第6話「無銘」

 突然の豪雨。

 滝のような雨で、一瞬にして髪と服がびしょ濡れになる。

 足下には水たまりができ、徐々に赤く染まっていく。


「私のせいで……」


 利家は死んだ。

 利家さんは私を助けるために亡くなったんだ……。きっとここで死ぬべきはずじゃなかったのに……。

 利家は地面に大の字で倒れ、もはや動かない。手には朱色に塗られた槍を握り締めている。

 キコは槍を拾い上げる。


「重い……」


 槍は2メートル以上あり、ずっしりと重く、ふらついてしまう。

 甲冑を着てこんなものを振り回して戦っていたのかと、戦国時代の武士、そして利家のすごさを実感できる。


「お借りします」


 このまま手に持って運ぶことはできそうにないので、キコは槍を横にして馬にその重さを預ける。

 こんなもの持って行ってどうするんだろう……。

 キコは自分でもこれから行おうとしていることが分からなかった。これで戦うのか? これで人を殺すのか?

 ただ走り出さなければならないという気持ちに駆られ、キコは馬を飛ばす。




 雨はいっそうひどくなっていた。

 ミナミが言っていた通り、ヒョウも混じっていて、ときどき硬い塊が体に当たってはじける。

 キコはミナミたちのところへ戻らず、一直線に桶狭間に向かっていた。

 そこに深い意図があったわけではない。あとで考えてみれば、ミナミたちを巻き込みたくないという気持ちがあったのかもしれない。だが、そのときはただ自分が動かなければならないと思い、他人のことを考える余地が全くなかった。

 桶狭間にたどり着くと、すでに戦いが始まっていた。

 歴史通り、今川本陣に織田軍が奇襲をしかけたのである。今川軍は雨を避けて休憩しているところだったため、戦闘の備えをしていなかった。鎧を着ることもできず、まともな反撃をできないまま、織田軍に討ち取られていく。

 織田軍は圧倒的少数という劣勢を覆し、今川軍に対して優勢に合戦を進めていたのだ。


「信長さんを探さなきゃ……」


 それが唯一の行動指針だった。戦うことでも、相手を殺すことでもない。信長を助けること、それが利家との約束なのだ。


「少しでも私にできることを……」


 キコは豪雨の中を馬で駆け抜ける。

 視界はほとんどなく、敵味方をまともに識別できない。

 だがそれはキコにしてみれば幸いだった。敵も高速で駆け抜けるキコを認識できないのだ。それに、人の命が散っていく瞬間を目にしなくて助かった。

 流れは完全に織田軍にあり、今川軍はただ飲まれるだけになっている。なんとか相手を斬り伏せることができても、すぐに取り囲まれて果てていく。

 しかし、今川軍は誰も逃げだそうとしていなかった。すでに覚悟を決めていているのだ。どうせ逃げたところで逃げられない。ならば、大将のために戦い、華々しく散るだけ。

 キコは不思議な一団を見つけた。

 これまではバラバラに戦っている様子ばかりだったが、その一団は誰かを守るように固まって戦っている。

 守ると言えば偉い人に違いない。つまりそれは……。


「今川義元!」


 しまった、とキコは思う。

 この戦場で一番近づいてはいけない集団に遭遇してしまった。大将である今川義元を守る集団が一番強く勇猛で、警戒心、闘争心も激しいはずだ。

 引き返す間もなく、キコはあっという間に取り囲まれていた。

 馬を降りて、敵対する意志はないと示そうと思ったが、いきり立った目は問答を聞いてくれそうにない。

 キコは馬を返して強引に逃げだそうとする。

 だが今川兵に槍を突かれ馬は驚き、乗っていたキコを跳ね落としてしまう。

 キコは雨でできたぬかるみに落下する。


「あうっ……」


 かろうじて受け身は取れたが、服は泥にまみれ、目にも泥水が入って視界を失ってしまう。

 すぐ前で兵士たちの雄叫びがする。見えないが、きっと槍や刀を振りかざし、キコを殺そうとしているのであろう。

 私死ぬんだ……。

 キコは死を覚悟する。

 ここは戦場。向かってくる者は敵で、相手が女だとか未来人だとか関係ない。それは死人になればなおさら。一般人、戦闘員はもちろん、敵味方も貴賤も区別できない、ただの肉の塊。自分もまた、その死人の一人になってしまうんだと、キコは悲しくなる。

