女子高生の姪がなんか僕のママになろうとしてくる話

nyone

ガンマ―デカラクトンはママから漂ってきてはダメ



 意を決し右手を前に差し出すと、ほんの一メートル先に座る少女は尚一層に目を輝かせた。


「ゆうちゃんすごーい! ハイハイが上手いんだぁ」


 そう言って、少女は心底嬉しそうに、僕に優しく微笑んだ。

 微笑んで、その白くて細い両腕を、僕に向けて大きく広げた。


「さあ、おいで♥ ママのところまで、もうちょっとだよ?」 

「…………」


 少女の自室には、僕と彼女以外には誰もいなかった。かち、かち、かち……と、壁掛け時計の秒針が、無機的に時を刻んでいた。柔らかな春の陽差しが、浅葱色あさぎいろのカーテンを透過して、部屋を舞う小さな埃を照らしていた。

 少女の薄紅色の唇がほころぶ。少し舌足らずな甘ったるい声で、僕に優しく語りかける。


「ゆうちゃん、ママのこと、呼んでごらん? ゆうちゃんにはまだ早いかなあ?」

「…………ま」

「できるかなぁ?」

「……まっ!」


 一気に言えば言い切れると思っていた。

 というより、一気に言わねば言い切れぬと思っていた。

 そう思い、己の喉と舌を鼓舞して、勢いをつけて吐き出そうとしたその言葉は、だが、声になるその直前に力を失った。「マ」と「マ」を続けて言う、たったそれだけの行為に、途方もない力と覚悟を要した。

 赤ん坊になるというのは、こういう事だったのか――僕は空恐ろしく思いながらも、全身の力を懸命に振り絞って、一分強という長い時間を要して、ようやっと彼女に言った。


「…………ママ」

「はぁい♥ よくできましたぁ♥」


 少女――静宮しずみや粍夏みりかは、僕のその声を聞き届けると、満面の笑顔を浮かべた。

 僕は、絞首台に向かう罪人の心持ちで、無限にも思える距離を這い、粍夏の元へ向かった。

 そうしなければ、彼女は僕のママでなくなる。

 そうなれば、僕にはもう、この世で生きていく術はない。


 そうして、実に三分強もの時間を要して、僕は粍夏の元に辿り着き、その両腕に優しく抱きしめられた。

 その瞬間、自分の中の目に見えぬ何か――これまで自分がずっと大切にしてきた筈の――が、大きく崩落したように感じた。もう、元に戻る事は出来ないと、そう思った。


 粍夏――今年で十五歳になる僕の姪だ――に掻きいだかれると、桃の香りを思わせる彼女の甘い体臭が、むせ返りそうなほどの密度をもって、僕の肺を満たしていった。

 僕はなすがままにそれを受け入れ、急激に速度を失ってゆく思考回路の片隅で、

 ――確か、この香りの主成分はラクトンC10シーテンという有機化合物だったな……そんな、人生におよそ必要のない知識を、記憶の底から探り起こす作業に没頭していた。

 そういう、何ら生産性のない頭脳労働を己に課す事によって、僕は、粍夏の腕の中で、己の自我が完全に崩壊するのを水際で押し留めていた。



 六年ぶりに再会した姪っ子が、性的に倒錯していた。

 僕は、その姪っ子に弱みを握られ、逆らう事が出来ず、彼女をママと呼んでいる。

 …………



✳︎✳︎✳︎



「お待たせしました。次は、鳥羽森とばもり、鳥羽森。お降りの方は、お知らせください。次は……」


 バスの車掌の間延びした声で、僕は目を醒ました。

 紺色のシートにもたれたまま窓外に目をると、六年振りに見る住宅街が、右から左に流れていた。街路の桜は満開で、舞い散る花びらが吹雪の様にアスファルトを桃色に染めていた。


「もう六年かあ、思えばあっという間だったな」


 僕はそう独りごち、窓枠のすぐそばにあった停車ボタンを押す。ほどなくして、路線バスは鳥羽森のバス停前に辿り着き、僕だけをそこに降ろして、直ぐに立ち去った。

 停車場から左右に開ける住宅街の展望は、まるで初めてこの場所に降り立ったかのような、不思議な感覚を思い起こさせた。白線の剥がれかけた二車線の向かいには、いつの間にかコンビニが出来ていたが、その場所が元々どんな店だったのか、僕はもう思い出せなかった。


