01: 日常の解釈について

日常の解釈について .1

 人生平凡が一番、とは正直思った事はない。かといって、趣味で目にする映画のように劇的な展開を望んでもいない。中途半端であることは認める。でも人間の性として何かしらの刺激を求めてしまう。空想の中でくらいなら求めても罰は当たらないだろう。何せ、それらは絶対に現実にはならないと思っていた。

 この時まではそう信じていた。

 なるようになるのだろうし、自分の人生は今際の際で「ああ、こんなものかあ」くらいの、平凡で、常識的で、一般的且つ大多数的なものに成り行くのだろうと思い込んでいた。

 グロテスクなモンスターも、巨大な獣も、そんなのはスクリーンの向こう側の出来事だ。


 ――話し声がする。

 だれだろう。思ったけれど身体が動かなかった。

 ぼやけた視界の端に、鈍くひかる銀灰が見えた気がした。



 目を開けて最初に見たのは真っ白い天井だった。つんと鼻先を刺す消毒液のにおい。自分の部屋ではない。身動ぎすれば硬いシーツが擦れた。全身が重たいけれど首を動かす事が出来て、腕も動きそうだった。腕を張って上半身を起こしてぎょっとする。ぱらりと視界の端に自分の長い黒髪が揺れたのと右腕に針が刺さっているのが見える。点滴だと一拍遅れて気が付いて辺りを見回す。

 パイプベッドの真横に点滴台。その向こうに緑色の線が走る心電図が見えたが映画やドラマで見るようなものとは違った。心拍に合わせて鳴る電子音、バイタルサインと共に多面体と無数に散りばめられた知らない言語で綴られた単語が並ぶ。英語だろうか。さっぱり理解出来なかった。

 なんだろう、ここ。なんで、こんなところで寝ているんだ。

 随分と頭ははっきりしてきていたのに上手く思い出せなかった。

「なんだ、もう少し待たせれば良かったな」

 息を吸い込んだ途端喉に引っ掛かって、少し噎せた。喉がからからしているのに気付く。身体は別になんの痛みも訴えない。知らない男の声がしてベッドの上で慌てて身を固くした。

 視線を上げると、長い前髪で片目を隠した丸眼鏡の男が立っていた。三十代前半くらいだろうか、所々黒く汚れた白衣を身に纏っていて、背が高そうだ。白衣、――単純にそんなものを着るのだから医者だろうかと思ったがどうしてかそうは見えなかった。鼻先に紙とインクの匂いが強烈に突き付けられたからだろうか。男は離れた位置に立っている。相当な匂いを放っていないと届きそうにないというのに嗅覚は古い紙の、本好きの友人に付き合って何度か足を運んだ時に感じた、古本屋でよく嗅ぐにおいを纏っていた。

 瓶詰めされた香辛料みたいな髪色を持つ男の瞳は宝石のようだった。肌の色も黄色人種ではない。瑠璃色の瞳に、金茶の髪、青く透き通る白い肌、高い鼻筋。西洋人だ、と更に身を強ばらせた。

「だ、だれ……っ、なに、外国人……、なんで、――待って英語しゃべれな……、」

「英語? ああ、まず最初にそんなことを気にするのか。随分と肝が据わっているようで安心した。ところで俺が発音している言語が英語かどうか問いたいんだが、何語に聞こえる?」

 目を白黒させているうちに男が近付いてきた。言葉の内容が理解出来た。偉く流暢な日本語で、剽軽にすら感じさせる言葉選びで話し掛けられているのに気付いて肩の力が一瞬抜けた。

「ほら、水でも飲んで落ち着くと良い。痛みはあるか? 全く、どうなるかと思ったが、しぶとそうだ」

 くつくつと喉で笑いながら男がコップを差し出して来た。

 なんだか、良い匂いだ。やはり古本の匂いが濃い。あれ、とふと引っ掛かる。今まで『本が良い匂い』だなんて思った事なんてない。でも良い匂いなのだ。ずっと本に埋もれていたらこんな匂いになるのだろうかとコップを受け取り、一口喉に流し込む。

