日常の解釈について .7

 ちろん、とまたチャイムの音が鳴ったので立ち上がり、返事をしつつ扉の前に立つ。スライドした扉の向こうにはディミトリがいた。

「着替えたか。診察で何か言われたか?」

「いえ、特には、……あの、わたしもお礼しそびれました。庇っていただいて、ありがとうございます」

 すっかりタイミングを逃していたが、異劫に跳ね飛ばされた時に身体を打たないよう、ディミトリに庇って貰っていたのに礼を言っていなかった。言えば、「なんだ、そんなことか」と事も無げにディミトリが笑う。

「なに、気にすることはない。俺の方こそおまえに助けられた。茉莉花の力が無ければ三人ともあそこで死んでいたのは確実だ。しかし……、そう他人行儀にしてくれるな。数少ない同じ境遇の人間なんだ、あまり気を遣われることになれていない性分でなあ。呼び捨てで構わん」

 瑠璃の瞳に柔らかい色を灯してまた頭を撫でられた。出会ったばかりの年上の男性に頭を撫でられたことはないが決して不快には感じなかった。ふと胸に何か違和感が落ちたが、首を傾げるだけで茉莉花はそのことについて考えるのは一旦止めておいた。「いやでも、」などと口籠もって返せば咎めるような視線が飛んだあとに苦笑いされた。本当に気を遣うなと言われているようだ。

「さて、それじゃあ場所を移すか。すまないが、少し手伝って貰いたい」

 何を言い出されるのかと思ったが、手伝いの内容はなんてことのないものだった。ディミトリが病室の外に用意していた台車に本を乗せる手伝いであった。

「これ、ディミト、リの……私物?」

「私物と言えば私物だ。実益と趣味」

 エレベータホールに連れられて向かい、到着したエレベータに乗り込んでB3のパネルを押し込む。

 地下三階の廊下は忙しなく歩き回る人間と多くすれ違った。「普段はこんなじゃないんだがな」とディミトリが付け加える。ディミトリに会釈して通り過ぎる者も居た。そしてその誰もが、茉莉花のことを奇異の目で見つめてきていた。

 まあ、こんなところに茉莉花のような小娘がいること自体可笑しいのだろう。研究所だと聞いていたし、余計だ。学生にはあまりに縁遠い場所だ。

 エレベータホールを出てすぐに見えた左側に横にスライドする自動ドアは病室に取り付けられたいたものよりもずっと大きい。大人二人が並んで通っても問題ないくらいの幅がある。丁度出入りしている人間の肩越しに中を見てみると、デスクや椅子、その奥に電子機器が並んでいるのが一瞬だけ見えた。別館の構造は建物の真ん中に一つエレベータが通っており、そこを中心に部屋が配置されている。中央のエレベータ以外にも搬入用エレベータが東側に一つ。エレベータホールを挟んで南側と北側両端に部屋を設けているとディミトリが説明してくれた。

 廊下を暫く歩いていると、前方の両開きの大きな扉の前に出た。

「ここは?」

「第三地下書庫。地下十階に第一、第二地下書庫があるがどちらも重要機密事項で溢れかえっている上に貴重な書物の宝庫だ。ここは俺が後から作った蔵書置き場だったんだが、いつの間にかナンバリングまで与えられて別の人間も兼用する資料置き場にされた」

 扉横に取り付けられた電子ロックパネルの上を指が弾くと重たい扉が少しだけ動いた。ディミトリが押し込むと、中から本特有の籠もった匂いが鼻先に届く。廊下と比べるとひんやりする。

「おまえが飲み込んだ、紙片について詳しく話をしよう。黄金の驢馬について、名前以外に何か聞いた事は?」

 大量の書架に囲まれたその場所は、インクと紙の香りで満ちていた。ディミトリの質問に首を左右に振る。知るわけもない。素直に、金色に装飾されたかペンキか何かで塗られてしまった動物のロバが頭に浮かぶが、きっと違うだろう。

「変容、変身物語、という名の方がポピュラーか……あれはそもそも、崩壊した正宗教が特に弾圧したがった宗派の教典のオマージュみたいなものでな。当時は教養小説として知られている」

 魔法薬に興味を示した青年がひょんなことからロバに転じてしまい方々を彷徨い、様々な苦難に見舞われ、最終的には女神に救われる――といった主旨の話だ。途中までは聞いていて想像もしがいがあったけれど、でも何となくオチが気に食わなかった。結局神頼みというか。茉莉花の好むタイプの話でないのは確かで、主人公が独力で危機を脱するわけではないから映画にしてもさして面白くもなさそうだと思った。

「著者であるアプレイウスという男は帝政ローマ時代の弁論家だ。哲学、修辞学を学んでいた他、その時代では魔術と呼ばれていた神秘的なカテゴリにも興味を持っていたそうだ。彼については、こちら側の見解では落ちた神から世界の真理を聞き、黄金の驢馬を書き記したと言われている」

