女子高生の姪がなんか靴下を脱いで置いて帰っていく話 中編



♥前回までのあらすじ♥


 女子高生の姪が、僕の部屋を訪れ、ママになった後、ベッドの中に使用済みの靴下を脱ぎ捨てていったのである。


♥以上、あらすじ♥


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 黒いニーソックスだった。ふとももに当たる位置に小さなリボンがあしらわれた、女の子用の可愛らしいやつだった。

 普段から履きこまれていたものらしく、生地の表面には小さな毛玉が浮いていた。


 そんな姪の使用済みのニーソックスを手に、僕は自室を右往左往していた。


 性的に倒錯している以外は非の打ち所のない姪――静宮しずみや粍夏みりかが脱ぎ捨てたと思しきそれを、我がベッドの中から発見して、早一時間が経とうとしていた。


 靴下の存在はあらゆる意味で僕を混乱させた。

 まずもってその扱いに難儀した。はじめはすぐに洗濯しようと考えていたが、こんな夜更けに洗濯機を回すのは近所迷惑だし、可愛らしいリボンやフリルがあしらわれたそれを、洗濯機で洗って良いかどうかの判別もつかなかった。そもそも、女の子の靴下を自分の下着と一緒に洗濯するのは心理的に強い抵抗があった。


「……ダメだ。頭が回らない。明日考えよう」


 散々に悩んだ挙句、僕はそのように方針を定め、粍夏のニーソックスを畳み、部屋の脱衣所に近い場所に安置した。

 

 それで僕の心持ちは随分軽くなった。

 灯りを消してベッドに横たわり、布団を被る。

 その後しばらく、ぼんやりと天井を見上げていた。

 キッチンへ至る扉の向こうから、冷蔵庫のモーター音だけが聞こえていた。


「それにしても」僕は呟いた。


 ――それにしても、粍夏は一体どのような意図で、靴下を脱ぎ捨てたのだろう。

 仮にこれが偶発的な事故だったと仮定して、一般的な女子高生は、訪れた他人の部屋で、靴下を履き替えるということがあるのだろうか?


 粍夏の母親、つまり僕の姉ならば、その行動の真意を知っているだろうか……そう考えたが、それを姉に聞くのはあまりにリスキーな行為だった。

 もし自分が姉の立場で、弟からそんな事を訊かれれば、なにより先にこう思う。

 ――私の娘は、一人暮らしの男の部屋で、靴下を脱ぐような何かをしたのだと。


 だから、今回のことは、姉に決して聞いてはならない――


 思考はぐるぐると巡り、眠気は一向にやってこなかった。


 寝返りを打ちしばらくすると、暗がりに慣れた目が、豆球に照らされた自室を映し出した。

 安物のローテーブル、ノートパソコン、テレビ、座椅子、ゴミ箱、本棚。

 一人で寝るのはこんなにも孤独なものだったろうか、と、僕は思った。

 ほんの十時間前、このベッドの中で、姪の粍夏の細く白い腕に抱かれて眠っていたのが、遠い過去の出来事に思えた。

 その体験が、今の孤独をより際立たせているように思えてならなかった。


 僕はふと、昼間に粍夏がこの枕に頭を預けていたのを思い出した。


「…………」


 恐る恐る枕元に顔を埋め、すうっと息を吸い込むと、よく知った自分の匂いに混じって、粍夏の匂い――桃を思わせる甘い香り――がした。たがそれは、まるで真夏に見る陽炎のように儚く、瞬く間に掻き消えた。


「…………」


 郷愁にも似た飢餓感が、自分の中でゆっくりと首をもたげた。

 堪らず僕は寝返りを打ち、脱衣所の方を見た。

 先ほど折り畳んだ、粍夏のニーソックスが、そこにはあった。

 彼女が先程まで履いていた靴下。

 あの少女の匂いを、最も色濃く漂わせているもの。


「粍夏ちゃん……」


 ベッドに横たわったまま、僕は、彼女の靴下に顔を埋める自分の姿を想像した。

 あの靴下に顔を埋め、その匂いを思いきり嗅げば、僕は、いまこの心の内に巣食う飢餓感から解放されるのではないか――自分のある種の尊厳と引き換えにして――そんな愚かな考えが、頭をよぎった。


