日常の解釈について .9

「フォローが必要だとこちらが判断する要因は二つあるよ。一つ目、体内に寄生した紙片は常に“記録”を欲している。本の記述内容、君が行い感じる全ての経験。君がそれらを絶やしてしまえば今度は君がそれまで蓄積してきた“記録”を食い尽くそうとしてくる」

「記憶喪失になるってこと……?」

「捉え方にもよるけど、記憶障害って言葉の方が事実的にはまだ近い。ここも検索失敗説を採用するべきか、減衰説か、はたまた干渉説か、まあどれでも良いけど、障害も喪失も引き出せなくなる、想起不可能になる、というのが表現としては正しいかな。エピソード記憶自体の想起が出来なくなっても、人間は多くの場合、陳述記憶や意味記憶、手続き記憶など、」

「周、もっとわかりやすい言葉を選べ、俺を相手にしてる時と同じく喋るなといつも言ってるだろ。あと説明が長い……、茉莉花、平気か?」

 問われて、咄嗟に答えられない。それでも聞かなければならない。自分が陥った状況が把握出来なくなるのも恐ろしいと感じた。多分これは、逃げてもどう出来るものではない。

 なんとか首を縦に振ってディミトリに先を促す。

 起き抜けの感覚は満足感だけではなかった。朧気ながらも、その充足を得るのと同時に感じていた恐怖も覚えている。

 おいしい。

 おそろしい。

「……おまえが蓄積してきた情報全てがなくなる、と思って貰ってくれ。今まで生きてきた思い出や家族、友人の顔を忘れることもそうだが、他にも言葉を喋ることも、歩くことも、そういったもの全てを紙片は強制的に餌とする。全てなくなれば身体だけが残ることになる、……わかるか?」

「――わたしに、さっき質問を投げたのは……」

「そうそう、今回の戦闘でどの程度消費されたのか確認するためだよ。どうも紙片はエピソード記憶に該当する“おもいで”を先に食べてしまう。嘘だと思うなら三日間くらい何もせずに過ごしてみるか、古書を使うだけ使って何もせずにいるといい」

 思った以上に無茶苦茶である。知らぬ間になんてものを身の内に宿したのか。笑い出しそうになるくらい、これはすこし、きつい。

「……ディミトリも、そうなの?」

「……紙片にとって文字は燃料であり、餌だ。文字に限定はされんが、おまえが外界から受ける刺激、思考、感情の推移、それらは餌として認識される……起きたとき、おまえの周りに本が散らばっていただろ。あれは、おまえが無意識のうちに読んだものだ」

 病室で気が付いて、最初に感じたのは欲求が収まっていると感じた。あれは、つまり紙片が文字を適量取り込み満足したことを意味していたのだろう。

「紙片を、使わなくても? それでも消費される?」

 何もかも忘れてしまうのだろうか。

「失いたくなければ、読むのが一番手っ取り早い」

 答えとしてははっきりしないものだったが、言外に肯定されているようなものだ。

 実益と趣味。病室に散らばった本をそう言っていたディミトリと、この書庫に置かれた書物の数々は紙片にとっての餌だと取れる。

 ぱたん、と周がノートパソコンを閉じた音がやたら大きく聞こえてびくと肩が揺れる。いつの間にか身を強ばらせていたようだった。

「さて、それじゃ次。異劫についてはさっき以上の説明は僕らもまだ出来ない。何せ発生原因もどのような理由で何故僕らを襲い、脅威となっているのか、あれらに知能はあるのか、その辺りも不明。接触する度にある程度の変化が見られるし、個体差は大きい。構成物質の大凡はこちら側との“定着率”で変化するっていうのが現状実証データとしてとれている。大体はナトリウムイオン・カリウムイオン――電解質だね、これらが必ず構成に含まれていたりして、こちら側の生物に似た要素も持つ……見た目あんなだけど」

 一度言葉を切った周が、真っ直ぐに茉莉花に視線を合わせてきた。

 落ち着かない。されたこともなかったけれど、こういう気分なんじゃないかと思えた。

 死刑宣告を、される手前の気分とは。

「異劫は特殊な方法でしか倒す事が出来ない。君が見た獣は聖躯せいくという。これは力ある聖人の聖遺物を身に宿す適合を持った特殊な人間のことを言う。彼等は異劫の対抗策のひとつ。そしてもうひとつが、君が宿した紙片の力」

「わたしに、……異劫と戦えっていうんですか」

「酷なようだけれど、先も述べた通り僕らは常に時間と人員不足でね。いやあ、ほんと困るんだよね、人手は足りないのに異劫は出てくるし、好き勝手やってく」

 おどけて言う周の瞳は、口先ほどに穏健な雰囲気を宿していなかった。

 冷え切った目をしている。

「君は紙片が満足するまで、凡そ一生共に生きなくてはならない。ここに居ればサポートが出来る。申し訳ないけれど、君の力を利用させてもらいたい。世界を救えだなんて言わないよ。君は、君の友人や家族が異劫に殺されるところが見たいかい? 見たくないよね。見なくても済む方法がある。君のこれまでの日常を、君が非日常だと思っていた立ち位置から守るんだ」

