第32話 スイッチ

 桜の花びらが散り落ちるように、世界がぼろぼろと崩れていく。空には大きなひびが入り、大地は割れ、海は滝となり世界を押し流した。壊れていく世界の中で、魔王は剣に貫かれたままの勇者の亡骸を抱いて虚ろに世界の終わりを見つめるばかり。


 空の割れ目が太陽の光を飲み込んだとき、魔王は神が世界を見捨てたことを知った。世界のありとあらゆるものが、力を失ったことを感じる。いつの間にか、部屋に散らばっていた桜の花びらは全て朽ちていた。


「あの桜の木が、死んだのか」


 世界の全てが崩れ落ちても彼にはちっとも惜しくはなかったが、二人の思い出の桜が死んだことは悔しくて仕方がない。桜の下での二人の思い出を思い返していると、虚無に支配されていた魔王の心にある感情が生まれた。


 なぜ、神は『スイッチ』を押さなければ滅びるような欠陥品の世界を創ったのか。なぜ、その『スイッチ』に自分とフェルシを選んだのか。全ての過ちは神の采配によるものだというのに、なぜ最後に神はこの世界を見捨てるのか。それらはやがて、神への強い怨嗟へと変わる。


「そうか」


 そのとき、魔王は気づいた。光を失い、闇に支配され、崩壊を待つこの世界に、最後に残された力があるということに。


「もう、この世界に神はいない」


 世界の理の全ては、神の定めたものだ。神が自分の都合の良いように創り、守らせたもの。けれど、その神はもういない。


 魔王は開け放たれた窓に向かう。その眼下に見えるものは、もはや世界とも呼べない砕け散る寸前の欠陥品。そこに残る、踏みにじられた数多の魂の無念を彼は痛いほどに感じた。


「悔しくないか?」


 滅びゆく世界に、魔王は呼びかける。


「恨めしくはないか?」


 勇者の亡骸を、強く抱きしめたまま。


「我々の世界を、命を踏みにじった愚かな神に復讐したくはないか!?」


 その言葉に応じるかのように、紫色の光を帯びた強大な力が魔王の元に集まっていく。それはこの世界の消えゆく魂の残滓であり、かつてどこかで消え去った世界の怨念の欠片でもあった。


「踏みにじられた全ての魂よ、力を貸してくれ! お前たちに代わって、俺が神を断罪しよう!」


 やがて紫色の光は、魔王の背中の羽根となって魔王に取り込まれていく。怨嗟のこもった蝶の羽根を得た魔王は、勇者の亡骸を床に横たえると闇の魔法陣を描き始めた。


 闇は勇者の体を包み込む。みるみるうちにその体に残されていた傷は消え去り、突き刺さった剣がカランと音を立てて落ちた。彼を包む闇が消え去り、勇者はゆっくりと立ち上がる。


「ルトロス……? なん、で……」


 信じられないといった様子で魔王を見つめる勇者の姿は死ぬ前とほぼ変わらない。ただ、真っ白だった髪は闇の黒に、桃色の瞳は血の赤に染まっていた。


「死んだ者は生き返らない。それは神が決めた理だ」


 魔王はゆっくりと蘇った勇者に歩み寄る。


「だが、神はもういない。禁忌を咎める者はもういないんだ。直にこの世界は崩壊する。だが、神は別の世界を創りのうのうと暮らしているんだろう。そんなことが許されると思うか? 本当にそれが、正義だと思うか?」


 戸惑う勇者を、魔王は優しく抱きしめた。


「そんなはずはないだろう。誰かが罪深き神を罰せねばならない。俺たちにはそれが出来るんだ、フェルシ。神の庇護下を逃れ、『禁忌』を操る俺たちになら」


 地響きが聞こえる。世界の完全な終わりは目前だった。もうすぐ、二人の立つ魔王の玉座の間も、跡形もなく崩壊する。


「俺の剣になってくれ、フェルシ。世界の崩壊の間際、必ず神は現れる。崩壊しかけた世界を渡り歩き、愚かな神を罰しよう。『世界を再構築するスイッチ』だった俺たちなら、『神の手によらない新たな世界を創るスイッチ』になれるはずなんだ」


 もう、完全に空は粉々になって消えていた。かつて空があった場所に広がるのは無限の闇。それは数多の世界の狭間であり、神の領域だった。


「一緒に行ってくれるか?」


 もはや人ではない姿をして、父であり兄のような存在が勇者に手を差し伸べる。ずっと、魔王と二人で生きていくことだけが望みだった勇者にとって、その手を取らない選択肢はあるはずもなかった。


「行くよ。正義のために、神を殺そう」


 勇者を抱いて、魔王は禁忌の羽根で次の世界へと飛び立つ。彼らが完全にこの世界を後にした瞬間、世界は砂の城が崩れるように、あっという間に消滅した。そこに世界が存在していたことを物語るものは、何一つ残らなかった。

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