 だが、それを実行に移す事は出来なかった。

 本能で理解していた。妙な確信めいたものがあった。


 今、あの靴下の匂いを嗅げば、きっと自分は駄目になる。

 もう二度と、元に戻れなくなってしまう。


「くそ、やっぱりさっき、無理にでも洗濯してしまえばよかった……」


 僕は大きく寝返りをうち、無理やり靴下を視界の外に追い遣った。

 そこで、ふと、思った。

 もしかすると、粍夏が自分の靴下を脱ぎ棄てる事で狙っていたのは、今まさに僕を苛むこの飢餓感ではなかったか。

 僕は姪を末恐ろしく思った。


「末恐ろしい」声に出して、僕は言った。

「田山先生、こんな時、僕は一体どうすれば」


 僕の独り言は、虚しく六畳間の壁の隙間に吸い込まれていった。

 己の性癖の軋む音がよく聞こえる、とても静かな夜だった。

 …………


 余談であるが、自然主義文学の大御所・田山花袋の著作に『蒲団』という短編小説がある。

 主人公である小説家・竹中時雄の元に、小説家を志す少女・芳子がやってくる。芳子はとびきりの美女と言う程ではないが、可愛らしく、表情豊かなイマドキの女学生で、お喋りが大好きで、時雄のことを先生、先生と呼び慕う、彼の作品の大ファンである。

 アラサーおじさんの時雄は、年甲斐虚しく芳子に恋をする。

 妻子も社会的立場もある時雄は己の恋心をひた隠し、あくまで師として芳子と接する。何度か理性の糸が切れそうになる場面もあったが、それでも彼は何とか一線を越えず踏みとどまる。二階の客間に芳子を住まわせていた時雄だったが、親戚に白い目で見られ始めたのもあって、やむなく彼女を別の下宿先に越させる。それが悲劇の始まりであった。


 時雄の知らぬうちに、芳子に彼氏が出来たのが発覚したのだ。時雄はキレた。

 芳子が下宿を不在にしている事が度々あったのを、時雄は思い出す。よもやその時、芳子は彼氏と会っていたのではなかろうか、もう手を繋いだのではなかろうか、セクシーをしたのではなかろうか……時雄はあれこれ考えたり、酒を飲んで泥酔したり、芳子を探して夜の街を彷徨ったり、芳子の父親を田舎から呼びつけてみたり、芳子を自宅へ連れ戻したり……色々やったが、結局、芳子の彼氏への想いは変わらず、最終的に彼女は田舎に帰っていってしまう。


 時雄は激しく後悔する。こんな結末になるのなら、芳子とセクシーしておけば良かった……そう思いつつ、今はすっかり空き部屋になった二階の客間を訪れて、彼女が使っていた蒲団やパジャマに顔を埋め、その匂いを嗅ぎながら泣き崩れるという、衝撃のラストを迎える。

 完全に、余談である。

 …………


✳︎✳︎✳︎


 粍夏の行為にどういう意図があったのか……それは分からず仕舞いだったが、それが翌週以降の僕の生活にきたした支障は大だった。


 最初の数日は、自分でも己の変化に気付かなかった。だが、水曜日の業間、廊下で女子生徒の一団とすれ違った時、自身の視線が、自分でも驚く程、彼女らの脚――特に靴下――に吸い寄せられたのに気付いた時、僕は己の内側にある何らかのベクトルが大きく歪んでしまっている事を自覚した。


 そこから先は、地獄だった。

 見てはいけない、見てはいけない……毎日自分に言い聞かせるもその甲斐なく、僕は廊下を行き交う少女達の脚から目が離せなくなっていた。

 そこで改めて理解した。高校という職場がいかに危険な場所であるかを。


 だが、幸か不幸か、僕は彼女達の脚にそこまで心を掻き乱される事はなかった。というのも、多くの場合、彼女らの脚は太かったり、逆に細すぎたり、不必要なまでに日焼けしていたりしたので、格別な美脚と出会う事が殆どなかったからだ。