 胃の腑に、重石がいくつものし掛かったみたいだ。漬物石なんてものじゃない。ずるずる引き摺られて、身体まるごと、とんでもない底に落とされる。

「じゃあ、フォローが必要な要因の二つ目といこう。紙片は発見次第即、古書の形状に固めることを前提としている。AEUとして認識している情報では、紙片が宿主の中に入っていたとしても剥き出しの状態であるのは非常に不安定だからだ。君の紙片は今、素のままの状態で君の中にある。ディミトリのようにアウトプット装置として変換されていない。これには外的世界の要素をこちら側の要素として固める特殊な力を持った人間が必要だが、そんなことが出来るの、一般人にいると思うかい? こういう言い方はずるいけれど、例えば君がここで僕らの申し出を断ったとする。君はその力を持て余し、制御法も知らぬままにどうやって生きていくのか。あと、一番の問題はあの異劫だ」

 言葉を切って、周が悠々と口にするカップを見つめる。茉莉花に用意されたものは既に冷え切っているだろうなと余計な事を考えるが、現実逃避も良いところだった。

「異劫は紙片を取り込みたがる。紙片は宿主を探して飛び回るが、回収する際にいつも異劫と鉢合わせるんだ。さらに、――君を、先日襲った異劫は紙片を身に宿している」

「おまえが口にしただろう、俺以外の紙の匂いがすると。俺も近付いて漸く気付いた程度だが、あれは確実に紙片を持っている。紙片同士は引き合う習性もあると前に話したと思うが……そう外した推論ではない」

 あの異劫は、最初に茉莉花を狙っていた。けれどディミトリが古書を取りだし走り出した瞬間にそちらに気を取られていた。

 紙片と向き合うだけでもキャパシティーオーバーも良いところなのに、あのばけものからも狙われるのか。

「初めてなんだよねえ、異劫が紙片を飲み込んだのって。異劫って具現時に探知出来るもので、ここは異劫避けっていう特殊結界内に位置してるから目眩ましも兼ねてそもそも近寄れない筈なんだけど、どういうわけかあの異劫は簡単に施設内に入り込んで、しかも気配すら悟らせない」

 指先が固まったように動かない。息が、吐きづらい。

「現状、施設に対しての目眩ましや取れる対応策は全て取ったところだよ。でもそれはこの施設限定だ。さらにあの紙片持ちの異劫は索敵がままならない。そこで茉莉花くんが必要なんだよ、君は異劫の“におい”を、AEUにいる誰よりも早く嗅ぎつけることができた」

 この研究所限定。

 外に出た際の対応策は、ないということを言いたいのだ。

「さっさとあの紙片持ちをどうにかしてしまいたくはないかい?」

「……断れないじゃ、ないですか」

「そうだね。ずるい言い方だけど、君に選択権は殆ど無いんだ。それが、――選ばれたということだよ」

 息を長く吐く。そうでもしなければまともに考えられなかった。

 誰がこんなこと予測出来たか。穏やかな日常が遠い。

 何も知らずに死ぬのは、嫌だと思った。予測も出来なければ結末に納得が出来ない映画は嫌いだ。

 目の前が真っ暗になる。ぐるぐる腹の中身が暴れた。身体を折って顔を伏してしまいたかったが、一度伏してしまえば起き上がれそうになかった。それだけはしたくなかった。

 ――怖い。

 実際泣き出しそうなくらい怖かった。わけがわからない。何故自分がこんな状況下に置かれているのか、理不尽ではないのか。

 でも喚いても事態は変わりはしないし、あんまりのことで、頭の中が真っ白になりかけていた。

 一生ここにいるわけには、いかない。

 君は、君の友人や家族が異劫に殺されるところが見たいかい。

 周の言葉は的確だ。この質問に、首を縦に振れるわけない。

「――はい、そうですか、わたしでよければ、がんばります……、とは、急には言えません」

 このまま断り、もとの生活に戻ったとする。出来たとしてもそれは一瞬だろう。異劫は紙片を取り込みたがる。周の言葉が正しければ、あの化物は再び茉莉花を“喰い”にやってくる。紙片持ちと言われているあの異劫を倒したとしても、紙片に異劫は引き寄せられる。何の対策もないままでいれば簡単に命は奪われる。その上、化物は茉莉花だけを喰って去ってくれるなど甘い考え方も出来ない。その時、その場に、居合わせた者達が居たとしたら。

 巻き込むことになるのだろうか。

 吐気が込み上げる。生唾を飲み込んで真っ直ぐに背筋を伸ばしているだけで精一杯だ。

 何よりその仮定は既に成立もしなければ、茉莉花の行く末など決まり切ったことと捉えることもできた。

「まあ、そうだね。まずは当座の問題、紙片持ちをどうにかすることが、君自身が君を守ることにも繋がる……そこだけでも協力して貰えると有り難いんだけれどね?」

 指先から震えが走って掌を握り込んだが既に痛みがない。

 頷くより他の選択肢は存在しなかった。

 満足そうに周が笑う。


 見事に迷い込んだ、と思った。今までの日常が遠い。

 全ての解釈が狂って行く。




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