「変わらないようで、意外と変わってるなあ」


 感慨深く思いながらも、僕は淀みない足取りで南の方へと歩を進め、それから五分ほどを掛け、目的の場所に辿り着いた。

 そこはなんの変哲もない、木造の二階建ての一軒家だった。

 道路に面した駐車場に赤色の軽自動車が一台停まっていて、石段を二段上がった木製の玄関扉の右脇に『静宮』と書かれた御影石の表札が掲げてあった。知らぬ間に塗替え工事でもやったのか、壁の白色は自分の記憶よりも少しだけ真新しく見えた。僕はその玄関前に立ち、焦げ茶色のインターフォンを押した。


「はい、はーい。どなたあ?」


 間を置かず、そんな声と共に、スリッパの音がこちらに近づき、やがて玄関の戸が開く。


「あらあらぁ! 優くん! 久しぶり!」

「うん、久しぶり……姉さん」


 数年振りに再会した、一回り年上の姉――静宮しずみや遥夏はるか――は、今年で三十七歳になるとは思えぬ、若々しさと美しさを兼ね備えた佇まいで、僕に挨拶してくれた。

 彼女になんの邪気なく微笑みかけられた事に、どこかむず痒さを覚えながらも、僕は彼女に招かれるまま、六年振りに静宮家の敷居を跨いだ。


「上がる前に、なにか言う事があるんじゃないかなあ? 優くん」

「えーと、はは……じゃ、ただいま、姉さん」

「はい、お帰りなさい、優くん」


✳︎✳︎✳︎


「コーヒーで良い?」

「あ、今日はほんとに挨拶だけだったから、お構いなく」

「なによお、いっちょ前に大人になっちゃって」


 そう言って、けらけらと笑いながらも、姉はケトルを火にかけ、コーヒー豆をグラインダーで挽き、ドリッパーの準備を始めた。


粍夏みりかちゃんは?」

「みぃちゃんは、今日は友達とお出かけ。だから今は私一人よ」

「義兄さんは……まだ戻れないの?」

「そうなのよぉ、まだ二〜三年はあっちみたい。だから、当面みぃちゃんと二人暮しねぇ」


 そうこう言っているうちに、姉はコーヒーの支度を終えて「はい、どうぞー」と言いながら、僕の前に良い香りの漂うマグカップを置いてくれた。


「ありがと……うわ、このカップ、僕が高校生の頃使ってたやつだ!」


 僕は懐かしく思った。ちょっと淵が欠けた無骨なそのマグカップは、鳥羽森とばもり高校に在学していた三年間、僕がこの静宮家に居候していた頃に愛用していたものだった。

 姉は僕のそんな様子にくすくす笑いながらも、自分のカップを手に取った。


「それで優くん、今日はどうしたの?」

「うん。実は、僕、来月から正式に教員として採用される事が決まってね。今日はその挨拶」

「へええ、あの優くんが学校の先生かあ。そっかあ……月日が経つのは早いのねえ。それで、最初の赴任地はどこなの? 県内ではあるんでしょ?」

「うん。それがね、変な巡り合わせなんだけど……鳥羽森とばもり高校なんだ」


 僕のその言葉に、姉は心底驚いたという風に目を見開いた。


「ええ! 鳥羽森なの? 本当に?」

「うん。だから、実は今度引っ越してきたアパートも、割とこの近所でさ……」

「じゃあ、じゃあ、来月からうちのみぃちゃんと同じじゃない」

「えっ、粍夏みりかちゃん、鳥羽森に入学するの?」


 姉のその言葉に、今度は僕が驚かされた。

 無論、この静宮家の娘である粍夏が、最寄りの普通科である鳥羽森高校に進学するのはごく自然の事だったが、僕が驚いたのはそこではなく……


「あのちっちゃかった粍夏ちゃんが、今年で高一かあ……時が経つのは早いなあ」

「ふふ、優くんがこのうちにいた時は、みぃちゃん、まだ六歳とか七歳とかだったものね」

「そうそう。クラスの中で背が低いの気にしてる癖に、小学校に上がってからも、おままごとが卒業出来なくて……。僕、毎日付き合わされてたもんなあ」

「赤ちゃん役で、よだれ掛け付けさせられてね?」

「あっ、それは……うう、覚えてるんだね。あれはねえ……僕もあの時、高校生だったから、ほんと恥ずかしくて、でもアレ付けないと粍夏ちゃん、凄く悲しい顔するし……今は思い出すのも恥ずかしいけど……十年後はまた違うのかもね」