「今ドクターを呼ぶ」

「……ドクター……? なに、ここ、どこ……?」

「自分の名前は言えるか?」

「――、日向ひなた茉莉花まつりか……」

「茉莉花、ジャスミンか。では、茉莉花。設問だ。俺の“におい”はどんなものかわかるか?」

 茉莉花が座るベッドに勝手に腰掛けて、男は口元を吊り上げたまま手を伸ばして真横に転がっていたナースコールを押していく。初対面でいきなり名を呼び捨てにされるとは思ってもみなかったが、流石西洋人というべきなのかどうなのか、関係はないかも知れないがさして嫌味もひっかかりもなくすとんと耳に馴染んだ。視線だけで返答を要求される。普通、「どんな匂いだ」なんて聞かれてもぱっと答えは出てこない。香水だとか、体臭だとか、余程匂わなければ難しい。だけれど、さっきからずっと気になっている男の“匂い”は考えるまでもなく答えられる。

「かみの、……古い、紙と、インク。古本の、匂いがします」

「ふむ。残念だったな」

 一瞬だけ、瑠璃色が悲壮の色合いを見せた。なんなのだ。身体に掛かっていた毛布をぎゅうと握って手繰り寄せた。

 すぐに長い白衣とナース服を身に纏った人間が数名入って来た。あれこれと体調に関して質問をされ、呆気に取られているうちに聴診器を胸に当てられる。点滴も外された。茉莉花を置き去りにして医師と看護師が忙しなく二、三言意見を交わして病室を出て行った。質問する余地など無かった。病室の隅で茉莉花を眺めていた男が再び近寄ってくる。

「……、あの」

 頭の中がぐるぐると回って、何を考えていいのかわからない。質問には答えられた。でも何を質問したら良いのか、判断が出来なかった。聞きたいことは山ほどあったが喉元で渋滞でも起こしたように上手く言葉に出来ない。

 感覚が、麻痺している。

「焦る必要はない。これから説明するから、まずは着替えておけ」

 ベッドサイドテーブルに綺麗に畳まれた衣服を指さして、男は食事を貰ってくると言って外に出てしまった。

 なんだか夢見心地だ。何故こんなところにいるのか、よく思い出せないことに気付く。

 ちかちかと脳裏で何かが光るのに、必死にそれから目を逸らそうとしていてざわざわと胸の中が落ち着かなかった。感情を抑えつけているとわかっていても、やめて重石を外してしまった時にどうなるのか、茉莉花にはわからなかった。

 着替えながら反復するようにいくらかの質問を己に課した。

 日向茉莉花。自分の名前だ。十六歳。今日は三月十一日。神奈川県の鎌倉に住んでいる。公立把賀谷はがや高等学校一年C組だったが四月になれば二年になる。両親と住んでいて、兄弟は居ない。代わりに年上の従姉を姉の様に慕っている。

 ここまでは問題なく思い出せる。少し安心した。

 衣服を持ち上げるとすぐ隣に文庫本が置かれているのが目に入って首を傾げた。さっきの人の持ち物だろうかとさして気にも留めずに下着を着けようとふと胸元に視線を落とす。

「……え」

 皮膚が抉れている。

 ぞわと背筋を悪寒が走り、吐き気が起こる。左乳房の真上、ささやかに丘を成すラインの上を真横に一本の太い線が走る。表層がケロイドのようになっていた。今更になってばくばくと心臓が早鐘のように鳴る。

 黄金の蜜色、銀を散らした青、夜明けの空。銀灰の、毛並み。

 背から触手を放出する、かいぶつ。

 灰褐色で塗りつぶされた肌、側頭部から腕を生やした異形。

「――っ」

 記憶が溢れかえってパニックになりかけたところで、高い電子音が鳴った。ちろりんと愛らしい音を立てる。はっとした。なんだかわからなかったが手早く下着をつけて上から真っ白い半袖のTシャツを被り、細身のパンツを穿いた。裾丈に至るまでサイズはぴったりである。ベッドの横にハンガーで掛けられていた厚手のニットカーディガンを肩に羽織る。

 ちろりん、ともう一度音が鳴った。漸く呼び鈴だと気付いて「はい」と返事を返しながら慌てて立ち上がろうとした。

 ぷしゅ、と扉が自動で横にスライドするのと、茉莉花がバランスを崩してベッドに尻餅をつくのは殆ど同時だった。起き上がれはしたが立ち上がるのを急きすぎたか。貧血のような目眩が襲う。

「っ、わ……!」

「……なにをしているんだ」

 短く、不可解そうな声が耳をついて顔を上げた。

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