 そういう意味では、我が姪・粍夏は絶望的な存在だった。

 粍夏の脚は完璧だった。程よい長さと肉付きで、きちんと履かれた紺色のスクールソックスが、白いふくらはぎを絶妙に引き立てていた。

 僕はしばらく、校内で粍夏とすれ違う時は視線を天井に向けることになった。


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 明くる週、岳巳たけみ先輩からメッセージが届いた。

 曰く、水曜に仕事で鳥羽森とばもりに来る用事があり、その日は駅前のホテルで一泊する予定なので、夜に食事でもどうだと言う事だった。

 水曜、最後の授業を終えた僕は、残りの仕事を片付けると、荷物をまとめて職員室を出た。購買の前を通り、下足室に至る角を曲がり……そこで一人の女生徒に声を掛けられた。


「ねーねーナナちゃん、もう帰んの?」


 声の主は、自販機の近くの壁に寄りかかって、まるで誰かを待っていたような態勢のまま、僕に向かってそう言った。

 また厄介な奴が……と、密かに思いつつも、僕は女生徒に言葉を返す。


「……また君か。ナナちゃんではなく七瀬先生と呼びなさい、凪坂なぎさかさん」

「ナナちゃんが私のことを下の名前で呼んでくれるなら、考えてあげる」


 女生徒――凪坂歩來あるくは、そう言うと僕の方へ歩いてきた。

 彼女は、僕の受け持つクラスの一つ、一年C組の特に派手なグループに属す少女だ。切り揃えた前髪の奥の、整った鼻梁に悪戯っ子の笑みを浮かべて、ネコ科を思わせるぱっちりした目でこちらを見ていた。ワイシャツの第一ボタンは外されていて、白い喉元が見えていた。スカートは膝小僧がギリギリ見える丈で、紺色のスクールソックスをわざとクシュとさせて、くるぶしのところまで今風にずり降ろしていた。ブレザーも上履きもまだ真新しかった。


「ね、ね。どーせこんな時間に帰っても暇っしょ? あたしとデートしよ」

「デート? ……まさかとは思うが、僕と君がか?」

「もち」


 そういって歩來はにへら、と笑って、僕の袖を掴んできた。

 またいつものやつか、と、僕は深く溜息をついた。

 新学期が始まって早一ヶ月。凪坂歩來はこうやって、事ある毎に僕を揶揄ってくるのだ。


「……教師を揶揄うのも良い加減にしろよ。用事がないなら大人しく下校してくれ」

「今日、みんな用事があって暇だったんだもん。だから遊んで? 兄活しよ、兄活」


 ――アニカツって何だ? 内心で首を傾げるその横で、歩來はするりと僕に腕を絡めてきた。

 微かな制汗剤の香りに混じって、熟す直前のオレンジのような、爽やかな甘い匂いが、僕の鼻先をくすぐった。それは粍夏も持っている、「今が旬」であるという事を否応無く男の本能に訴えかける、ある種の強烈なフェロモンだった。