 僕はそう言って、コーヒーを一口飲んだ。


「あら、ブラックで飲めるようになったのね」

「六年間でね、ちょっとだけ大人になれたんだよ」

「そうねえ……すっかり大きくなっちゃって、格好良くなっちゃって……それに引き換えお姉ちゃんときたら、年だけとって、おばさんになってくばっかり。ほんと、ヤになるなぁ……」

「おばさん、なんて……姉さんは今でも綺麗、だよ」

「うふふ、お世辞も上手くなったんだ。でも嬉しいなあ」


 ――お世辞なんかじゃないよ……ついムキになってそう言い返そうとしたその矢先、玄関の方から「ただいまぁ」という、ちょっと舌ったらずな感じの、女の子の声が聞こえた。


「おかえりー。みぃちゃん。優お兄ちゃん来てるよ〜」

「えっ!?」


 ととと、という足音が、廊下からこちらの方へやってくる。程なくして、リビングの扉を一人の少女が開けた時……僕の心臓は、しばし止まった。


「っ! ……お兄ちゃん!」

粍夏みりかちゃ……ん?」


 六年振りに再会した姪――静宮粍夏のその容姿に、僕は不覚にも見惚れてしまった。

 垂れ目がちなチョコレート色の瞳、肩下まで伸ばされた艶やかな黒髪、きめ細やかで色白な、細っこい身体、薄く光る桜色の唇――丁度二十年前、鳥羽森高校に通っていた頃の……僕の初恋を奪っていった姉と、瓜二つの、その可憐な姿に。


「久しぶり……お兄ちゃん」

「う……うん、久しぶり、粍夏ちゃん」


 しどろもどろになりつつ、僕は粍夏にそう返した。姉はにやにや笑いでこちらを見ていた。


「みぃちゃん、優お兄ちゃんね、今年の四月から鳥羽森高校に赴任するんだって。良かったね?」

「……!」


 姉のその言葉に、粍夏は初々しくも顔を赤らめ、上目がちに僕に問うてきた。


「そ、そうなんだぁ……ちなみに、お兄ちゃんは、そ、その……なんの先生に、なるの?」

「あ、えっと……現代文、なんだけど。粍夏ちゃんも、来月から鳥羽森高校だったんだね。今、姉さんから聞いて、その」


 そんな僕たちの様子を見ていた姉は、まるで揶揄からかうように、こんな事を言ってきた。


「ね、みぃちゃん、折角だから、優お兄ちゃんに高校の制服姿、見て貰ったら?」

「えっ!?」


 それを聞き、僕のほうが驚いてしまったのだが、


「……う、うん」

「粍夏ちゃん!?」


 何を思ってか、粍夏はふたつ返事でそれに頷き、そのまま足早に二階へと上がっていった。

 ととと……と、可愛らしい足音が遠ざかっていく。

 僕が呆気にとられていた様子を見て、姉がまたぞろ、くすくすと笑った。


「……どう? どう? 結構可愛くなってない? うちの愛娘まなむすめは」

「結構どころの騒ぎじゃないよ、あれは……。美人に育てすぎだって。あのの同級生の男子たちは大変だ」

「ふふー」


 僕のその返答に満足がいったという風に、姉は頬杖つき、こちらを見た。

 僕は嫌な予感がした。その時の姉の顔は、これまで嫌という程見慣れた、悪戯を思いついた時の顔だった。僕をなおも揶揄おうというときの、心底楽しそうな顔だった。


「ね、優くん、今、付き合ってる人とかいるのかなあ?」

「いや……誰も居ないけど……なんで?」

「誰も居ないんだあ。じゃ、じゃ。優くん、せっかくだから、粍夏を貰ったらいいよ」

「え、ええっ」


 姉のその発言に、僕は面白いくらいに狼狽うろたえてしまった。


「ちょっと姉さん、冗談でも変な事言わないでよ。僕と粍夏ちゃんじゃ年が離れすぎてるし、どう見ても釣り合わないし、そもそもあの子はまだ高校生になったばっかだよ!?」

いにしえ〜!」

「いにしえ!?」


 聞きなれぬその返答に、僕は鸚鵡おうむ返しで答えてしまった。流行っているのか?


