第35話 実家の思い出

 小学生の頃、毎年夏休みになると海の近い母親の実家へ泊まりに行った。


 母親からすれば里帰りということになるのだろう。実家は河口の湊町で、母の姉である伯母夫婦が雑貨屋を営んでいた。昔は釣りのための船宿もやっていたらしいのだが、その頃にはやめてしまっていた。


 かなり古い家だったので傷みもはげしく陰気な感じだし、何よりゴカイと魚臭いのが好きになれなかった。


 家の造りは母屋が広道に面した家業の店とエル字型というか鍵型になっていて、凹んだ部分の中庭と奥の畑を区切る様に渡り廊下が有り、客室にしていた切妻屋根の離れに繋がっていた。私たちはその年は離れに泊まる事になった。


 離れの部屋は二部屋。どちらも十畳ほどだったと思う。旅館の様に本当に客を泊めるあしらいになっているのではなく、うなぎの寝床というか山小屋の素泊まりの部屋の感じだったので、その素っ気なさが民宿としてもあんまりだなと、子ども心にも思ったのを覚えている。


 後から母に聞いた話によると、宿泊は朝早い釣り客が、前の日にどうしても泊まりたいと言ってきた時だけに活用していただけらしい。


 実家の前は道を挟んで向こう側は大きな川で、海の方に一キロも行けば漁港がある。河口も船泊りになっていた。風はいつも湿っていて魚と重油の臭いをまとっていた。


 川沿いの道は実家の店の隣の家から切り立った崖になっていて五、六メートルほどの高さがあったと思う。崖の上はほとんどが雑木林で鬱蒼としていた。


 実家と隣との間には砂利の坂道が在って、離れの家屋はその道に沿う様に建っている。部屋に続く土間の様なコンクリの長い廊下がその坂道に面していて、窓から抜け出せば坂道に這い出る事が出来るくらい隙間もない境だった。


 その坂道は真っ直ぐ行っても途中で行き止まりで、右手にかなり傾斜のきつい苔むした石段があり、崖の上のお社と言うかお堂に繋がっている。鳥居は見当たらないので神社ではないとは思う。  お堂にたどり着く前にまた左手に登る坂道が在って、それを行けば高校のグランドの端に辿り着くのだ。夏休み中に手入れされず徒長した芝生にバッタを捕まえに何度か行った事があった。



 夜、食事を終え風呂も済ませば、もうやる事は何もない。その頃は携帯ゲームなどはなくてテレビかラジオ。どちらも母屋にはあったけど、泊まる部屋には無かった。日も沈めば都会と違って辺りはとてつもなく瞑い。虫の音と蛙の声しか聞こえない。家族で明日の予定など少し話をしたらもう布団に潜って眠るしかない。持ってきた本は読み飽きて、海で泳いで疲れた体は割とすんなりと眠る事ができた。


 が、夜半にもよおして目を覚ます事がある。その日の夜もそうだった。時計を見ると一時を回っていた。両親も弟もぐっすりと眠っている。私は心細かったが一人でトイレへ行くことにした。部屋の障子を開けて膝丈下の土間廊下に降りる。敷いてある簀子の上をスリッパを履いて突き当たりの扉へ向かう。


 廊下の電灯は宿をやめた後に節電の為たった一つだけだった。六十ワットほどの明かりが心もとない。


 扉にたどり着いた時に、戻って母親に着いて来てもらおうかと思ったのだが、後は用を済ますだけなのでやめた。トイレの灯りは更に暗い。なんでわざわざこんなにトイレを暗くするのだろうと泣きたくなった。何とか済ませて扉を出て廊下に向かった。      