「駅前のバス停前にさぁ、めっちゃパンケーキが美味しいカフェ出来たの。そこ行こ? 奢ってくれたらぁ、ナナちゃんの事『お兄ちゃん』て呼んだげる」


 生憎「お兄ちゃん」は間に合ってる……咄嗟にそう言ってしまいそうになるのをぐっと堪え、僕は勤めて冷静に「離れなさい」そう言おうとした、ところで……


「あっ……」

「……!」


 渡り廊下の向こうから、一人の女子生徒がやって来るのが見えた。小柄な身体に鞄を抱き抱えるようにして歩くその姿は、見間違えようもなく、僕の姪の粍夏だった。

 粍夏も驚いたように目を見開き、僕と、僕に腕を絡めている歩來の姿を見た。


「み……静宮さん?」

「…………」


 粍夏は、僕の呼びかけに答えずぺこりと会釈をして、そのまま足早で通り過ぎていった。

 僕はただ何も言えず、彼女が廊下の奥に消えるのを目で追うだけだった。


「……ナナちゃんも、静宮さんみたいな子がいいの?」


 気付けば、歩來は僕に腕を絡めたまま、浮気男を非難するような目でこちらを見ていた。


「も、って何だ? というか凪坂さん、もう他のクラスの子の名前覚えたのか?」

「あの子は有名だから。男子人気、すっごいもん」

「ああ、そういう事か……」


 さもありなん、と僕は思った。

 幼少時に一緒に暮らしていた僕でさえ、今の粍夏の姿には驚かされたのだ。

 彼女の姿を初めて見る同級生の男子達が、彼女を放っておける筈などないだろう。

 が、無論それは同年代であるからこその話だ。僕はきっぱりとこう言った。


「僕が君らからどう思われているか知らないが、僕は生徒をそんな目で見てないよ」

「女子の脚ばっか見てる人に言われても、全然説得力ないよ」

「ふぁあっ!!」


 叫んだ時には遅かった。歩來は僕のその様子をみて、ひどく無邪気に・・・・・・・笑うのだった。


「……ナナちゃんが女の子の脚をガン見してるの、富岡先生が知ったらどうなるかなぁ?」


 あまつさえ、そういうの・・・・・に特に厳しい女性教頭の名前を出す。

『どう思うかな』ではなく『どうなるかな』というのだから余計にタチが悪かった。

 背中を、とめどない汗が流れた。


「マジで、気をつけたほうが良いよ。女子ってそういう視線、すぐ分かるから」

「……どうすれば良いんだ?」

「RINE教えて。今回はそれで勘弁したげる」


 ちゃっ、と、歩來はスカートのポケットから、持ち込み禁止の筈のスマホを取り出し、SNSアプリを開いた。

 僕は観念して、歩來と連絡先を交換する事と相成った。


 歩來からの最初のメッセージが届いたのは、連絡先を交換して一時間後、僕が岳巳先輩との待ち合わせ場所である、居酒屋『辻井亭』へ向かう道中の事だった。

 矢鱈と絵文字の多い挨拶文には、十秒程度の動画が添付されていた。

 それは、彼女が階段の踊り場で仲良しのクラスメイト数人と、テンポの早いダンスミュージックのようなもののリズムに合わせて縦に揺れたり横に揺れたりしている不可解な動画で、後日訊いたところによると、なにやらそういうものが、若い子たちの間でにわかに流行っているのだという事である。

 …………


✳︎✳︎✳︎


「すまんな今日は。いきなり呼び出して」

「いえ、いえ。誘ってくれて嬉しいです」


 夜七時過ぎ、僕と先輩は鳥羽森駅の繁華街にある居酒屋『辻井亭』の、奥に一室だけ用意されている個室で、ビールのジョッキを軽くぶつけて乾杯した。


 そこはいかにも先輩の気に入りそうな店だった。

 店の柱の芯にまで揚げ物の油が染み込んだような古い店で、気難しそうな大将と愛嬌のあるおかみさんと、若い数人の従業員があくせくと働いていた。広告という広告は出しておらず、客の殆どは地元の人間で、賑わってはいるが喧しいという程ではない。そして何より、出てくる一品一品が美味かった。特に、ビールのアテに頼んだ、揚げたてのポテトチップスは絶品だった。


「どうした優路ゆうじ、えらく疲れた顔をしてるな」

「ええ、色々ありまして……」


 先輩の指摘の通り、実際僕は、色々思い悩んで疲れていた。また、罪の意識にも苛まれていた。

 ――女性……というより粍夏と歩來、二人の事が分からない。

 アニカツとはなんなのか。なぜ他の教師ではなく僕だけを揶揄ってくるのか。なぜすぐママになろうとしてくるのか。なぜ靴下を脱ぎ捨てていくのか。

 そして、靴下の一件をきっかけに、少女の脚に惹かれるようになってしまった自分に、真っ当な未来はあるのか――


「俺で良ければ相談に乗るぞ」


 そう言われ、僕は手元のジョッキをぐいと飲み、意を決し先輩にこう問うた。


「先輩、アニカツってなんですか?」

「パパ活のお兄ちゃんバージョンだ。パパより若い、丁度お前や俺くらいの年代が対象だ」

「……あの、先輩、パパ活とは?」

「お前は色んな意味で高校教師には向かないな、優路」


 僕の何の脈絡もない質問にも動じず、先輩は事も無げにそう言って、唐揚げを摘んでビールを飲んだ。

 

「教えてやる代わりに、こちらも一つ教えてくれ。優路、その兄活という言葉、一体誰から、どういう状況で聞いたんだ」

「教え子から、廊下で、そのアニカツという奴に誘われたんです」

「女子からか」

「はい」

「周囲に人は居たか」

「その時は誰も居ませんでした」

「可愛い子か」

「はい」

「クラスで何番目くらいの可愛さなんだ」

「……先輩、それは重要な情報なんでしょうか」

「馬鹿、そこが一番重要だ」

「そうですか……僕の主観ですが、学年で一・二争うくらいだと思います。実際、学生や教師たちからの人気も高いです」


 ちなみに僕基準で学年一可愛いのは、姪の粍夏にほかならないが、それは関係ないので黙っていることにした。


「うらやましい」先輩はしみじみそう言って、だし巻き玉子を口に運んだ。

「優路、お前は真面目でいい男だが、男女の機微や、邪気というもの何も分かっていないと見える。そんな事では、これからの時代の教職は勤まるまい。いいか、よく聞いておけよ、パパ活というのはだな……」