「そんな事言って強がってるけど、あのの制服姿を見て、果たしておんなじ事が言えるかなぁ?」

「えっ? それ、どういう……」


「お兄ちゃん、あの……」


 声をかけられ、僕は後ろを振り返り、再び二の句が告げなくなってしまった。


 果たして、そこにいたのは制服姿の粍夏だった。

 在学中にすっかり見慣れた筈の、鳥羽森高校の濃紺色のブレザーが、今はまるでトップアイドルの着る衣装のように輝いて見えた。白いスクールシャツの上に着込まれた、真新しい白いカーディガンは、身体の成長を見越しての事か、今はちょっとぶかぶかで、袖口が手の甲まで覆われていた。それがまた、えも言われぬ可愛らしさを演出しているのだった。

 制服姿の粍夏は、掛け値無しに可愛かった。きっと自分が彼女の同級生だったなら、一目惚れして、でも一言も声を掛けられぬまま三年間を過ごしてしまうだろう――そういう類の。


「ど、どうかなぁ、お兄ちゃん」

「う、うん……凄く、その、似合ってると、思います、ええ」

「優くーん? なーんで目を逸らすかなあ。もっとみぃちゃんをよく見てあげて、ね?」


 姉がしたり顔で僕に近づき、その形の良い口を僕の耳に寄せ、こんな事を言ってきた。


「このはぁ、今、君のために、この制服を着てるんだよ?」

「……っ!」

「そんな恥ずかしがってないで、このの事、もっとよく見てあげて? 太ももとか、ふくらはぎとか、すごく綺麗だと思わない?」

「……っ! ね、姉さん! 良い加減にしてくれよ、もう!」

「はぁ〜、やっぱ優ちゃんは幾つになっても可愛いなあ、もう……」


 本気で怒った僕の姿を見て、姉は腹を抱えて笑っていた。

 自分でもされたい放題だとは思うけれど、いかんせん、この天敵ともいえる母娘おやこが相手では仕方がない事でもあった。


「お兄ちゃん、あのね」粍夏が言った。

「う、うん、なにかな」

「国語の問題で、わかんないところが、あって」

「ああ、それなら、今ちょっと教えようか?」


 僕は、その粍夏の、なんとも初々しい様子に安堵した。

 願わくば、この少女には、母親のように男を揶揄って遊ぶ女にはなって欲しくないものだ。

 僕は粍夏に促されるまま、彼女の自室のある二階への階段を上がった。


「ごゆっくりー」


 階下から、姉のそんな声が聞こえた。


✳︎✳︎✳︎

 

「うわぁ、なっつかしいなぁ。昔はよくお邪魔してたよねえ」


 六年振りに訪れた姪の部屋は、当時と殆ど変わっていなかった。

 学習机の横に貼られたアニメのシールは剥げかけていて、数年前に亡くなった祖母から買い与えられた品の良いふじ箪笥たんすは、どこもかしこも可愛らしい粍夏の部屋の中にあって、相変わらず少し浮いていた。そうした、僕が見慣れた家具や置物たちが、午後の陽光を受けまどろんでいた。


 ただ、部屋を漂うやたらと甘くて良い匂いについては、僕の預かり知らぬものだった。

 彼女も高校生になり、香水だとか、アロマポット(?)だとかを使うようになったという事なのだろう。僕は、すっかり大人びた姪の成長に、寂しさとも嬉しさともつかぬ感情を覚えながらも、本棚に並んでいた一冊の絵本を手に取り、テーブル脇のクッションの上に腰を下ろした。


「はは、『さびしいドラゴン』、懐かしいなあ。よく読み聞かせてあげたよね」

「覚えててくれたんだ」

「勿論だよ。この家に居候させて貰ってた高校三年間は、そりゃ勉強も大変だったけれど、やっぱり凄く楽しかったもん。でも、まさか粍夏ちゃんが、この六年でこんなに美人さんになってるとは思わなかったけどね」