 その時、ザリリという音が聞こえてきた。


 それは砂利道を踏みしめる足音の様に聞こえる。窓の向こうの外。こんな夜中にあの坂道を誰かが歩いている。


 ザリリザリリ……


 坂の下の方から聞こえてくる。


 ザリリザリリ……


 ゆっくりと、それはゆっくりと。


 ザリリザリリ……ザリリザリリ……


 一人ではない足音。

 地面を踏みしめる様に。


 動けない。私は慄いてしまって声も出せずにその場にへたり込んでしまった。


 ザリリザリリザリリザリリ……


 段々と窓の外の辺りにその音は近づいて来ていた。窓は廊下の長さの半分ほど、三メートル。引き窓は六つ。外は瞑いが内の明かりで坂道の縁が見える。縁だけが見える。それだけなのに縁が恐い。音が縁から聞こえる。そう思った。でも坂の下からやってくる。何か。


 ザリ、ザリ、ザリ、ザリ


 ああ、聞こえる。もうすぐ窓の所だ。


 ザリ、ザリ、ザリ、ザリ


 少し早まった足音。私の心臓の音がそれよりも大きくて速い。きっと聴こえてしまう。


 私は縮こまって目をつぶっていた。胸を抑えて縮こまった。この世で一番小さくなる様に。知られない様に。見つからない様に。


 ザリッ、


 不意に足音が止んだ。


 ……もう何秒……一分……二分……


 私はそっと目蓋を薄く開けた。


 廊下は相変わらず薄暗い。

 私は思わず窓の外を見てしまった。


 坂道。窓の外。


 そこに白い足袋の足が一つ、二つ……三つ、四つ。先に二人分、間を少し空いて二人分。そこに動かず止まっている。


 私は固唾を飲んだ。


 足首も脛も白い布でくるまれている。


 なぜそこで止まっているの……


 しばらくしてその足たちはゆっくりと動き出した。坂道を登ってゆくのだ。


 ザクザクザクザク……


 窓からやがて見えなくなった。


 私は少しホッとした。


 部屋に戻るため立ち上がろうとしてふっと窓の方を見ると、1人分の白い足袋足が坂道にあった。


 真っ白ではなく少し黄ばんで泥も着いた足袋。


 やがてその足はつま先をこちらに向けた。


 それはもうゆっくりとゆっくりと……


 ザリリ……


 上の方から仄暗い提灯が垂れ下がって来て、こちらを照らす様に左右に揺らす手先が見えた。


 白い、少し老けた女の指先が提灯を摘んでいる。


 そして足はゆっくりとかがみ込んで、白い装束の体が見えた。鼠色の長い頭髪がひらひらと窓に近づいて来た。


 探している。


 探しているんだ。


 ぎろぎろと目玉が見つけようとしている。


 私を見つけようとしているんだ。


 体は動けないのに歯だけがカタカタと震えている。


 その音。きっと知られてしまった。


 髪の毛の合間からその顔の口元がニヤリと笑ったのがわかった。


「いるんだろう? ……そこに」


 あれがこちらを向いた時、私は気を失った。



 早朝、私は弟に起こされた。


「姉ちゃん、こないなトコで寝てたら風邪ひくで。布団に戻りぃ」トイレから戻った弟はいつも通り。部屋では両親はまだ寝ていた。


 雀が鳴いているなんて事のない朝だ。


 その日、私は日がなボーッとしていた。


 次の日は家に帰る日だった。店の前で駅までのタクシーを待っていた。


「またな。来年も来んさい」伯母さんが屈託のない笑顔で言う。遠くから汽笛が聞こえる。重油の臭い。港で漁船のエンジンが唸っている。


 もう此処には来たくないと思いながらふと崖の上のお堂の辺りを見た。


 何かひらひらとした白い物がこちらを見ていた。いや、ただ布の様な物が風にたなびいているだけだった。


 あれから私は一度も母の実家には家族に着いていかなかったが、伯母が亡くなったので葬儀の為に今、実家に来ている。伯父さんの勧めで今夜は実家に泊まる事になった。


 建て直した実家に離れは無くなっていたが、母屋からは坂道もお堂もよく見える様になっていた。あの白いひらひらとした物もよく見える。向こうからもよく見えるだろう。


 ひらひらと……見ている。









いるんだろう?・・そこに……




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