 そう言って先輩は、手元のカバンからタブレットコンピューターを取り出し、ブラウザを起動して僕に色々なページを見せてくれた。


 色々な記事を読んだ。現代の闇・JK(女子高生)ビジネスの実態。パパ活、そしてそこから派生する兄活という言葉の意味するところ。年端もいかない少女たちを食い物にしようとする大人たちの嫌らしい企み。そして小遣い欲しさや承認欲求のために、容易く身体を売ってしまう少女たち……一通りを読み終えた僕は、喉元にまでせり上がってきた嫌な気分を、レモンチューハイで胃の底に流し込んだ。


「よく分かりました。つまり、凪坂さ……その子は、小遣い欲しさのために僕とデートしようとした訳ですね。悪い友達から兄活の話を聞き、それなら自分でも手軽に小遣いが稼げると思った。だけど、中年のおっさん相手ではリスクがあるから、安全でくみし易い僕が標的になったワケだ」


 そう言って僕が深く溜息をつくと、先輩はその様子を見て苦笑した。


「一概にそうとも言えんがね……っと、どうした優路? 凄い汗だぞ」


 その時僕は、兄活の記事からリンクしていた、JKリフレなる業態について書かれた記事を読んでいた。


 JKリフレ。女子高生による密着なサービスを売りにする、JKビジネスの代表格である。制服を来た少女と個室で会話を楽しみ、追加料金を支払う事によってハグや添い寝等のサービスが実施されるという。


 無論、そういう商売があるという事は知っていた。教職員用の研修で学んだ。

 だが、そのあまりの心当たりのある感じ・・・・・・・・に、動揺を隠しきれなかったのは紛れもない事実である。

 制服姿の女子高生と個室で会話、ハグ、添い寝……これは、すべて、粍夏が最近僕にしてくれていることではなかったか。

 こ、これ、もし仮に、僕と粍夏のやりとりが明るみに出れば、僕の教師人生は、というか社会人生は、あっけなく潰えてしまうのではないか……。


 僕は全てを振り切るようにぶんぶんと首を振り、思い切り酒を飲み干した。


「優路、大丈夫か?」

「……大丈夫です」


 見てはいけない現実を知ってしまったが、怪我の功名というべきか、くだんの記事から、粍夏の先の奇行の意図が見えてきたぞ、とも思った。

 男の部屋に靴下を置いていく……ようするにあれは、パパ活・兄活少女たちの間の『流行り』なのではないか?


 先程歩來から送られてきた奇っ怪なる動画しかり、最近ミルクティーに添加されているという不気味な黒いつぶつぶしかり、ルーズソックスよろしくクシャクシャに縮められた靴下しかり……とかく若い少女達の間で流行るものは、男には理解不能である。男に靴下を渡すという行為も、ただ世間に疎い僕が与り知らぬだけで、不良少女達の間で流行っている奇特な文化なのではなかろうか。


 学校とは、多種多様な生活環境にある子ども達が複雑に交錯する場所だ。

 新しく出来た悪い友達に影響を受けた粍夏が、不良的な振る舞いを真似してみたくなり、身近な男である僕に対して実践したと考えれば辻褄は合う。いやそうに違いない。そうでなければ、愛らしくお淑やかな我が姪が、あのような下品な真似をする訳がないのだ……