「お兄ちゃんも、その……すごく、かっこよくなったと思うよ」


 春薔薇のつぼみが花開くように、粍夏は笑った。


「お兄ちゃん、今日は、来てくれて、ほんとうに、ありがとう」


 彼女のその言葉に、僕は首を傾げた。


「うん? そりゃあ、三年間もお世話になった訳だしね。挨拶くらいは……え?」


 そう言った途端、粍夏の表情がぽかんとして、数秒後、今にも泣き出しそうな顔をしたのを見て、僕は狼狽えた。


「ええっ!? ど、どうしたの、粍夏ちゃん?」

「お兄ちゃん、まさか、覚えて、なかったの……?」


 覚え、て……?


 そこでようやく、愚鈍な僕は重要な事を、思い出したのだった。

 そう、だ。

 なぜ今まで、忘れていたのだろう。


「今日は粍夏ちゃんの、誕生日……」


 自分はなんてデリカシーのない男なのだろうと、僕は思った。

 もう少し考えていれば、今日が粍夏の誕生日だと言うことはすぐに分かった筈だ。

 高校の頃は毎年、お小遣いを貯めたり短期のバイトをしたりして、この愛らしい姪っ子にプレゼントをあげていたではないか。このにずっと笑顔でいて欲しくて、楽しい思い出だけを積み重ねてあげたくて。

 そう、だからきっと、このは、僕が他ならぬ今日というこの日を祝いに来てくれたものと思っていたに違いない。

 それをぶち壊しにしたのは、他ならぬ僕だ。


「ごめん、粍夏ちゃん。本当に、ごめんね」僕は言った。


「プレゼントは、今度改めて、させて欲しい。ただ、それ以外で、何か今日、僕にできるプレゼントはないかな? 僕に今できる事だったら、何でもするから、遠慮なく言ってよ」

「……なんでも?」

「うん。なんでも」


 意を決して、僕は言った。

 ただ、そこにほんの僅かな打算――つまり、内気で心優しいこの姪が、そんな無理難題を突きつけてくる筈はないだろうという――が無いかと問われれば嘘になるのだが、肝心なのは、今日というこの日を、粍夏の心に悲しい思い出として残さない事だ。その為ならば、幾らでも道化師ピエロになってみせると、僕は腹をくくった。


「それなら、ね、お兄ちゃん……」


 悩ましげな声で、粍夏は言った。


「……しよ?」

「……へ?」


 僕は思わず素っ頓狂な声を上げた。


「な、なにを、するのかな?」

「……分からないの?」 


 粍夏がすっくと立ち上がり、壁際の箪笥へと歩いていく。

 クッションに座っている僕の目線の、ほんの数十センチ先に、ひらひらと揺れるチェック柄のプリーツスカートと、その下に伸びる白い太ももが見えている。


 ――そんな恥ずかしがってないで、このの事、もっとよく見てあげて?


「〜〜っ!」


 先刻の姉の言葉が脳内にリフレインしていた。情けない話、僕は目の前で揺れる姪っ子のスカートや、ほっそりとした脚から目を逸らす事が出来なかったのだが、やがてそのふくらはぎの合間から、彼女の部屋の箪笥の引出しの中、色とりどりの下着が詰まっているのが見えた時、半ば条件反射で窓側に首を回す事に成功したのだった。


「……お兄ちゃん、こっち、みて?」

「い、いや、でも」

「お願い」


 姪にそう言われ、僕は恐る恐る視線を彼女に向け――首を傾げた。


「粍夏ちゃん……なに? これ」

「分からない?」


 無論、それが何かは、すぐに分かった。

 粍夏が箪笥から取り出して、いま手に持っていたそれは、デフォルメされたくまさんがプリントされたそれは、薄水色の可愛らしいデザインのそれは……世間一般に、よだれ掛けと言われるアイテムだ。


「……あの、みりか、ちゃん?」

「なあに?」

「粍夏ちゃんの言うお願いっていうのは……まさか、まさか」

「おままごと」

「あのう」

「おままごと」


 ――マジで?


