の応酬とは比べものにならないくらい平和な話だ。二人とも「知らない」と無実を訴え、僕は綻びそうな頬を努めて冷静そうに装いながら、「僕だよ」と心の裡で呟いた。

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