 毎晩いろいろ思い悩んで疲れていたせいか、その日は酒の回りが早かった……という言い訳は通用しないだろうが、次の瞬間、僕は明らかな失言をした。


「先輩」

「なんだ?」

「パパ活とか兄活って、最後に女の子の使用済みの靴下が貰えたりするんですか?」

「靴下? お前、女の子の使用済みの靴下に興味があるのか?」

「え、いや、ちが」


 雲行きが怪しいと、直ぐに気付いた。

 あと、思いのほか先輩の声がデカかったので、他の客に聞かれた可能性に狼狽えもした。


「ははーん、さてはお前、ノーマルなんかじゃなくて、性癖が歪みすぎてて逆に『普通の変態』に興味がないタイプの変態だな?」


 先輩はしたり顔でビールを飲み干し、日本酒を二合注文した。


 酔った僕が出した仮説は、当然ながら大外れだったらしい。 

 先輩をもってしても、やはり靴下は変態判定が出た。

 見えたと思った粍夏の意図は、またしても闇の中だった。


✳︎✳︎✳︎


「お、優路見ろ、西駅裏のホテヘル、千円で女の子の使用済み靴下を持ち帰っていいらしいぞ。このあと行っとくか?」

「結構です。興味ないんで」

「風俗嬢の靴下は嫌か?」

「違うっ! 風俗嬢がどうこうじゃなく、居酒屋での発言は、決して僕の願望ではない、という意味です!」


 後刻、僕と先輩は『辻井亭』からほど近い場所にあるオーセンティックバー『OWL』のカウンター席に居た。

 そこは地元民にも知られていない、いわゆる隠れ家的な店だった。

 カウンター席が十ほどあるだけの狭い店で、バックバーには数えきれない程の洋酒のボトルが、蝋燭と間接照明に照らされ輝いていた。平日という事もあってか、店は空いていて、客は僕たちのほかに常連とおぼしき男が二人居るだけだった。スローテンポのジャズが流れていた。


 先輩はジントニック――彼は初めてのバーでは必ず最初にジントニックを頼む――を、僕はマスターのお勧めのビールを頼んだ。


「鳥羽森は良いな」


 ジントニックで口を湿らせながら、先輩は言った。


「仕事で方々に出張してるから、俺はわりかし色々な街を歩いてきたつもりだが、こんなに好感が持てる街はそうない」

「……そこまでですか? ここで育ったからかな、僕は鳥羽森をそんな風に思ったことはないです」

「大正デモクラシーって奴か」

「そうです、灯台下暗しです」


『OWL』もまた、先輩にとって当たりの店のようだった。ジントニックを半分ほど飲んだ彼は、マスターとしばしジントニック談義で盛り上がっていた。ジンの選び方、ライムの切り方、どこどこの店のジントニックはどうだとか……そんなマニアックな会話で、彼はさっそく初対面のマスターと打ち解けていた。


「俺は新しい街を訪れるとき、必ず地元民の個人ブログを見るんだ。どこに行って何を食べるか……殆どの情報はそこで集める。グルメサイトや旅行サイトのような、現代的資本主義の手垢が付いていない情報源で集める事が重要なんだ」

「……そういうブログが無かった場合は?」

「住民が何も語らない街は死んでいる」


 先輩はそう断じて、言葉を続けた。


「鳥羽森は素晴らしい。資本主義の力学に屈せず、多くの個人飲食店が生き残っている。賑やかで、知的で、少しだけ猥雑で、狭い路地の一本一本に違う歴史が流れている。『辻井亭』やこの『OWL』がその良い例だ。これであと、温泉さえ湧いていれば、俺は思わず鳥羽森に永住しているところさ」


 ジントニックを飲み終え、目を皿のようにしてバックバーを眺めていた先輩が、やがて「お、あったあった」とお目当ての酒を見つけたようで、マスターに「大将、トバモリーの十年をロックで」と言った。マスターはにやりと笑い、僕も思わずそのボトルを見てしまった。鳥羽森のバーで「トバモリー」なる酒を飲む……全く先輩はお茶目な男である。


「優路、酒の肴に、さっきの兄活少女の話を聞かせてくれよ」

「……ほかの話題にしましょうよ」

「おっさんが語る女子高生の話より面白いものは、この世にはないぞ」


「なあ、大将」と先輩が言うと「まさしく」とマスターが答える。見事に打ち解けている。

 

「……一言で表すと、僕の天敵ですよ」


 僕はビールをごくりと飲むと、突き出しの柿ピーを摘んで、言葉を続けた。


 一年C組、凪坂歩來あるく

 成績は中の上、人当たりが良く、さばさばした性格で、何よりとびきりの美人であるため、男女を問わず人気がある。入学してまだ二ヶ月も経っていないのに、もう数人の男子生徒から告白されたとか……そういう噂も聞いている。


 制服を多少着崩してはいるものの、それも教師から指導を受けるという程の事でもなく、授業態度も課題の提出も問題ない。歩來は教師のウケも良い。だが――何故か歩來は、僕の前でだけは、手の付けられぬ不良と化す。