 僕は最後の希望を託し、粍夏の目をじっと見た。

 姪の瞳には、一点の曇りさえ無かった。

 ただ、その綺麗な瞳でじっと僕を見据え、よだれ掛けを差し出してくるだけだった。


「…………」


 僕はごくりと唾を飲み込んで、手渡されたよだれ掛けを見た。

 ていうか、そのよだれ掛けには、見覚えがあった。

 僕が高校の頃、おままごとの度に、幼かった粍夏に付けさせられていた、彼女のお下がりの物だった。今考えると、当時の僕も大概どうかしている。


「あのね、粍夏ちゃん、幾らなんでも悪ふざけが過ぎるよ。僕たちはもう」

「お兄ちゃん、お兄ちゃんがこの家で暮らしてた頃、お母さんの下着が一枚無くなったこと、あったよね」

「ふぁあっ!!」


 叫んだ時には遅かった。粍夏はその様子をみて、ひどく無邪気に・・・・・・・笑うのだった。


「始めよっか」無慈悲に、粍夏は言った。


 はじめる?

 はじめるって、どういう意味の日本語でしたっけ?


 思考停止した僕を置いて、粍夏は壁際の、薄桃色のシーツが貼られたベッドにあがって、僕の方を見て「おいで?」と言った。

 僕は、目の前の少女に、言い得ぬ畏怖を覚えたまま、立ち上がろうとして――


ゆうちゃん・・・・・? 赤ちゃんはね、歩けないんだよ?」


 ――マジで?


 それから、数分後。


 成長してすっかり美しくなった姪っ子の部屋、二人分の重みに軋むベッドの上、壁掛け時計の針の音、熱に浮かされたような瞳でこちらを見る粍夏、吐き出される甘い息、火照った頬、慈愛に満ちた、優しい眼差し。

 僕は、今、女子高生の姪っ子のベッドの上で、よだれ掛けを身に付けて、目の前の少女に向かってハイハイをしていた。


「み、粍夏、さん。あの、ね?」

「ちがうでしょー?」

「……へ?」


「ゆうちゃんはぁ、こういうとき・・・・・・は、ママの事、いつもなんて呼んでたかな?」

「…………」

「なんて、呼んでたかなあ?」

「…………ま…………、…………、…………ママ」

「はぁい、よく出来ました」


 にっこりと笑って、目の前の少女は両腕をこちらに広げた。


「おいでぇ、ゆうちゃん」

「…………」


 僕は、自分がまだ壊れていない事が不思議でならなかった。

 恥ずかしさのあまり、今にも死んでしまいそうに思ったし、その一方で、今死んだら、それは恐らくこの人類史で一番情けない死に方ではないかとも考えた。

 

 そもそも、これはおままごとなのだろうか? もっと別の、異質な何かではないのだろうか?

 ともかくそんな曲折の末、冒頭に申し上げた通り、僕は粍夏のもとに辿り着いた。


「よくできましたぁ♥ えらいよ、ゆうちゃん♥」


 かくして、僕は粍夏に――十五歳の姪に――優しく抱きしめられた。

 その時、僕は初めて、この部屋に充満していた甘い匂いの正体を突き止めた。

 抱きしめられたまま、僕は薄く目を見開く。

 眼前いっぱいに、粍夏の真っ白なスクールシャツと、その生地の向こうに透ける、彼女の薄緑色のブラが見えている。


 割と最近の話だ。

 とある製薬会社の変態研究員が、変態的手法に基づく変態的研究の末、ついに「若い女性特有の甘い匂い」の正体を突き止めた。

 それは二つの有機化合物から織りなされる香気成分だったのだが、そのうち、桃の香りをなす『ラクトンC10シーテンΓガンマ―デカラクトン)』と呼ばれるものは、十代の少女特有のものであり、二十代になる頃には殆ど消失しているという。

 部屋に充満していたのは、香水でもアロマポットでもなく、ただ純粋に粍夏の――年頃の少女のみが放ち得る、甘い体臭なのだった。


✳︎✳︎✳︎


 それからどれほどの時間が経ったのか、記憶さだかではない。

 気が付けば、粍夏は僕を胸元に抱きしめたままベッドに身を横たえ、薄い毛布を掛けていた。毛布が掛かると、部屋に充満していた甘い匂いがより濃度を増した事だけは、はっきりと分かった。


 ――ふつり。


 ふと、腹のほうで何か微かな音が聞こえたように感じ、僕は何気なくそちらに目を向けた。

 動いていたのは粍夏だった。

 右手で僕の頭を撫でながら、もう片方の左手で、自分のシャツの乳白色のボタンに手を伸ばし、そのボタンを外す――先ほどの音はその音で、彼女はそのまま、はだけたシャツを上にたくし上げ始める……


 ――まずい、授乳される!


