Act.03『やさしい拳』

 昔から「お前はすぐに手が出ちゃう子なんだから気を付けな」と、母親によく怒られていた。


 本当にその通りだと思う。

 あれこれ考えるよりも先に、必ず暴力を振るってしまう。

 たとえ教えられた通りに理性で押し留めようとしても、いざカッとなってしまうと何もかも忘れてしまうのだ。


 自分の主張エゴを押し通そうとするたびに、常に誰かを傷つけてきた。

 そして己の傷んだ拳を見るたびに、こんな生き方しかできない自分が嫌で嫌で堪らなくなった。


 けれど。

 そんなバカで短気な自分にも、寄り添ってくれる人たちがいた。

 何も傷つけずに、ただ彼らと笑い合っていたい。そんな掛け替えのない日常を守るためならば、きっと自分にだって『やさしい』生き方ができるはずだ。


 喧嘩とは無縁の日々を過ごしているうちに、いつしか少年もそう思えるようになっていた。拳を振るうことさえしなければ、きっと自分に優しくしてくれた奴らにも恩返しができるはずだと信じていた。

 そんな優しい生き方を、望んでいた。

 もう誰も傷つけまいと、固く誓っていた、はずだった──





《朝ごはんは食べた? 歯は磨いて顔も洗った? 受験票は? ちゃんと削ってあるエンピツを二本以上用意した? 湯島天神で一緒に買ったお守りもちゃんと持った? ていうか起きてる!?》


「起きてるからこうして電話にも出てんだろーが……つか落ち着け」



 過保護すぎる塾講師こと恋ヶ浜こいがはま寿子ひさこからのモーニングコールに半ば呆れ返りつつも、身支度みじたくを済ませた麻倉あさくら朔楽さくらは荷物を詰めたリュックサックを背負った。


 なお彼が通話に用いているのは、世間的にはここ数年ですっかり見かけなくなったタッチパネル式の旧世代型携帯端末レトロデバイス……いわゆる“スマートフォン”と呼ばれる機種である。

 多くの人々が3D立体映像ホログラム出力式(=画面なし)の次世代型情報端末スマートターミナルに移行しつつある西暦2037年現在においても、あえて朔楽は地に足のついた使用感のあるこちらを愛用していた。



《落ち着けないわよぉ〜、昨日だってドキドキして眠れなかったんだから!》


「遠足前のガキかよ……! それに、緊張したからって点数が上がるわけでもないだろ?」


《うぅ、それもそうだけどぉ……》



 肩に挟んだスマホから発せられる寿子ひさこの弱々しい声に耳を傾けながら、玄関までやってきた朔楽はぎゅっと靴紐を結んでいく。

 彼自身もまったく緊張していなかったといえば嘘になるが、それでも試験前の朝にこうして担任講師と話せたおかげで、だいぶ気持ちも落ち着けることができた。



「まあ待ってろって、とりま試験が終わったらそっちに直行するからよ」


《うん、待ってるわ。じゃあ……頑張ってね、麻倉くん》


「おうよ」



 そう言って通話を切ると、寝室がある方向へと肩越しに振り返る。

 朝は夜勤明けでくたびれた母親が眠っている時間だ。そんな働き者の彼女に配慮して、朔楽はなるべく声量を抑えて告げる。



「行ってくるぜ、母ちゃん」



 誰にも聞かれることのない挨拶をしてから、朔楽は自分たちの住んでいるアパートを出発した。

 外に出るやいなや、2月の早朝らしい冷え冷えとした空気が肺を満たす。試験の開始時間まではまだしばらくの余裕があるので、最寄りの駅までゆっくりと徒歩で向かうことにした。


 駅近くの公園で待ち伏せしていた彼らと鉢合はちあわせたのは、その矢先だった。



「よォ。久しぶりだなァ、麻倉クゥ〜ン」



 一目で不良だとわかる高校生くらいの男が声をかけてきた。

 また彼の背後には同じ制服を着た男たちが十数人ほどおり、いずれも金属バットやメリケンサックといったに身を固めている。


 どうやらこちらのことを知っている人物のようだが、朔楽は彼らがいったい何者なのか本気で思い出せなかった。



「………………誰だっけ?」


「オイオイ、忘れたとは言わせないぜ。テメェにはこの傷の礼をたっぷりしなきゃならねぇんだからよォ〜」


「……ああ、あん時のアイツか」



 右瞼みぎまぶたから頬にかけてを引き裂いたような痛々しい切り傷を見せつけられ、朔楽もそこでようやく思い出す。

 そういえば1年ほど前、勝手に因縁をつけてきた高校生ら数人を病院送りにしたことがあった。彼はそのリーダー格であり、刃物で襲いかかってきたところを夕二ゆうじとともに返り討ちにしたのを覚えている。

 予想だにせぬ連中との再会に、朔楽はうんざりと白いため息を吐く。



「つまるところ報復かよ。にしてもこんな朝早くから待ち伏せとは、ご苦労なこったなぁオイ」


「まぁ、ちっとツラ貸してくれや。散々オレらを待たせたんだからそんくれェいいよなぁ? 『怒羅魂ドラゴンさくら』の麻倉サンよォ〜……ククク、ギャハハハハハ!」


(てめーらが勝手に待ち伏せてただけだろうが……)