 ひとたび僕が教壇に立てば、その細く綺麗な手を「はい」「はい」と高く挙げ、やれ彼女は居るのか、好きな女の子のタイプはどんなか、クラスでどの子が一番可愛いと思うか……そういった色恋沙汰の質問ばかりを投げかけてきた。その度にクラスが沸き立ち、授業どころではなくなるので、新米教師の僕としては堪ったものではなかった。


「……他にも、体操服のまま特に用事もなく職員室に遊びに来るわ、昼休みに自販機の紅茶をねだってくるわ、教室移動に付いてきて邪魔するわ……とにかく、若い教師をおちょくって遊ぶ、厄介な子なんですよ」

「ちなみに他の若手教師で、その子から同様の仕打ちを受けている奴はいるのか?」

「……いませんけど」

「ンフフッ」

「ええ、ええ! そうですよ僕だけがバカにされてるんですよその子にっ!」

「……これは前途多難だな、兄活少女もこんな朴念仁が相手では大変だ」

「どういう意味ですか?」


「さてな……」先輩はそう呟いて、こんな事を言ってきた。


「優路、一度その子と兄活してみて来い」

「……なにをどう考えたらそうなるんですか」

「可愛い子なんだろう? 他の男どもからすれば垂涎ものの話じゃないか」

「ロリコンの人たちからすれば、そうなのかも知れませんがね」

「ロリコンねぇ……」


 先輩は思案げに手元のロックグラスを傾けると、至極真面目な顔でこう言った。


「優路、そもそも女子高生はロリータじゃないぞ」

「また危ない話題を……どういう意味ですか」

「言葉の定義の話だよ。お前、ロリータの語源を知っているか」

「語源? ……確か、ナボコフの小説のタイトルですよね」


 バーでなんて話をしてるんだ……そう思った。


「そうだ。ナボコフの小説『ロリータ』において、主人公のハンバートは、九歳から十四歳までの悪魔的な少女の事を『ニンフェット』と呼び、その年頃の子どもに執着している。なので、女子高生、つまり十五歳以上の女性は、ナボコフのいう『ロリータ』ではない」

「へー」

「余談だが、我々ウィスキー党……特に俺のようなシングルモルト至上主義者にとってもまた、この九歳から十四歳という数字は、特別な意味を持つのだ」

「先輩、酔ってるでしょ」

「酔ってなどいない。これを見てみろ」


 先輩はカウンターに置かれたウィスキーの瓶を指差した。それは今まさに先輩が飲んでいる「トバモリー」だった。薬品瓶を思わせる緑色のボトルに、クリーム色の紙ラベルで「TOBERMORY」と書かれている。熟成年は十年とある。


「スコッチ・シングルモルトは三年以上の熟成を経たものが出荷される。一般的に、これは若ければ若いほど価格が安く、アルコールのアタックが強い。逆に、熟成年数が経てば経つほど、酒の角が取れ、価格が上がる。有名ブランドの三十年ものなんて、一本数百万、数千万で売買されることもある」

「ワインみたいな世界ですね」

「あるいはそうかも知らん。無論、そんな馬鹿高いウィスキーは日常飲まれるようなものではない。では、そんなシングルモルトの味と価格が釣り合っているボリュームゾーンは何年熟成なのか」


 そこでやっと、先輩の言わんとしている事がおぼろげに見えてきた。


「なるほど、それが九年から十四年なんですね」

「その通り。シングルモルトのオフィシャルボトルの殆どは、九年から十四年の間、寝かせたものなのだ。きっと、この偉大なる琥珀の酒は、雄大なるスコットランドの地で眠るうちに、ハンバート博士の言う『悪魔的な魅力』を纏っているに違いない。……案外、俺らウィスキー飲みとロリコンの連中とは旨い酒が飲めるかも知らん、今度やってみよう」


 そう言って先輩は、大きな丸氷の入ったグラスを傾け、残るトバモリーを一気に飲み干した。

 本当に余談だったなと、僕も手元のビールを一口飲んだ。


「余談ついでだが、優路、お前が今飲んでいるそのホワイトビールは、実はビールではなく発泡酒だ」

「えっ? そうなんですか?」


 意外に思いそう返すと、気を利かせてくれたマスターが、瓶を出して見せてくれた。裏面のラベルをよく見ると、品名の表記は確かに『発泡酒』とあった。


「知らなかった……これ、ビールじゃないんだ。こんなに美味しいのに」

「そう思うのも無理はない。日本で発泡酒と言えば、ビールより廉価なものという印象が強い。だが実際、それらは海外ではれっきとしたビールであり、寧ろ国産のプレミアムビールより高級な事もある。だが日本の酒税法で分類すると、これらは『発泡酒』に分類されてしまうのだ」