「待って、でも、教養小説なんでしょ? それなのに、なんで世界の真理なんてものに繋がるような大袈裟なことになるの?」

「黄金の驢馬は実際にはふたつある。現在原典の一つは我がロスメルタ家が保有している。とはいえ、俺は分家の出身だから紙片を取り込まなければそうそう関わり合いになる立ち位置にはいなかったんだがな……もう一つは、これが表向きに知られている“ものがたり”としての黄金の驢馬だ。これらを何故二つ残したかは、わかっていないがな」

 ディミトリは元々、黄金の驢馬の存在を知っていたのか。

 手招きをされて、茉莉花は導かれるように本の海を進む。大理石の床は走り書きの紙や積み上げられた本が散乱していた。高く取られた天井には等間隔でシャンデリアが吊ってある。よく見れば書架の奥に階段が幾つか備え付けられていて、所々にはしごもある。地下三階と二階を吹き抜けにしてあるのだ。壁に埋め込まれた書架は天井に届くほどの高さがあった。一体どれだけの数の本を所有しているのか見当も付かない。

「えーと……、その、片方の黄金の……ろば、は、凄い知識の塊って想定でいいの? 前に話して貰った通り、世界の真理が丸ごと詰まってる本で、……でもそれじゃ、誰にでも読めるんじゃ……?」

「真理が記された驢馬に関して言えば、ロスメルタ家の当主格たる女性唯一人にしか読み解けない。あとでおまえもわかるだろうが、写本に関しても同様だ。紙片保持者であっても真理までは読み解けん。そう簡単に詳らかになっていたら、今頃“魔法”は世の中で我が物顔で利用され文明レベルは倍速状態で進んでいるだろうな」

 淡々と語られる声は心地が良く、しかし耳にしっかりと残り情報として刻みつけていく。

 書庫の奥、唯一周辺にものが散らばっておらず、片付けられているソファーに座るように促されて素直に腰を下ろす。ローテーブルを挟んで三人掛けのソファーがふたつと一人掛けのソファーがひとつ。書架が填まっていない壁には二つ扉がある。片方は洗面所とシャワールーム、もう一つはキッチンだとディミトリは言った。普通にここに住めそうだ。

「珈琲は飲めるか?」

「あんまり、……珈琲牛乳ならコンビニとかで買って、たまに飲むけど」

「そうか……すまんな、飲み物といってもろくなものがないんだ……紅茶のひとつでも用意しておくべきだった」

「い、いいよ別に、……珈琲、好きなの?」

「いいや? 実は俺もさして好きじゃないんだが、カフェインの恩恵に与りたいだけだ」

 床に直置きされた珈琲メーカー、ソファ横に設置してあった小型冷蔵庫など、人が住めるような状態、というよりも完全に誰か住んでいそうな状態だ。ディミトリは壁際の扉片方を開けて暫く中で何かしたあと、盆を持って戻ってきた。最初に目覚めた時と同じく、トレーの上に緩い粥とカットされた林檎が乗っていた。事前に運んでくれていたようだ。空腹感はないけれど、身体のためにも食べておくべきだろう。小武方にも言われている。ディミトリは珈琲メーカーに豆をセットしてスイッチを入れ、珈琲の抽出を始めていた。豆を挽く香ばしい匂いが漂って来る。

「匂いだけなら好きなんだけどな」

「そうだな。こんなに苦くなかったらもっと良かったと俺も昔はよく思った」

 全体量の半分ほど食べて、朝食は終わった。やはりまだ落ち着かない。申し訳ない気持ちは変わらずにあったが、ディミトリは何も言わなかった。

 皿をローテーブルの端に置いたところで、茉莉花は「はい」と軽く挙手してディミトリを見た。

「そもそも、なんでこんな写本なんて作ったの? 当主にしか読み解けないなら、あんまり意味があるようには思えないけど……」

「写本の出所や誕生理由に関しては、俺も知りたいところだ。だがどうにも本家は秘密主義でな。あれこれ誤魔化されて、調べようにも上手くいかん」

 そこまで聞いて、茉莉花は深く溜息を吐いてソファーの背もたれに身体を預けて高い天井を見上げた。

「……だめだ……混乱してきた……ちょっと待って、……頭痛くなりそう……」

「まあ無理もないな。しかし、これからもっと驚くべきものが待って居るぞ。驚嘆なんて、彼方に捨てさられて据わった肝が残るだけだ」

 肩を揺らして笑っていたが、ディミトリは相変わらず珈琲を不味そうに啜っていた。

 こういうことが、当たり前なのだ。

 彼にとってあのわけのわからない紙片という存在は、当たり前に日常に溶け込んでいるとまざまざと茉莉花に見せつけているような態度に思えた。

「さて、ここからが本題なんだが、少し長くなる。我が“機関”の長たる人間も交えて説明しようと思うが……」

 珈琲カップをテーブルに置いて、ディミトリが動いた。茉莉花が座っている三人掛けソファーとは別に置かれているハイバックソファーの真後ろに回る。

 ごつ、と何かがぶつかる鈍い音がして、「――いった!!」と誰かが呻く声がする。

「おっと、この粗大ゴミ、喋るのか」

「ディミトリ……僕の扱いほんと酷いよね……あー……でもいいや、疲れたからなんでもいいしおなかすいた……」

「先の戦闘時の功労者を連れて来たんだ、しゃきっとしろ、殿

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