 そんな朔楽の意思が尊重されるはずもなく、気付くと彼の背後には他の不良たちが回り込んでいた。どうやら完全に取り囲まれてしまったようである。

 四方から聞こえてくるゲスな笑い声に心の底から辟易へきえきしつつも、朔楽はリーダー格の男を細めた目で見据みすえる。



「悪ィな、そういう荒っぽいことはもう止めにしてんだわ」


「……は?」


「つーわけだからよ、オレ用事あっから行くぜ」



 以前の朔楽なら、売られた喧嘩は真っ先に買っていたことだろう。

 だが、少なくとも今の彼は違った。喧嘩をすれば自分以上にそれを悲しむ人がいるし、何より今は試験会場に向かわなければならない。



「行くっておま……ちょ、待ちやがれッ!」



 不良たちの相手はしないことに決めた朔楽だったが、何事もなく立ち去ろうとする彼を不良の一人が慌てて取り押さえようとした。

 背後から肩を掴もうとしてきたその腕は、微妙に距離が足りず空振りし──代わりにリュックサックの横に付いていたストラップを掴み、そのまま勢いあまって引きちぎられてしまう。


 朔楽はすぐに立ち止まり、血相を変えて振り返る。

 先ほどの不良が手にしていたのは、朱色の布に包まれたお守りだった。



「ン? なんだこりゃ……“合格祈願”?」


「ってことはコイツ、ひょっとして今日の公立入試に行くところか!?」


「そういえば噂で聞いたことがあるぜ、『怒羅魂ドラゴンさくら』の片割れがハセ高を受験しようとしてるって話。てっきり俺は龍暮りゅうぐれの方かと思ってたが、まさか脳筋バカな麻倉のほうだったのかよ……!」



 不良仲間たちの間でどよめきが広がりはじめる。

 それらは次第に面白がるような笑い声へと変わっていき、黙ったまま立ち尽くしている朔楽の神経をじわじわと逆撫でていく。

 極めつけは、グループの中でもとくにしたみたいな男からの暴露話だった。



「お、おれも見たぜ! 駅前の塾から、そいつと若くてキレイな先生が二人で出てくるところをよォ!」


「それは本当か、山下?」


「お、おう。ありゃあ女優のバッキー似でとんでもなく美人な姉ちゃんだったなぁ。楽しそーに話してたのをよく覚えてるぜぇ……」


「ほう……? つーコトはこのお守りも、その美人先生から貰った大事なモンってわけだ。ククク、まったく麻倉クンも隅に置けないねェ」



 厄介なことに、リーダーの男が語った推測はおおよそ当たっていた。

 彼は仲間の一人からお守りをぶん取ると、それを朔楽に見せつけながら薄ら笑いを浮かべる。なにか嫌な予感がした朔楽は、汗を浮かべつつ睨み返した。



「おい、さっさとソレ返せ」


「フッ……いいぜ、なら返してやるよ」



 意外にもあっさりと承諾した男は、そっとお守りをこちらに差し出した。


 ──が、朔楽が受け取るよりも前に、お守りは傾けられた男の手から滑り落ちてしまう。そして地面に落ちたそれを、男はなんと勢いよく踏みつけた。



「……



 男はまるで見せしめるように、靴の底を何度もアスファルトへと擦りつける。

 その瞬間、それまで朔楽の理性を繋ぎ止めていた糸がついに途切れた。彼は一気に男の懐まで潜り込むと、下段から顎のあたりを目がけて拳を突き上げる。

 正面からのアッパーカットをまともに食らったことで、男の巨体がわずかに揺らいだ。それでも男はどうにか両足を踏ん張ってこらえてみせると、口許くちもといびつにほころばせて言い放つ。



「ハッ……今のは『ケンカを買った』っつーコトでいいんだよなぁ? えぇっ、麻倉クンよォ!!」



 今にも反撃してきそうなリーダー格の男に対し、朔楽はつい反射的にファイティングポーズを取る。

 が、それは頭に血が上っているがゆえに冷静さを欠いた彼の判断ミスだった。目の前の男に気を取られている間にも、他の仲間が二人ほど後ろに回り込んでいたのである。


 うち一人が金属バットを勢いよく振り下ろした。

 死角からの不意打ちに対応しきなかった朔楽は、そのまま後頭部にクリーンヒットを食らってしまう。

 骨が芯から震えるような鈍い音が響く。それほどまでに手加減も容赦もない一撃だったが、驚くべきことにそれでも朔楽が倒れることはなかった。

 彼は頭部から大量の血を垂れ流しながら、今しがたバットで殴った男のほうをゆっくりと振り返る。



「いまバットで俺を殴ったのは……てめーか?」


「ひ、ひぃ……っ!」


「……まあ、誰でもいいか。どうせ全員ブッ潰すことになんだからよォ」



 寿子ひさことの関係がこの不良たちに知られてしまった以上、たとえ中途半端に返り討ちにたところで、今度は彼女にも危険が及ぶ可能性が出てきてしまった。

 であれば、残された選択肢は1つしかない。


 この松江戸中マッドちゅうの無敗伝説とうたわれた最強のコンビ『不死身の怒羅魂桜ドラゴンさくら』の片割れに対して──

 二度と報復する気も起きないほどに、この不良たち全員を徹底的に



「急いでんだ。面倒だから全員まとめてかかってきな」



 それより後の記憶はほとんど曖昧だ。

 ただ1つだけはっきりと覚えていたのは、不良どもを殴れば殴るほどに、決して言い逃れようのない事実にして真実を思い知らされたことである。



 『やっぱり俺にな生き方なんて、出来るはずがなかったんだ』──と。



 それからしばらくして、朔楽は宣言通りに不良たち全員をつくばらせることに成功する。

 だが全てが片付いたときには、試験の開始時刻をとっくに過ぎてしまっており……


 彼の高校受験は、挑む前に終わりを告げてしまったのだった。

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