 先輩が次の酒を頼んだ。またも小難しい名前のシングルモルトで、熟成年数は十四年だった。


「言葉や常識は時代によって様々だ。お前は先程、兄活少女とのデートを『ロリコンなら』と評したが、十八歳未満との少年少女の恋愛や性交がタブーになったのは、あくまで現代以降に定着した考え方で、それ以前の人類史では、寧ろ十八歳以上で独身ならばそっちが異常だったんだ」

「人類の平均寿命が短かったからでしょう、それは」

「例えそうだったとしても、第二次性徴を迎えた十五・六歳の少年少女たちに心惹かれる感情は、生物学的になんらおかしなところは無いと……俺は思うがね」


 そんな先輩の言葉に、僕は不覚にも深く感銘を受けていた。

 僕はこの数日間、粍夏の腕の中を恋しいと思う己の感情を、必死に捨て去ろうとしていた。だが先輩の言う通り、それはあくまで現代になって初めて市民権を得た価値観であり、それを十把一絡げにロリコンの変態と断ずるのは早計だったのかも知れない。

 可愛い女子高生に心惹かれるのは、変態でもなんでもなかったのかもしれない……!


「先輩……僕、実は」

「そんな神妙な顔するなよ、優路。ジョークだ、ジョーク。我々のようなおっさんが女子高生に熱を上げれば変態の罪でブタ箱行きだ。中世がどうのこうの騒いでも、警察はなんの酌量もせん」


 そう言って先輩はがっはっはと下品に笑って、新しく注がれた酒を美味そうに飲んだ。

 僕はマスターに強い酒を頼んだ。


「まあ何にせよ、兄活少女とは一度デートしてみろ」

「……なんでそこまであの子の肩を持つんです」苛々しながら、僕は言った。

「何故なら、教師はいつだって生徒の味方であるべきだからだ」


 またぞろ揶揄われるかと身構えたが、どうやらそのような雰囲気でもない。


「その子とちゃんと向き合って、その子の言葉を受け止めてみろ」

「…………」

「大人なように見えても、高校生ってのは子どもだ。親や、友達や、他の教師達には言えない悩みも多々あるだろう。そんな子ども皆がみんな『悩みがある』なんて言うと思うか?」


 グラスの脚をくゆらせながら、先輩は静かな瞳でこちらを見ていた。


「コンプライアンスなんて知ったことか。教え子とちゃんと向かい合え、優路。その子だけが言葉に出来て、お前にしか伝わらない思いが、きっとある。そこがきちんと通い合ってさえいれば、お前はもうその子を『天敵』だなんて思わなくなるさ」

「せ、先輩……!」

「それに、デートして仲良くなれば、その子が靴下をくれるかもしれないぞ」

「靴下を……!」

「お、いい感じに酔ってるな、優路」


 先輩の指摘の通り、僕は随分と酔っていた。マスターが出してきた強い酒で、気分も高揚しており、口も軽くなっていた。


「先輩、この間、仲良くなった女性が、家に靴下を脱いで置いて帰っていったんです」

「お前が欲しがったんだろう」

「断じて違う」

「女の方が粗忽者で、靴下を脱いだのを忘れて裸足で帰ったとかじゃないのか」

「それどころか、わざわざ自宅から同じタイプの靴下を持ってきていて、それと履き替えて帰って言ったんです」

「なんでそんなことする必要があるんだ」

「それがさっぱり分からないから、さっきのような質問をしたんです」

「なるほど、ならば簡単な事じゃないか」

「えっ」


 そこまで聞いた先輩の結論は早かった。


「そりゃ、女が変態だ」


 粍夏は変態だった。先輩はそう断じた。

 零時前、駅前のビジネスホテル前で先輩と別れた僕は、ふらふらとした足取りで、家路についた。

 今度、粍夏にガツンと言わねばならぬと、彼女の変態を正しき道に導いてやらねばと……そうかたく心に決め、家路についた。


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