 なんでこんなことになっちゃったんだろ……。神様は私に何をさせたくて、戦国時代に来させたの? ただ死ぬだけじゃないか。私が来たせいで利家さんは無駄死にしたんだ。意味が分からない……。誰が死ぬためにこんなところへ来るものか。こんな訳の分からないところで死ねるか。

 キコはとっさに槍を掴んでいた。

 利家の槍である。馬から投げ出され、泥の中に埋もれていた。

 手に激しい衝撃に走る。


「え……」


 槍にぶつかった者がいたのだ。

 それは鎧ごと体を槍に貫かれ、驚いた顔をしている。まさか自分がそんな目に遭うとは思っていなかったのだろう。

 思いもしなかったことが起きたのはキコも同じで、槍を持つ手をとっさに放してしまう。兵士は槍の体に残したまま、その場に崩れ落ちる。


「私が……殺した……」


 殺す気なんてなかった。けれど、自分の持つ槍で誰かが死んだのは事実だった。

 現実が一気に遠くなる気がした。

 だがそれで夢の世界に行けるというわけではない。目の前では、今川兵が仲間の敵を取ろうと、キコに斬りかかろうとしていた。

 もはやキコには、自分が死ぬ死なないという意識がなかった。ただ呆然と、相手の刃が到達するのを待っているだけ。


「戦場でぼけっとするな」


 キコに振ってきたのは刀ではなく、武者だった。すぐ前でどさっと、魂を失い抜け殻となった体が崩れ落ちて来た。


「信長さん……!?」


 信長の一団が背後から今川兵を斬り伏せ、キコの窮地を救ったのだった。


「戦場で女に会うとは、やはり貴様は神の使いであったか」


 そう言いながらも、信長は迫り来る敵を次々に捌いていく。


「いえ、私は……」

「話はあとだ。こっちへ来い!」


 義元を守るため、兵士たちが果敢に挑んでくる。一難去ったが、危険な状態はいまだ続いているのだ。

 落馬で体が痛むが、弱音を吐いている場合ではない。キコはようやく体を起こし、信長たちの背後に回る。

 今川兵は徐々に押され、信長は勢い任せに突撃し、ひたすら義元の姿だけを追った。

 キコははぐれまいと、単独で突っ走る信長のあとを必死について行く。

 信長は雑兵に目をくれず、大将首を求めて走り続ける。そして、ついに義元を捉えた。

 この戦場において最も豪華な鎧と兜。義元で間違いない。義元は部下数人に守られ、顔はやややつれているが、戦意を失った様子はなかった。


「お前が信長か。わしの首を取りに自ら来るとはな」


 義元は腰から刀をゆっくり抜いた。


「さんざん部下が世話になったからな。その礼くらいさせてもらわんと、気が済まん」


 信長も刀の切っ先を義元に向ける。

 奇襲で織田軍が有利といっても、多勢に無勢で、かなり大きい被害を出している。この桶狭間の戦いの前にも、砦がいくつも陥落し、仲間を大勢失っているのだ。

 護衛が義元を守るように配置につき、信長と対峙する。


「女」

「あ、はいっ」

「助けてはやれん。一人でなんとかしろ」

「はい……」


 映画のような最終局面にドキドキしていたが、これは現実。自分も登場人物の一人なのだ。自分は無関係だからといって、相手が自分を放っておいてくれるはずがない。

 しかし、槍は置いてきてしまったので、キコは手ぶらで立ち尽くすことしかできない。

 キコがあたふたしているうちに、戦闘が始まる。

 信長は素早い動きで刀をまっすぐ突き立て、一人の喉元を貫く。男は一撃で鎧のない急所をつかれ、血を噴いて倒れる。

 刀を引き抜き、そのまま走り込んで来る兵を切り上げる。

 これで二人目。あとは一人。

 だが、この最後の一人が虚を突いてきた。

 刀を捨て信長の下半身に組み付く。タックルだ。信長は思わぬ行動に足を取られ転倒する。