 粍夏のその動き――完全に赤ちゃんに授乳する直前の母親のそれ――が、あまりにも自然だったため反応が遅れてしまったが、その動きに本能的な危機感を覚えた僕の左手は、なかば条件反射的に粍夏の左手を掴んでしまった。

 シャツをめくる粍夏の手は止まった。

 彼女のお腹は半分以上はだけていて、真ん中には可愛らしいへそが見えていた。


 ――あ、危なかった……僕は安堵した。


「ふふ、甘えんぼさん。ママとおてて、繋ぎたいのかな?」


 その瞬間、粍夏の指がするりと動き、僕の指と絡まって、恋人繋ぎの形になった。


「…………」


 僕は唖然と、あまりに自然と結ばれた、自分の左手をまじまじと見ていた。

 仕上がっている、と、思った。


 これはいつまで続くのだろうと、この状況から、どうすれば社会的に助かるだろうと、僕は考えた。

 いつ助けが来るのだろう? とは言っても、この状況、助けが来るとしたら、無論姉しか居ないのだ。

 姉だけが、唯一の救いだった。彼女がこの部屋に茶菓子だのコーヒーだのを持ってきさえすれば、二階に上がってくる己の母の足音さえ聞こえれば、きっと粍夏は正気を取り戻し、この煉獄れんごくは中断されるに違いない。その瞬間が一刻も早く来ることを、僕は祈っていた。


 勿論、ここで声を上げて、助けを呼ぶ事も出来たろう。

 だが、その行為は十中八九、赤ちゃん的ではないとみなされるだろう。

 そうなれば、おままごと、終了である。

 その後どうなるかなど、火を見るよりも明らかだ。粍夏はこの部屋に駆け込んできた姉に、僕の罪を暴露するだろう。それだけは避けねばならぬ事だった。


 時計の針の音だけが、響いていた。


 待てども待てども、姉が二階に上がってくる事はなかった。

 そこで、僕は、先ほど姉に言われた最後の言葉を思い出した。


 ――ごゆっくりー。


 ぞっ、とした。

 まさか、と思った。


 ――まさか、姉は、僕たちがこうなっている・・・・・・・事を承知しているんじゃないのか?

 ――だから、待てど暮らせど、姉はこの部屋に来ないんじゃないのか?


 ひたり、と、首の後ろに冷たい感触があった。

 なんのことはない、自分の冷や汗だった。


「ゆうちゃん」

「……?」


 その時、ぽつりと呟かれた粍夏の声音に、これまでになかったニュアンスを感じ、僕は胸元から顔を上げ、彼女の方を見上げた。


「そんな不安そうな顔、しないで……」

「…………!」


 粍夏はとても寂しそうな顔をしていた。

 僕は、今までの自分を――自分の事だけしか考えていなかった己を恥じた。

 粍夏は、ただ純粋に、久しぶりに会ったお兄ちゃんと、懐かしいおままごとがしたかっただけなのではないだろうか。心の一部が幼稚なまま、ここまで育ってしまっただけで、彼女はただ純粋に、僕とかつてのような時間を、過ごしたかっただけなのではないだろうか……


「大丈夫だよ」僕を優しく抱きしめて、粍夏は言った。


「こわいこと、なにもないよ」

 ――え?

「ここにはこわい人も、嫌な事も、辛い事も、なにも来ないし……ママはずっと、ゆうちゃんの味方だから。ゆうちゃんのママだから……ね? だから、そんな不安そうな顔、しないで」


 そう言って、粍夏は僕の髪を撫で、あらわになった額にキスをした。


 ――あ、やばい。

 これは、本当に、まずい。

 この時間、これ、割と、その、凄く、悪くないかも、知れない――


 悲劇は、その時起こった。


 

 ピピピピピ、ピピピピピ……



「?」


 無機的な電子音の発生源は直ぐに分かった。

 サイドテーブルに置かれていた粍夏の携帯だった。

 粍夏が何気なしに、僕の頭を撫でていた片手を離し、携帯に手を伸ばした。


 それは多分、この一連の時の流れの中で、ただ唯一、粍夏の意識が僕以外のものに向けられた瞬間だったろう。


 後になって思えば、その瞬間ならば、僕は粍夏に声を掛けて、彼女と――例えば「友達からだったの?」だとか、「電話に出なくて良いの?」だとか――そういう類の、知的な言葉を交わすことができたのかもしれない。

 だが、その瞬間、粍夏を見上げる自分の口から漏れ出たのは、そうしたいずれの言葉でもなく、


「あっ……」


 それだけだった。


 僕は、咄嗟に自分の口から発せられた言葉に驚愕した。

 その時、不覚にも僕は、『粍夏が自分以外のものに注意を向けた』その瞬間に、本能的な寂しさを覚えてしまっていたのだった。

 その結果として、口から漏れ出た言葉が「あっ……」であった。


 認めざるを得なかった。

 さっきのは、完全に、完璧に、徹頭徹尾、一切の矛盾のない……赤ちゃんムーブだった。


「えっ……?」


 僕のその無意識的な反応は、さすがの粍夏も意外だったらしい。彼女はすぐにこちらを見た。目が合った。

 きっとその時――心の底から認めたくない事だが――僕は粍夏に対して、真に母親を求めるような、そういう、寂しい目をしていたのだろう。


 直後、粍夏は今しがた持っていた携帯の画面を見ることさえせず、側面の電源ボタンを押した。鳴り響いていた着信音が止んでもまだ、粍夏はボタンを押し続け、やがて彼女の携帯は完全に沈黙した。

 部屋には、つい先ほどまでの、濃密な静寂が訪れた。


「ごめんね、寂しかったよね。大丈夫だよ、ママがついてますからねぇ」


 粍夏は再び、自由になった両手で、僕を抱きしめ髪を撫でる行為に戻った。


「ママ……」


 呟くように、僕は言った。

 その「ママ」は、本当に、自然に、なんの無理もなく、すっと己の口から溢れでてきた。

 

「はぁい」


 粍夏は優しくそう返して、もう一度髪を撫で、額にキスしてくれた。

 ――ああ。

 僕は、自分の中の"何か"が、決定的に失われてしまった事を、理解した。

 …………


✳︎✳︎✳︎


「泊まっても良かったのよ?」

「帰ります」

「まだ優くんのお布団も残ってるし」

「帰ります」

「そう……」


 少しだけ残念そうな顔で、玄関先に立つ姉は言った。

 日はいつの間にかとっぷりと暮れていて、住宅街は車通りも少なく、星が綺麗に見えていた。


「ばいばい、お兄ちゃん・・・・・

「う、うん……ばいばい、粍夏ちゃん・・・・・

「きょうの続きは・・・、また今度、ね?」

「…………」


 僕は、姪のその言葉を、うまく拒否する事が出来なかった。


 そうして僕は、静宮家を後にした。

 春先の夜風は少し肌寒く、先ほどまで粍夏とぴたりとくっついていた自分の身体にはあまりにも辛いものだった。


「……さむ」


 思い返せば、自分は一人なのだ……そんな当然のことを僕は思ったが、その当然だった筈の感覚には、今や明確な亀裂が入っているのだった。


 当分、静宮家には近づかないようにしよう。

 そう思った矢先、ふと、姉に言われた言葉を思い出した。


 ――じゃあ、じゃあ、来月からうちのみぃちゃんと同じじゃない。


「そうだったぁ……来月から、粍夏ちゃんと三年間、一緒の学校に行くんだったあ……」


 鳥羽森とばもり町バス停前、向かいにコンビニの光が煌々と照るその前で、僕はうずくまって頭を抱えた。

 うずくまった僕はバスの運転主に気付かれず、結局次の便を取り逃がし、泣く泣く最寄りの駅に至る一時間弱の道程を、歩いていく事になるのだった。


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