 義元を守る手段としては適切だった。護衛は死んでも構わない。相手を少しの間でも無力化できればいいのだ。


「こいつ……」


 信長は刀を取り落としてしまい、拳で殴って振り払おうとするが、兵はいくらぶたれようとも、足を放そうとしない。

 その間にも義元に逃げられてしまうと、信長は焦った。

 けれど義元は逃げはしなかった。

 義元は倒れた信長の頭上にいる。信長を殺すため、刀を振り上げていた。


「くそっ……!」


 信長に組み付いた男は自分ごと斬れと言わんばかりに、信長に覆い被さり離れない。

 義元はためらうことなく、信長目がけて刀を振り下ろした。

 けれど、刀は信長の首を落とす寸前に止まった。


「お前……」


 キコであった。

 信長の刀を拾い、下からすくい上げるようを振り上げていた。

 金属と金属が激しくぶつかり、火花が散る。


「くうっ……」


 激しい振動が伝わってきて、手がしびれる。

 刀を取り落としそうだ。二撃目が来たら、防ぎ切れる気がしない。

 信長は組み付いた男を蹴り飛ばす。男は義元にぶつかり、二人とも後方にのけぞる。

 男はすぐに姿勢を立て直し、脇差しを抜いて信長に斬り込んでくる。


「よこせ」


 信長は、棒立ちしているキコの手から刀を奪い取り、男の脇差しを受ける。そのまま力で押し返し、男を蹴倒した。

 そして、迷うことなく上から突き刺してとどめを刺す。


「次は貴様だ」


 信長は刀を構え、ゆっくり義元へとにじり寄る。

 その威圧感に、これまで信長に決して引かなかった義元も後ずさる。


「よかろう。わしとてこの戦国を生き抜いた武人。受けて立とう」


 両者は激しく刀を打ち合せた。

 斬り合いと言うよりも、刀による殴り合いという表現のほうが正しいだろう。力任せに刀を叩きつけ、相手を圧倒しようとする。

 二人とも間合いを開けたり、回避したりするつもりはない。ただ目の前の敵に刀をたたき込んでいく。

 刀と刀が何度もぶつかり合い、鋭い金属音が響き渡る。


「やるな……。年は取れど、覇者を目指した男には変わりないようだ」

「ほざけ、小童。大業は一日や二日で成せるものではないぞ」

「ならば、貴様のあとを継いでやろう」

「なに?」


 義元の力が緩んだ間を信長は見逃さなかった。


「てやあああっ!」


 渾身の力で一閃。

 刀ごと義元をたたき切るつもりで振り下ろした。

 しかし、力は違う方向に逃れ、義元へは至らなかった。

 激しく打ち付けられたことで、義元の刀が宙に舞ったのだった。義元が手を放したわけではなく、柄の目釘が砕けて刀身が外れたようだ。

 刀身はすっと切っ先から、地面に落ちて突き刺さる。

 次の瞬間、信長の二太刀目により、義元の首は飛んでいた。

 勝敗は決したのである。大将同士が戦い、織田信長が勝利した。


「無駄にはせん。あとは信長が譲り受ける」


 信長は一度深く呼吸をし、刀を鞘に収める。そして、キコに渡した。


「え? これは……」

「褒美だ。義元を討たせてくれたな」


 確かに信長はそういう約束をしていたが、刀を渡されるとは思ってもいなかった。

 武士ならば相当名誉なことなのだろうが、キコは武士ではない。そんなものより、食べ物やお金をもらったほうが嬉しい。


「え、でもこんなものを……」

「遠慮するな。俺はこれをもらう」


 そう言って信長は義元の刀を地面から引き抜く。

 そして表裏を返して刀身を眺めている。


「無銘……か。だがそれがいい」


 刀は制作者の名前が彫られているものだが、義元の持っていた刀には何も彫られていなかったのだ。


「え……」


 キコには信長の言う意味が分からなかった。

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